707号室 長谷星矢

親子の家 40

 時計の長針が6を指している。短針は4と5の間だ。だから今は4時30分。

 時刻をぼんやりと視界の隅に入れながら、星矢はハムスターのジェリーを見つめていた。

 今日はお母さんの様子がおかしいことに星矢は気が付いていた。

 いつもなら笑って受け流すようなことに、今日はいちいち眉がひくついている。

 お母さんと向かい合って座っている日下部智美のことを、星矢はあまり好きではなかった。この人と喋ると、お母さんの機嫌が悪くなる。

 あからさまに苛ついたりはしない。

 そういう時のお母さんは、星矢に「夕飯は何がいい?」と訊いてくる。時間が早ければ「お昼は何がいい?」だ。

 食べたいものを答えてはいけない。もちろん、「なんでもいい」は禁句だ。前の食事のメニューとの組み合わせと、自分が前に何を食べたいと言っていたかを思い出してお母さんが考えていることを当てなければならない。お母さんの中では正解は決まっているのだ。

 もし間違えると、お母さんが自分の体を傷つける。もっと機嫌が悪い日は、誤ってママと呼ぼうものならそれが始まる。それが最初に始まったのは星矢がことばの教室に通い始めたくらいからだったから、自分が悪いのだと思っていた。自分のせいでお母さんがそういうことをするのだと、ずっと思っていた。

「お母さんの腕の痣について、なにか知っているか」

 いつも夜遅く帰ってくるお父さんがその日はまだ明るいうちに帰ってきて、星矢を公園に連れて行ってくれた。ベンチに並んでジュースを飲んでいる時に訊かれたのだ。正直に話すと、お父さんは星矢を抱きしめて、「今までよく我慢した」と褒めてくれた。

 星矢は父親が好きだった。仕事が忙しくてあまり話すことがなかったけれど、話せば静かに話を聞いてくれる人なのを分かっていたからだ。

 体操教室を頑張るからゲーム機を買ってほしいと言ったら、ゲーム機も買ってくれた。お母さんに内緒で時々パフェを食べに連れて行ってくれるのも大好きだ。

 そういった時に、たまに一緒についてきてお父さんの隣に座るきれいな赤い唇の女の人も好きだ。

「あたしがママになったらどうする」

 そう聞かれた時には困ってしまって、答えようとしてうまく言葉が出てこなくなった。でもその人は怒らなかった。星矢の頭を撫でてくれた時、腕にいっぱい傷跡があってびっくりした。

「痛くないんですか」

「痛いのは心よ」

 女の人は、どうしてかお父さんを見ながら、ちょっと笑った。

 ジェリーはケージの中を忙しく走り回っている。

 ジェリーを買ってくれたのもお父さんだ

 ハムスターの寿命は2年くらいというけれど、もっともっと長生きしてほしい。

 だから、星矢は本当はお母さんにアロマオイルをやめてほしかった。

 図書館で借りた「小動物の飼い方」に、人間は大丈夫でも動物の体には毒になる匂いがあると書いてあったのだ。

 でも、お母さんには言えない。お母さんは小さな茶色い小瓶を並べて、カメラに向かって話をしている時が一番楽しそうだし、一番落ち着いていた。

 でも、お父さんはそれを見るのが嫌いみたいだった。

 家にお母さんが注文した荷物が届くたびに、お父さんは悲しそうな顔になる。そういう顔をするだけで、お母さんには何も言わない。

 お父さんとお母さんは仲良しだと思う。朝ごはんは一緒に食べるし、休みの日には星矢も一緒に買い物に行ったり遊びにったりもする。そういう時には、2人は楽しそうにお喋りしている。

 ただ、そのお喋りが途切れた時に、お母さんとお父さんは、目を合わせずに怖い顔をすることがあった。それを見てしまった時、星矢は冷たい水を背中に流し入れられたような気持ちになる。ゾッとして、その後は落ち着かなくなる。わざと冗談を言ってふたりを笑わせようとして失敗し、お母さんが笑った顔のまま唇だけで「悪い子」と言うのを見る。そして、お母さんはまた自分の体を傷つける。

