親子の家 39
亮子を悪霊にするのは簡単だった。
残った事実を伝えてやればいいのだ。
「ありさの幽霊は誰にも見えていなかった。マンション住民たちは、あの子の幽霊を利用して、自分たちの秘密を守ろうとした。あんたたちは、利用されたんだよ」
ひと際冷たい風が顔にぶつかってきて、十は思わず顔を覆った。
盈の低い声が響いている。声はどこか甘い響きを伴っていた。
「もういいんじゃない?あんたはそろそろ怒ってもいい頃だと思うよ。あんたを縛ってた噂もこうやって落ちた」
盈は足元の鳥を指さす。
「懺悔と罪悪感だけが残ってしまって、かわいそうに」
その言葉に、亮子はあからさまな反応を示した。
壊れかけた機械のようなぎこちない動きで首が回り、こちらを向く。
白い顔、なんの表情もない顔。
「そうだよ。あんたは怒っていいんだ。もう自由だ。それに、あんたはもう母親じゃない。母親だった自分は、あの箱の中に置いてきたんだろう」
耳元に口を寄せて、盈は語りかける。
風が冷たさを増していく。氷で肌を撫でられているようだ、
外だから寒いのではない。
温度が下がっているのだ。十はそれに気が付いた。
靴底を通してでも冷たさがわかるくらい、地面の温度も下がっている。
踊り場の電気が音を立てて明滅を始めた。
夕焼けがすっと色を失い、夜の闇が忍び込んでくる。
――いいの?
その声は亮子の唇から出ていた。
「ああ、あんたはもう成ってもいい」
亮子の表情に変化があった。こわばっていた白い顔が、解けていく。口元が綻び、目元がふわりと優しげに下がった。安堵と喜びが同時にやってきたような穏やかな笑みが浮かぶ。
変化はそれで終わらなかった。
満足げな、柔らかな笑みが、徐々に変化していく。口が開く。歓喜の笑いへと変わっていく。限界まで口を開けて大きく笑い始める。
不自然に口が大きく広がった。ガクンと顎が外れ、口だけが下に大きく伸びていく。瞳から白眼が消えた。
女の哄笑が、マンション中に木霊していく。
十は耳をふさいでうずくまった。
今、亮子は成った。
「あんたはもう、国分亮子じゃない。国分亮子はマンションの部屋で眠ってる。あんたは何にでもなれる、何でもできる」
けたたましい笑いの中で、盈の声だけがはっきりと耳に届いた。
亮子の全身が、頭からゆっくりと黒く染まっていった。水にインクを落としたように黒ずみ、それが濃度を増していく。全身が真っ黒に染まって、人の形の黒い塊となった亮子が、不意に波打った。
黒い水の奔流となった亮子が崩れる。
形を失くし、床へと叩きつけられて砕けた水が、四方へとあっという間に広がっていく。波となって押し寄せる。地面に転がっていた鳥たちは、その水に溶けるように沈んでしまった。
水が渦を巻いていた。黒い水が、夜の海のように波立っている。
背中の方で、何か音がした。
頬に小さなものがぶつかる。手で払い落しても、何度も顔に当たってくる。それがどこかから湧いて出てくるハエの大群だとやっと気が付いた。
何かが擦れる音がしている。何かに巻き付けた縄が重みで擦れるような。
鼻先を腐臭が過ぎる。
ゆっくりと首を巡らせた十のほんの鼻先に、男が揺れていた。
溶けて半分しぼみ、残りは水のようになった濁った目。
鼻の穴と開きかけた口からは米粒のように小さな白い虫が蠢いている。
耳の穴からは、黒く小さな甲虫が出入りしていた。
首は頭の随分下にあった。長い時間首を吊ったままになっていたから、首の筋肉が伸びてしまったのだ。師匠はこういうのを、”
みちみちと首の皮が伸びていく。腐って柔らかくなり、虫に食い荒らされた皮膚は簡単に伸びてしまう。体を支えていた筋が切れ、簡単に骨が外れて、腐敗して膨れたのかもとから太っていたのか分からない体が地面に落ちた。その胸に当たって、一度バウンドした頭が、十の足元に転がってくる。さっきからずっと呟いていた言葉を、まだ口から吐き出し続けている。
――野本偉夫さん、いらっしゃいますか……。
「管理人室にいるよ」
