707号室 長谷星矢

親子の家 19

 星矢はホームセンターでお父さんに買ってもらったハムスターをジェリーと名付けた。

猫とネズミが毎回仲良くケンカする昔のアニメが星矢は大好きで、毎日見ていたからだ。

お母さんは「暴力的」といって嫌な顔をするけれど、何回ひどいケンカをしてもトムもジェリーもぜったいに死なない。だからきっとトムはジェリーに手加減をしているのだし、それをジェリーもわかっていてケンカを楽しんでいるんだと星矢は思った。

 ハムスターはアニメのジェリーよりも毛並みの色は薄かったけれど、全身が茶色なので似ていると思う。ピンとしたひげもそっくりだ。すばしこい所も、ヒクヒク動く鼻もよく似ている。

そっと触ると毛並みはすべすべだった。ハムスターの日本名はキヌゲネズミというんだよとお父さんが教えてくれた。絹と言うのはすべすべて高級な布のことだという。薄いピンク色の手足や鼻先が可愛らしい。なんのためについているのかわからないくらい短い尻尾も愛嬌がある。

まだ懐いてはくれないけれど、手を差し出すとフンフン匂いを嗅いでくれるようになった。細くて長いひげが指に当たってこそばゆい。小さな家族のことを、星矢は大好きになった。最近、仕事が忙しくてなかなか顔を合わせられないお父さんにも、もっとジェリーの話を聞かせたかった。

 ジェリーが家族になって8日目のことだ。幼稚園から帰ってジェリーを眺めていると、知らない男の人が家にやってきた。背がとても大きい人だった。真っ黒な服を着たお兄ちゃんと一緒に来た。

 星矢はそっと襖の向こうから2人の客人を見た。

星矢は知らない人と話すのがあまり得意ではない。ピアノ教室でも、体操教室でもみんなの前で演奏したり技を披露するような時には緊張して、手のひらに汗がいっぱい出る。口の中がカラカラになって、地面が粘土みたいにぐんにゃりしてしまったような心地になる。だからいつも完璧にできない。

その時も心臓がどっどっと鳴っていた。挨拶しなさいと言われたらどうしよう。こんにちは、そう言うだけのことがひどく難しいのだ。

 だから、黒い服のお兄ちゃんが先に挨拶をしてくれて助かった。星矢はぺこりと頭を下げるだけで済んだ。

お兄ちゃんは一緒に遊んでくれた。兄弟がなく、一緒に遊べるような友達が近くにいない星矢にとって、誰かと遊ぶのは久しぶりのことだった。

十と名乗ったお兄ちゃんは、ものすごくゲームが上手かった。小学3年生だから、星矢よりもうまくて当たり前なのかもしれない。でもショウヤくんのお兄ちゃんよりも

ずっと上手だ。ショウヤくんのお兄ちゃんは4年生で、自分だけゲームを続けようとしてショウヤくん家のお母さんに怒られていた。ショウヤくんの家は四角と丸の組み合わさった模様の、ちょっとペタペタする床の台所と、畳の敷いてある大きな部屋が横並びの2階建てで、2階にはショウヤくんとお兄ちゃんの部屋がそれぞれあるらしかった。ゲームは畳の部屋でやった。「寝転がってもいいからね」とショウヤくんのお母さんが言って、お昼にはカレーをごちそうしてくれた。骨付きの大きな鶏肉と星形の人参が入った美味しいカレーだった。でも、ショウヤくんの家にはもう遊びに行けなくなってしまった。お母さんがもう行くなと言うのだ。あのお家はおやつに着色料がたっぷり入ったお菓子を出したからだという。最後の日ににお母さんは「またお邪魔させてくださいね」と笑っていたけど、車のドアを閉めた途端に怖い顔になった。星矢に拒否権はなかった。