 全部うまくいかない。ぼくはお母さんもお父さんも好きなのになんで全部うまくいかないのかなあ。

 星矢はジェリーのケージに指を差し入れる。

 ジェリーが小さな手で、星矢の絆創膏が巻かれた指を掴んで見上げてくる。

 さっきは、叩こうとしてごめんね。ジェリー。わかんないんだ。時々、ぼく、頭が真っ赤になって止められなくなっちゃうんだ。

 星矢はまた、小さく「ごめん」と呟いた。

「星矢ちゃん」

 お母さんが星矢を呼んだ。

 星矢は本屋さんで買ってもらったワークを抱えてリビングに行く。

 ワークを解いている間はお母さんがイライラしないみたいだから、星矢はその時間が好きだった。ワークを解き終わる度にちょっとお母さんの顔が柔らかくなるから、たくさん解いた。星矢はお母さんの笑顔が好きだった。

 背筋を伸ばして、正座する。これが、正解の姿勢だ。お母さんが笑ったままの怖い顔でこっちを見ないから、正解。

 お母さんは何か楽しそうに話している。今度は日下部さんが嫌な顔をしている。

 お喋りって、こういうものだったっけ?

 どっちかが楽しくて、どっちかが嫌な気持ちになるのは、お喋りじゃないと星矢は思った。

 ――きぃ……。

 何か音がした気がする。

 ジェリーかもしれない。星矢はケージの方を見る。

 ケージは変わらず、和室の隅にあった。蓋も開いていない。中のジェリーが動きまわっているのが見えた。

「お茶、いれなおしてくるわね」

 お母さんの声で、星矢はぱっと立ち上がった。ワークをまとめて、キッチンに向かう背中を追う。

 キッチンに着くなり、お母さんはラックに手を振り下ろした。ラックにかかっているお玉や泡だて器が跳ね上がり、ガチャンと鳴った。

 星矢は小さく悲鳴を上げる。お母さんの小指が、赤くなって腫れていく。

「わかるわね。いい子になってくれないと、ママはもっと痛い痛いだから」

 いつもはお母さんと言いなさいっていうのに、こういう時にはお母さんは自分をママと言う。変な角度に曲がったお母さんの指が星矢の頬を包む。

 ねっとりとした、嫌な汗がお母さんの手を濡らしていた。

「ひぃっ」

 星矢は悲鳴を上げた。お母さんの後ろに、誰かがいた。

 大きな車輪のついた椅子。車いすだ。その上に座った、真っ白い髪の毛のおばあさん。皴だらけの、やけに茶色い皮膚はカサカサに乾いている。白目が黄色い。

 鼻から透明なチューブが伸びていて、車いすの横についた機械に繋がっていた。

 きぃい……。さっきと同じ音がした。車いすの車輪が軋む音だったのだ。

 そのおばあさんは、ゆっくりと顔を上げ、お母さんのことを睨みつけた。

 ふうぅと息が漏れる。ふぅぅぅ。細く、苦し気な息。それが、呻き声に変わった。

 ――見たよ。お前、子どもを虐待しているね。

 ざらついた声が、やけにこもって聞こえた。

 この人を知ってる。星矢はアルバムで見た写真を思い出した。

 お父さんのお母さん、ぼくの、だ。

「ばあば……」

 お母さんが歯を剥き出しにしてこっちを睨んだ。

「あんたには何もできない」

 お母さんが、おばあさんに向けて、とても怖い声で言った。

 怖い声だった。冷たいのに、燃えているような、もう聞きたくない声。

 膝がガクガク震えて、頭の奥がキーンと痛くなる。涙が止まらなくなった。

 星矢は両耳をしっかり押さえて目をつぶった。

「そうだよ」

 星矢は顔を上げた。

 真っ黒な、女の人が立っていた。

 その女の人の口から、星矢と同じ声が出ていた。

「お母さん、戦わないと。この家を乗っ取られちゃうよ」

 女の人は全身が真っ黒で、プールの後みたいに体から真っ黒な水が垂れていた。

 床に、水たまりが広がっていく。あっという間に、水が床一面に広がる。でも、星矢の星矢の白い靴下は少しも濡れていなかった。

 きいぃ、とまた車輪が鳴った。

 白いおばあさんと黒い女の人、ふたつの異形に挟まれて、星矢はどうしていいかわからなかった。

「お母さん、誰と話してるの……」

 星矢が声を振り絞っても、お母さんはこっちを見てくれなかった。

 黒い女の人を見て、にこにこしている。

「お母さん、ほら。武器がそこにあるよ。ぼくのこと、守ってね」

 女の人が、ゆっくりと腕を動かした。

 おかあさんが、指の先の銀色に光るナイフを手に取った。

 黒い水が床に広がっていく。リビングの方に、生き物みたいに。手足を伸ばしていくみたいに。

 星矢はリビングに走った。

 ジェリー!