応えながら、足元がなにか暗いなと思ったら、腰のあたりまで水が上がってきていた。
男の首が水に浮かんだ。体がそれを拾う。
――ありがとうございます。
頭のない体が、十に深々と礼をした。
とぷん、と魚が水に潜るような音をさせて、首つり幽霊は消えた。グロいが礼儀正しい幽霊だった。
水はもう十の体を浸していた。口元まで水が上がってきたから反射的に息を止めたが、これは本物の水じゃないから大丈夫だと気が付いて大きく息を吸う。視界は薄暗いが、掃き出した息は気泡にならなかった。手足も水圧を感じない。
だが、じんわりと額の辺りが熱を持った気がした。
それに気を取られていたら、踊り場のコンクリート床の色が変わっていった。
茶色い色に変わり、それはフローリングの床になり、床の上に丸くて小さなテーブルが現れてくる。
すっと音が消えて、すぐに蝉の鳴き声が耳に届いた。今は12月だ。蝉が鳴いているわけがない。それに、辺りが明るい。十は周りを見回した。部屋だ。十は部屋の隅に立っている。それにしては視界がおかしい。立っているのではない。浮いている。
夢の中の視点みたいに、部屋を見下ろしていた。
大きなガラス戸は半分開いている。外からの風でレースカーテンが部屋の中に向けて膨らんでいた。夏の午後の、熱を抱いた風が部屋の中に吹き込んでいる。
窓の外の景色に見覚えがあった。ここは、505号室だ。
薄いピンク色の座椅子が1つ、丸い小さなテーブルの横にあって、その向かいにうさぎの耳の飾りがついた幼児用の椅子が置いてある。
物の少ない部屋だ。あとは、3つ積み重なった衣装ケースと、おもちゃがはみ出ているプラスチックのケースくらいしかない。おもちゃケースは白と水色のウレタンでできたジョイントマットの上に乗っている。マットにはサインペンでうさぎの落書きがしてあった。ケースの横には、開きっぱなしのスケッチブックと、出しっぱなしのサインペンが無造作に転がっている。開いたスケッチブックのページに、3という数字がひっくり返って書かれている。その横は0最後は1。そう読める。その下の空間は黒く塗りつぶされていた。
外からの風が、スケッチブックのページを捲った。偶然というよりも、意図があるようだった。見なさい、命令されている気がする。
大きな口を開けた異形のものが、青い服を着た女の子にしがみついている絵。
これは日下部智恵だ。しがみついているのは、彼女が育てたミミー。彼女の空想上の友達。
またページが捲られる。
たくさんの黒い鳥と、その横にいる茶色い服の女。これは水橋だ。
次に現れたのは、野本だった。背中にかけて巻き付いている
他にもスケッチブックにはたくさんのモノが描かれていた。
世古の肩に乗っていた白い獣と思しきもの、黒い毛玉のようなもの。蛇のような一つ目のもの、体中に目があるネズミのようなもの。世古の獣以外は、どこにでもいる小さな化生のものだ。人でも獣でも鳥でもない、生きているのかいないのかも定義できない者たち。
盈はありさが十たちと同じ目を持っていると言っていた。
彼女はやっぱり見ていたのだ。見たもの全てをスケッチブックに記録していた。
踊り場で会った時、ありさの幽霊が言っていた。
――ふわふわさんはもういないよ。どこかに飛んで行っちゃった。今いるのは、ガチガチさんと、鳥さんと、くねくねさんでしょ。それから黒いお水と、それから、白いワンちゃん、あとね、まっくろさん」
ガチガチさんというのは、恐らくミミーだ。あれは智恵に近づくものを威嚇するとき、ガチガチと歯を鳴らす。
鳥さんは、そのまま水橋の育てた怪異である告げ口鳥だち。
くねくねさんというのが分からないが、もしかしたら野本に憑いているあれのことかもしれない。
黒いお水――。これは日下部家が抱える秘密が変じたあの水のことだろう。台所の吊り棚から溢れて、506号室を浸していたもの。
白いワンちゃんというのは、世古の連れているあの獣だと思う。
じゃあ、まっくろさんってなんだ?
