十姉妹が逃げた日

新出既出

第1話

十姉妹が逃げた。

 母は十姉妹の世話をするために、いつものように玄関扉と勝手口と、北の腰窓と南の掃き出し窓をきちんと閉じてから、薄暗い玄関の下駄箱の上に置いてある鳥かごの前に立った。そして、その入り口をそっと人差し指で押し上げたとき、扇風機に結び付けてあった水色のビニール紐がカサカサと音を立てた。

 母の注意が一瞬そちらに逸れた。

 僕が空き地から戻ってきたのは、そんな瞬間だったのかもしれない。

 いつも開けっ放しになっている玄関扉が、その時は閉じていたことの意味を、普段の僕だったらきっと推測できていたに違いなかった。だが、その時の僕は、口の中に血が溢れ、顎の先端からも夥しい出血に見舞われていて、普通の精神状態ではなかった。

 「お母さん!」

と玄関を勢いよく開くと、扉と同じ長さのレースの暖簾がフワリと外に吸い出され、その縁が血まみれの顎にくっつきそうになったので、僕は咄嗟に体を傾けた。その肩のすぐ上を、十姉妹が一羽パタパタと飛んでいくのが、斜めになった長屋団地の軒先に見えた。

 「早く閉めてっ!」

母の怒鳴り声が響き、玄関扉は僕の目の前で、物凄い勢いで閉ざされた。はみ出たままの暖簾には、僕の血がべったりと付いた。

 僕は母の「早く閉めてっ!」と言った時の顔が、僕の見たことのない顔だったことに戦いた。その顔は、たぶん母が僕の前では決してすまいとしている顔で、しかも、母が母になる以前、父になる前の父に嫌というほど見せてきた顔だったのだろうと思った。

 玄関扉が閉ざされていたのは、ほんの数秒だったはずだ。だが、その僅かな間に、僕は多くの血と、母と、そして現実とを失ってしまった気がした。

 ゆっくりと玄関を開けた母は、いつもの母の顔で僕を迎えようと努力している様子だった。だがその努力も、僕の血まみれの上半身を見て水の泡となった。

「どうしたのっ! 誰にやられたのっ!」

そういいながら母は僕の前に屈んで、自分がつけていたエプロンで僕の顔をしつこいほど拭った。顎からはまだ血が滴っていて、母の手もエプロンも膝も真っ赤になった。

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