第3話
同じ棟の西隣に住んでいる山村さんと、向かいの棟の佐久間さんが「大丈夫?」と駆け寄ってきた。糠みそと、焼酎の匂いがした。
ガーゼとテープで顎を押さえてもらうと、心臓の鼓動と同期する痛みが始まった。顔をしかめて顎に触れようとすると、佐久間さんが「さわっては駄目よ」と僕の拳をそっと掴んだ。「何か持っているの?」と、山村さんが僕の拳を開かせると、僕は、欠けた歯を握り締めていたのだった。
このとき、母がどこに行ったのか、僕は知らない。母が山村さんに何か耳打ちをして、山村さんが小さくうなづくのを見た気がする。とにかく母の背中は、長屋団地の路地をフラフラと遠ざかっていったのだった。
「見つかるといいわね」
「イハラさんの鑑札は黄色だったかしら」
「ええ。キ列八宅。逃げたのはオスかしら。それともメスの方?」
「オスだったら、ヱ列三宅の黒川さんのとこに雛鳥がいるから、頼めばもらえるかもしれないわね」
「そうね。ともかく大隈さんの耳に入る前に、なんとかなるといいのだけど」
僕は山村さんと佐久間さんの会話を聞きながら、路地が次第に暗くなるのをぼんやりと見ていた。
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