そんなものに出会っただろうか。
十が首を傾げた時、「ただいまー」という元気なありさの声がした。
ありさはがリビングに走りこんで、開いたままのスケッチブックに屈みこんだ。
十は茫然とその姿を見つめる。
生きている。ギンガムチェックのワンピースを着ていた。日焼けした細い足が、裾から伸びている。
「ありちゃん。お手々洗って」
亮子がありさに声をかけるが、ありさはスケッチブックに夢中だった。
「ありちゃん!ありさ!」
叱るような調子で呼ばれて、ありさはやっと顔を上げる。不承不承と言うように頬を膨らませて洗面所に消えていく。
十は台所に目をやった、亮子も生きている。白いサマーニットに、水色のスカート。幽霊と同じ格好だった。買い物袋から出したものを、冷蔵庫に入れている途中だ。
外から入ってくる風が、カーテンを大きくはためかせた。
ありさが戻ってくる。スカートの裾で手を拭きながら、ありさはスケッチブックを捲り、声をあげた。
「ママ!かくとこもうない!」
亮子がリビングを覗いた。顔に疲れが浮かんでいる。
「カレンダーの裏にかいて。買いに行くのは明日にしよ」
ありさがカレンダーの所に走る。壁にかかったカレンダーへと飛びついて、8月の紙をビリビリと破いた。拍子に9月の紙までもが破れる。耐えきれずににカレンダーを留めていた画鋲までも外れて部屋の隅に飛んだ。
8月。十はその日付に目を凝らす。また、額の辺りが痛んだ。これは過去の光景なのかもしれないと思い当たって、必死で記憶を探る。
ありさが死んだのは、たしか8月10日だった。
「ママ―!ママー!とれちゃった!ママ!」
亮子が大きくため息をつきながら出てきて、ビリビリになったカレンダーを見てさらに大きくため息をついた。
「ありちゃん。危ないから向こうに行ってて」
ありさはカレンダーの紙を抱えてガラス戸の方へと走っていく。
亮子はまた小さくため息をつくと、床に這いつくばって落ちた画鋲を探し出した。
亮子の指が、先の丸い押しピンに触れた時、着信音とスマホの震える音がした。
亮子は少し考えていたが、画鋲を近くの壁に刺し、辺りを見回した。
スマホは台所とリビングを分けるカウンターで震えている。亮子はまだ見つけられない。
「ママ!電話!」
ベランダとリビングの境を行ったり来たりして遊んでいるありさが声を張り上げた。
「ありちゃん。静かに」
亮子はようやくスマホの場所に気がついたようだ。小走りでスマホが置いてあるカウンターに近づき、鳴り続けるそれを前に、ぴたりと動きを止めてしまった。
亮子がようやく手を伸ばす。指先が震えている。
耳に押し付けたスマホから漏れる声を拾おうと、十も意識を集中したが、だめだった。聞こえない。亮子は、「うん」とか「ううん」とか、返事をするだけだ。
長い電話だった。亮子は何度か鼻をすすりながら、頷いていた。
その間、ありさはカレンダーの裏に絵をかいていた。母親の様子がいつもと違うのがわかるのか、時折不安そうに亮子の方を見ながら、サインペンを動かしている。
茶色い長い髪の女と、小さい女の子。周りに色とりどりの魚が泳いでいる。大きな鯉のぼりもいる。鯉のぼりに誰かが乗っている。今までのありさの絵で見たことのない、白い服の、多分男だ。
亮子がスマホを置いた。顔から血の気が引いている。だが、目だけがやけに見開かれていた。興奮と、緊張と、いくらかの安堵。そのどれにも見える。亮子は再度、スマホを手にして、履歴を呼び出している。新しい番号をアドレス帳に登録する画面が見えた。亮子は、未だ震える指で、「シマくん」と打ち込んでいた。
「ママ!」
ありさが跳ねるように立ち上がった。
「ママ!パン作ろう!」
ありさは大きな声を張り上げた。
亮子はそれを、ひどく疲れた目で見ている。
「約束したもん。今日パン作るって約束したもん」
ありさは亮子の足にまとわりつく。母親の様子がおかしいので不安なのだ。
だからいつもよりも甘えて、何も問題ないと確信したいのだ。
だが、亮子はそれに気がつけないほどに疲れ切っているようだった。
「今日は無理。ママ、つかれちゃった」
「じゃ、かくれんぼしよ!最初はママが鬼」
亮子は俯いた。それを肯定と解釈したのか、ありさは走り出す。
「お家の中全部ね!」
亮子には聞こえていないのだろうか。亮子は俯いたまま、またスマホを握りしめた。
「お家全部でかくれんぼだよ」
ありさの声がまた響いた。
カーテンが引かれる音がする。蝉の声が大きくなる。