 テーブルには日下部さんのおじさんも座っている。

 星矢がその横を走り抜けても、2人は気がつかないみたいだった。

 黒い水が流れてくる。こっちに攻めてくる。

 この水はよくない。あの女の人も変だ。変だけど、ぼくはあの女の人に会ったことがある。

 星矢はジェリーのケージを抱えてベランダに出た。ガラス戸をぴったり閉める。

 冷たい風が吹きつけて、星矢は身を震わせた。寒い方が、怖いよりはマシだった。

 あの怖いものが二つもいる室内よりも、ここの方がいい。

 星矢はケージを抱えて蹲った。心臓の音がする。ジェリーが動き回る音が、少し気持ちを落ち着けてくれた。

 あの女の人。誰だっけ?真っ黒で顔がよくわからなかったけど、でも知っている。

 星矢はケージに頬をぴったりとつけた。

 あんまり寒いと、ジェリーにもよくないだろう。

 風が吹いてくる方向に星矢は背中を向けて、風よけになるようにした。

 頭もゆっくり冷えてくる。そっとガラス戸の内側に目を向けて、星矢はまた悲鳴を上げた。室内が見えなかった。ガラスの内側を、真っ黒い水が満たしていた。

 そのガラスの内側に、手形が付いた。水よりももっと真っ黒な女が、ガラスに張り付いている。真っ黒な口が開く。笑っている。

 その顔を間近で見て、星矢は思い出した。


 ありちゃんのお母さんだ。


 それに気が付いた瞬間に、星矢はふうっと意識が遠のくのを感じた。



 ガラス戸が開く音がして、星矢は身を起こした。

 ベランダの地面に接している太ももと尻が、痛いくらいに冷えている。

「どうしたんだ星矢。寒いんじゃないか?早く中に入りなさい。ジェリーだって凍えてしまうよ」

 ガラス戸を開けたのはお父さんだった。

 星矢は目を擦る。なんでこんな所にいるんだっけ。ジェリーは相変わらず元気なようだった。なんでジェリーを連れて外に出たんだっけ。

 星矢はサッシをまたぎ越し、部屋に入る。

 お父さんが、台風で電気が点かないときなんかに使うランタンを持っていた。

 オレンジ色の光が、部屋を照らし出す。光が届かない部屋の隅は、ぼんやりとした影が広がる。

 ジェリーのケージを畳の上に置く。なんで電気を点けないんだろう。

 それに、やけに部屋中がキラキラしている。

「停電しちゃったみたいなんだ。床に気を付けて。動かいないで。はい、これを履きな」

 お父さんが歩き回る度に、床でパキパキと何かが割れる音がする。

 お父さんは玄関から星矢の青いスニーカーを持ってきてくれた。

 光っているのは、砕けたガラスの破片だった。たぶん、いつもお母さんが使っているあの瓶が割れたのだ。ガラスは細かい欠片になって、星のように光っている。

 照らし出された部屋はひどいものだった。

 お母さんが大事にしていた小瓶をしまう棚も、その上の調和をもたらすって言っていた丸くて大きな石も床で砕けている。テーブルはひっくり返っている。何か大きな獣が部屋中を荒らし回ったみたいだ。

「お父さん……何があったの……」

 お父さんはネクタイを緩めながら、いつものようにゆっくりした口調で話し始めたけど、何があったかは話してくれなかった。

「お父さんなあ、今日とっても親切な人に会ったんだよ。今日は本当はお休みだったんだ。会社に行くって嘘ついて、ファミレスでコーヒーを飲んでたら、その親切な人がよく考えてみなさいって言ってくれたんだ」