「星矢くんって、ありさちゃんとは友達だったの?」

飛んでくる大砲を巧みにマリオが避ける。十お兄ちゃんは一度も死なずにステージをクリアした。

喋りながらでも、お兄ちゃんは器用にゲームに興じていた。

「うーん?」

星矢は膝を抱えた。畳の跡が付いてデコボコした膝を撫でながら考える。

友達だったのだろうか。友達っていうのは、一緒の幼稚園に通っている子のことで、両方のお母さんが仲良くなければいけないはずだ。

「じゃあさ、ありさちゃんと遊ぶのは楽しかった?」

十がゲームの音量を少し上げた。音が聞こえにくかったんだろうか。コインを取る音が大きくなる。

「楽しかった。ありちゃんは絵がすっごく上手だったんだよ」

これには星矢は答えられた。ありさは星矢の一つ下だったけれど、遊ぶのがとても上手な子だった。

「それから毎日探検してた」

一度だけ、星矢はありさの秘密の探検に連れていってもらったことがある。ありさは毎日探検と称してマンションの中を歩いていた。普通の廊下が、ありさと歩くと全く違うもののように映った。

――このお部屋には、鳥さんがいるよ。

ありさは4階のある部屋の前で、声を潜めて言った。

――鳥さんは大きいのよ。とってもとってもとっても大きいの。体から小さい鳥さんをぽこぽこ出してくるの。

 5階にはガチガチさんがいるのだという。

――ガチガチさんはありちゃんが見てると怒るの。ガチガチさんはお姉ちゃんが大事だから、ぎゅってして守っていいこいいこしてあげてるのね。

――ガチガチさんは黒いお水がきらい。

管理人室にも、1階にも2階にも、3階にも、4階にも、5階にも、6階にも、7階にも、8階にも、いろんなものがいるのだという。

星矢がトトロはいる?と訊くと、トトロはいない。でもふわふわさんはいる。ふわふわさんはこれ。そう言ってスケッチブックを見せてくれた。ふわふわさんは黒い毛玉みたいな姿で、丸まった猫みたいだった。

――ふわふわさんは風に乗ってくるの。どこかの島にふわふわさんがなる木があって、そこから風に乗って飛んでくるのよ。もうすぐまたどこかにいっちゃうの。ふわふわさんの体には草とか木の種がいっぱいつくから、お家にも草が生えてくるのよ

ありさが排水母の脇に溜まった泥から伸びる草を指さして「あれもそう」と言った。

星矢はふわふわさんのことを言おうか迷って、胡坐をかいてゲームをしている十の横顔を見た。すっと尖った鼻筋は星矢と違う。星矢の丸い鼻を撫でながらよくおかあさんは言う。「大人になったら直せばいいのよ」。なんだか悲しくなってきて、星矢はふわふわさんのことは話さないことに決めた。

「ありちゃんは毎日楽しそうだったよ」

代わりにそう言った。大人たちがありさについて話していることを、星矢はすべて理解できたわけでもなかったが、大人の言うように、ありさが「可哀そうな子」ではないとは思っていた。そんなことは大人には言えなかったけれど。

「星矢君は楽しくない?」

 マリオがゴールの旗に辿りついて、ステージが終わる。

星矢はリザルト画面のコイン数と残機の数に見とれていたから、「えっ」と聞き返してしまった。星矢の家では「えっ」は禁句だった。何故なら質問した人のことをにする言葉だと毎日言われているからだ。ちゃんと聞いていない証拠だからだ。でも、星矢は緊張するとつい、えっと言ってしまう。その度にお母さんは悲しむ。

 十は怒らなかった。ただ、画面から目を離して、コントローラーを星矢に手渡しながら「星矢君は毎日楽しくない?」ともう一度訊いた。

星矢はそれに小さく首を振った。十は「そうなんだ」と呟いた。

イエスともノーともとれる返事を、十が正確に汲んでくれたことに、星矢は驚いた。はっきり言わないとお母さんは悲しむ。

「相談できる人はいる?」

十が星矢と同じように膝を抱える姿勢になった。長い前髪が揺れて、十の左のこめかみに小さな傷跡があることがわかった。皮膚がほんの少し盛り上がって、わずかに色が違っていた。