亮子はしばらく俯いていた。キュとサンダルの押し笛が鳴った。
その音に反応して亮子はたった今目覚めたように家の中を見回した。ため息ではない。亮子は気持ちを切り替えるように大きく息を吐いた。そして、両手で頬を叩くと「よし」と立ち上がる。
「ありちゃん」
ありさがレースカーテンの陰に隠れていることに気がついて、亮子は呼びかける。
少しでも母親を元気づけようと子どもなりに考えた結果の、小さな悪戯。
ありさは足にはベランダに干していた赤いサンダルを履いている。
カーテンの陰から忍び笑いが漏れている。
母親が自分を見つけてくれることを分かっている、幸福な子どもの笑い声だった。
キュッとまたサンダルが鳴る。
十は、これから起こるだろうことを察して叫んだ。
だめだ。動くな。叫んでも声が出なかった。
「ありちゃん。見つけた!」
ありさは声をかけられた途端にカーテンから飛び出して、亮子に抱き着こうとしたのだろう。
しかし、小さな足はカーテンの裾を踏んで滑った。
白いレースがカーテンレールから外れていく音がする。
後ろ向きに、仰向けになるように、ありさが開いたガラス戸の向こうに倒れていく。
スローモーションで見ているように、ゆっくりと時間が流れていく。
何が起きたのか自分でもわからないらしい、ありさの顔は、笑みを保ったままだ。
カーテンがたなびいて、白い軌跡を残す。
ありさの頭が、物干し竿を押さえているコンクリートブロックの上に近づく。
鈍い音がした。ありさの腕が一度上がって、一度だけ大きく痙攣して落ちた。
ベランダにじわりと血が広がり始める。そこで初めて、亮子が悲鳴をあげた。
ありさは半分目を閉じていた。鼻から一筋の血が垂れる。
十は目を閉じようとしたが、できなかった。瞼が下がらない。というよりも、瞼の在処が分からない。
倒れたありさが、何事もないように立ち上がった。
ベランダには、ありさの体が横たわっている。
頭の所から、今もじわじわと真っ赤な血が地面に広がり続けていた。
カーテンを体に巻き付けたまま、きょとんとして立ち止まる。額から垂れてくる真っ赤な血を手の甲で拭って不思議そうに見ていたが、長すぎる上着のように引きずっているカーテンで拭くと何ともないように室内に足を踏み入れた。
周りを見回す。
不思議そうに首を傾げ、そしてありさは十の方を見た。たしかに目が合った。
倒れたままの体に取り縋って叫んでいる亮子をすり抜け、幽霊になったありさはドアをまた擦りぬけて外に出ていった。
亮子の叫ぶ声が遠くなる。地面の色が元に戻って、気が付いたら十はまた、あの踊り場に立っていた。水嵩はすっかり減っていて、十の足首までになっている。流れていったのだろうか。あの水は亮子だ。幽霊の形が変わったもの。
十は何度か瞬きして、さっきの光景を思い出そうとする。たぶん時間は経っていない。2年前にありさが死んだ日の亮子の記憶だ。あの幽霊が最後まで保ち続けた、ありさとの別れの記憶。
「師匠!」
盈はゆっくりとこちらを振り返った。亮子が立っていた辺りに、盈は手すりに体を預けて佇んでいた。黒い上着が闇に溶けて、今にも闇の中に消えていきそうだった。
「俺も見た」
盈は短く言った。
「国分亮子の最後の記憶だ」
足元の水が静かに揺れている。
「水橋の家でも、日下部の家でも、怪異は水の形をとっていた。ここではそういう形で怪異が現れやすいんだと思う。だから、国分亮子もそうなった」
踊り場の電気が点滅した。
二、三度またたいた後、低く唸るような音がして、電気が消える。
辺りが闇に包まれた。
その中に、響くものがある。
車輪のきしむ音だった。車いすに乗った老婆が、水のたまった廊下をゆっくり進んでいく。酸素吸引用のチューブが水に波紋を残す。
さっきの男も、この老婆も、亮子が呼んだのだ。ずっとマンションの中にいて、形を持てなかった幽霊たち。それが亮子に感応して現れた。
マンション内は暗く湿っていた。物音は車輪が回る音だけだ。
ここは異界になった。悪霊が作る、自分だけのテリトリーだ。
背筋に嫌な感覚が這い上がる。神経に障るような、冷気が渦まいている。
この空気は人をおかしくする。
ここには亮子と関係のある人間だけが取り込まれているはずだ。
何かがもう起きているだろう。
十は時計を確認する。午後4時38分。
十と盈は顔を見合わせて、闇の中を進んだ。
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