 お父さんが和室に入ってくる。お母さんがいつも使っている鏡台の前に立った。

「ほら、星矢見てごらん。鏡の中」

 お父さんがランタンを持ち上げて鏡を照らした。

 光が反射されて、鏡が白くなる。

 その中に、車椅子に座ったおばあさんと、真っ赤な唇の女の人がいた。

 2人とも笑っていた。

 真っ黒な口を、開けて。

 笑っているけど、すごく嫌な顔だった。真っ暗な口の中は、すごく怖いところに繋がってる。

「お父さんよく考えてみたんだよ。ああ、星矢。お父さんな、お母さん以外にお付き合いしてる人がいたんだ。親父も愛人がいたし、こういうのは働く男の権利だからな。星矢も会った、あの女だよ。前の会社で派遣だったんだ。かわいそうにいじめられていて、お父さん助けてあげたんだよ。でもなあ、やっぱりあいつはダメだった。文香……お母さんと別れてくれなんて言って僕を困らせるんだよ。母さんと全然違うタイプの人と付き合ってみたら僕も少しは変われるかななんて思ったんだけど、全然ダメだったよ。ダメだな。あいつは派手だけど生まれはよかったし、聞き分けもいいと思ってたんだけどな。奥さんと別れてあたしと結婚してなんて言い出して、昼ドラじゃねえっての。おまけにザクザク手首切り出して、死ぬ気もねえのにメンヘラがよ。それでな、お父さん追い詰められちゃって、あいつを殺そうとしてたんだよ。殺すってわかるかな?ずーーっといなくなるようにすることだ。それで色々用意したんだけどね。あの親切な人が言うから、1日考えてみることにしたんだ。考えて、家に帰ってきたら、すごく家が暗いんだよ。真っ暗なんだ。なんで、お母さんはこんな暗い家で我慢できるんだろう。家庭は明るいのが一番だもんな。こんな暗いのはダメだよなあ。辛いと気持ちが滅入るんだ。暗いのは魔女の家だもんな。女は怖いよ。こんなに暗い家にしちゃったお母さんももうダメだなと思ったんだよ。そうなんだ。先にお母さんなんだよ。やるなら、先にお母さんからやるべきだったんだ」

 お父さんはいつもの、ゆっくりした口調を崩さなかった。

 長い時間をかけて、お父さんは話し終え、疲れているみたいだった。

 はーと声に出しながら息を吐き。腰をトントンと叩いた。

「ああ、大仕事だった」

 お父さんは黒い背広を脱ぐ。

 お母さんが言っていた。お父さんの会社に行くときの服はイタリア製の生地のオーダー品だって。毎日着ていくものだからこそ、質のいいものを選ばなきゃって。

 背広は、べちゃっと畳の上に落ちた。

 濡れたものを床に置いた時の音だった。

 畳に、赤い染みがついていた。

 鉄棒をした後の掌みたいな臭いがする。それから、ゴミ捨て場の匂い。

 背中がザワザワする。鳥肌が立っていた。すごく怖い。

 鏡の中の二人がもっと口を大きく開けて笑った。

「母さんとあいつも手伝ってくれたんだ。ちゃんと二人で協力して足を掴んでくれたよ。だからお父さん、手元が狂わなくて済んだ」

 リビングの隅までは光が届かない。廊下はもっと暗い。見えない。

 でも、その廊下の、辛うじて光が届くところに、投げ出された足が見える。

 星矢はそれに近づいた。喉がカラカラに渇いて、張り付いてしまいそうだ。

 床でガラスが割れる。足が何かに躓いた。わずかに届いた光で、それが何なのか見える。ハンマーだ。釘を打つ時に使う、銀色の、片方が尖った、大きなハンマー。

 床にそれが無造作に転がっていた。

 なんで、ハンマーの尖った方が黒く塗れているんだろう。

 何で平たい方にぶよぶよした、柔らかいものがいっぱいついているんだろう。

 何で髪の毛みたいなものもついているんだろう。

 星矢は、その先に投げ出されている白い足の持ち主を見てしまった。

 影の中に頭を投げ出して、ドアに手を伸ばしかけた姿勢で倒れているお母さん。

 その頭が、変な形になっている。

 なんでこんなにへこんでいるんだろう。

 ガラスを踏む音が後ろから近付いてきた。

「星矢、今日からお父さんと暮らそうな」

 廊下が明るく照らされる。廊下は真っ黒に濡れていた

 星矢は、お父さんの方を振り向いた。

 お父さんは笑っていた。目じりが下がって、口が大きく開いている。

 口の端から、よだれが垂れていた。

 顔中が溶けてしまっている。もう、人間の顔じゃない。

 お父さんの後ろに、真っ黒なありちゃんのお母さんがいた。

 やっぱり笑っていた。








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