「お父さん」

星矢はまた呟いた。

「お父さんは味方なんだ。いいね。お父さん。オレにはもういないんだ」

全く悲しむ素振りもなく十が口にするので、星矢はぎょっとした。

「あの家はカタオヤだから」お母さんが言っていた言葉だ。お父さんとお母さんのどちらかが欠けている家は子どもがんだそうだ。悪いことをしたり、悪い言葉を使ったり、人のものを盗んだりする。学校に行けなくなったり、父さんやお母さんが悲しむようなことをする子になるという。

でも、十はそんな風に見えない。ゲームの順番は守ってくれるし、難しいところは教えてくれる。それに、ありちゃんだって……。

「ありさちゃんもお父さんがいなかったんだって?」

まるで考えていることがわかるみたいなタイミングで訊かれたので、また星矢は「えっ」と言ってしまった。ありさ、ありちゃんにはお父さんがいなかった。

星矢が、「お父さんは?」と訊いた時、ありさは「お空」と笑った。そして「でも時々会えるよ。七番線の電車にいるの」とも言っていた。

「ありちゃんはお父さんがいなかったけどいい子だよ」

 星矢は早口で言った。口の中でことばを捏ねるような発声になっていることに気が付いて、また、あっとかえっとか言ってしまう。年少の頃、星矢は言葉の教室に通っていた。そこには、星矢と同じく上手く喋れない子がたくさんいて、幼稚園の先生とも塾の先生とも違う「先生」と一緒にコップに入った水をブクブクしたり、先生が読むお話を繰り返したり、舌べらの運動というものをやったりした。そこに行くとき、お母さんは星矢をさっと車に乗せて、誰とも喋らなかった。帰りは遠回りして帰った。帰り途中にファミレスでアイスを食べられるのは嬉しかったが、お母さんが言う言葉をつっかえずに上手に、モゴモゴせず言えるまでアイスが食べられないのは嫌だった。星矢は、溶けて温くなったいちごアイスの味しか知らない。上手く喋れるようになった年中の夏に教室が終わったが、今でも緊張すると言葉が詰まってしまう。そして、お母さんが悲しむ。

それでも、星矢は十にはありさが悪い子でないことを分かってほしいと思った。

 ありちゃんはいい子だった。星矢が見えないものをたくさん見ていて、それを説明するのも描くのも上手だった。足し算はできないけれど、お菓子の値段はよく知っていたし、道端の草の名前も知っていた。スーパーボールを落としてキャッチするのも上手だった。時折、本当に時折一緒に遊んでくれた大宮さんのおじちゃんと3人で石けりをした時も、一人で上手にケンケンして真っ先にゴールした。

星矢は自分が持っいる言葉を精いっぱい使って十に説明した。話しているうちに鼻の奥がつんとしてきて、そこで初めて、ありちゃんはもういないんだなと星矢は実感した。星矢が途中でつっかえても、言葉が出てこなくて詰まっても、十はうんうんと頷きながら聞いてくれた。お父さんみたいだった。お父さんもこうして、時間をかけて話を聞いてくれる。

 すべてを話し終わった時、十はひときわ大きく頷いた。

「ありさちゃんはいい子だね」

「いい子だった。十お兄ちゃん、内緒にしてくれる?」

「うーん。師匠には話していい?」

てっきり黙っていてくれるものだと思っていたので、星矢は突き放されたような気分だった。俯く星矢に、十は声をかける。

「星矢くんが話してくれたことは、ありさちゃんが天国に行くために必要なんだよ。このの住人はみんな嘘つきだから、本当のことはとっても大事なの。ありさちゃんを天国に連れていけるのは師匠だけだから、師匠に伝えることでありさちゃんは天国に行ける」

「ししょう?」

「オレと一緒に来た、でっかい男の人。オレの先生。先生の難しい言い方が師匠」

「でもお母さんが、ありちゃんの幽霊はガイアの磁場の記憶だって言ってた。天国はないんだよ」

「それはお母さんの意見。餅は餅屋って言葉知ってる?」

星矢はまた首を振った。難しい言葉だ。

「幽霊は専門家に任せろってこと。師匠は幽霊の専門家なんだ」

十は膝を崩すと大きく伸びをした。

「ねえ、あれ何がいるの?」

十がゲージを指さしたので、星矢は「お母さんは嘘つきじゃないよ」と言いかけていた言葉を飲み込んだ。その言葉は、ずんと重く沈んでいった。

「あれは、ジェリー。ゴールデンハムスターだよ」

「夜行性だから、今は寝てるね」

「詳しいんだね」

「教室でも飼ってるから」

「そっと覗けば見れると思うよ」

星矢はケージの上の蓋を外した。ケージは上が鳥籠のように金属の細い棒を組み合わせた金網でできていて、下は掃除をしやすいようにプラスチックになっている。プラスチックと金網の境目のロックを外すと、金網の部分は簡単に取れるのだ。

星矢はお返しがしたかった。最近はお父さんの帰りが遅いし、休みの日も会社に行ってしまう。だから星矢は誰ともこんな風に喋ることができなかった。

おはなしを聞いてくれたお礼をしたいと思った。お母さんはいつも誰かのお話をきいてお礼にお金をもらっている。だから、ボクもお返しをするべきだと星矢は思ったのだった。

 ジェリーはいつもケージ内の木でできた小屋の中で寝ているが、小屋は屋根が外せる。だから、そっと屋根を外して、ジェリーを十に見せてあげるつもりだった。

予想外だったのは、屋根を外した時に、小屋全体が揺らいでしまったことだ。

おがくずを敷き詰めた寝床からジェリーが跳びあがって、星矢の指に噛みついた。星矢は小屋の屋根を持ったままだったから、手を引っ込めることができなかった。

ジェリーを右手の指にぶら下げたまま、星矢は悲鳴をあげた。

次にカッと頭の中が熱くなった。ケージの掃除をしてやってるのはボクだ。ご飯をあげるのも、汚れたおがくずを取り換えるのもボクだ。ボクがいなければすぐ死んでしまうだろうジェリーが、ボクを噛んだ。

「やめなって。死んじゃうよ」

振り上げた星矢の左手を、掴んだのは十だった。

星矢の左手を掴んだまま、右手にぶら下がるジェリーのお尻に逆の手をのせ、ゆっくりと揺さぶった、ジェリーはジュッと鳴いて小屋の中に転がる。

「ごめんな。びっくりしたよな」

これは星矢に言ったのか、ジェリーに言ったのか分からない。

十は星矢の手を放して、手早くケージを閉めた。

 星矢はじっと自分の右手を見た。指先の皮がめくれて、赤くなっている。血は出ていなかった。次いで自分がしてしまったことに震え上がった。自分は、ジェリーを叩こうとした。あの時みたいに。おもちゃのロボットが上手く変形できなかったとき、どうしようもなくムカムカして、頭の中が真っ赤になって、気が付いたら排水溝の溝にロボットの手足をねじ込んで折っていた。ざまあみろ。ボクのいうことをきかないから。ボクを悲しませるから。

 ふらふらと星矢は立ち上がって、またしゃがみこんだ。右手を上げ、どうしようと考えて、何も考えられなかったので、その手を畳の上に叩きつけた。ぼん、と音がした。

「星矢くん!星矢くん!」

十がまた星矢の手を掴んだ。

「ボク、悪いことをしたから。ジェリーは悲しかったと思うから、バツをうける」

「だめだよ。そういうのはよくない」

十は星矢の両肩を掴み、耳元で囁く。

「君が悪いことをすると、お母さんがそうするの?」

頭の中で声が回る。「星矢が悪い子だから、お母さん痛い痛いになっちゃった」お母さんの声。演奏会で失敗したとき、体操洋室で指示を聞き逃した時、今朝、テーブルの上の牛乳を零した時。

「うん」

星矢は、ぎゅっと十の服の裾を握った。

「そうなんだね。お母さんにばれたくなかったから、ロボットもありさちゃんに預かってもらったの?」

うん、とまた星矢は頷いた。



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