707号室 長谷文香
親子の家 18
つけっぱなしにしているテレビから、ローカル局の情報番組が流れていた。
まだ新人らしい女性レポーターが弾けるような笑顔で何か言っている。麦わら帽子をかぶって、眩しそうにカメラの方を振り返る。
『今日は我が県を代表する企業、ナチューラファームの農場に来ています。見てください!この一面のトウモロコシ畑!まるで日本じゃないみたいですね!』
おそらく再放送なのだろう。空はのっぺり青く、真夏の光が地面に濃い影を落としている。背の高いトウモロコシが植わった畑を背に、多少辿々しさの残る言葉遣いで自然の豊かさを熱弁していたレポーターは、そこで「社長の大宮さんです!」とことさら明るい声で言った。
それを聞き流しながら、文香は電卓を叩く。
今月のカウンセリングの売り上げを、協会への納付金額分差し引いて計算する。
その金額をタブレットに入力し、文香はため息をついた。思ったよりも利益が少ない。これでは星矢の教育資金として心許なかった。クライアントを増やすか、カウンセリング単価を上げるかしてもう少し売り上げを増やさないと。
眉間を押さえそうになって、文香は意識して笑顔を作った。口角を上げ、上を見る。
笑顔は幸運を無意識に引き寄せます。いつもクライアントに言っていることではないか。悩むよりまず動くことだ。
和室で静かに遊んでいる星矢のことを見る。幼稚園から帰ってきて、着替えを済ませた星矢はハムスターのケージを熱心に覗き込んでいた。数日前に買ったばかりの小さな家族を、星矢はとても気に入っているようだ。ハムスターはまだ警戒していて、めったに小屋から出てくれない。それを辛抱強く待っている我が子がいじましい。
『ええー!村ですかあ!?』
テレビからまた明るい声がした。
低く落ち着いた声が「ええ」と応じている。
『私の夢です。今、ナチューラファームでは積極的に人材開発にも取り組んでいます。事情があって働けなかった人たちが、農業を通して収入を得て、そして生きがいを見つけている。お金を稼いで生活に余裕ができてはじめて恋愛ができ、何度も恋をして結婚ができるんですよ。私は皆がそうして余裕ある生活をしながら共に助け合って生きていく場所を作りたいんです。だから、夢ですね。村を作るっていうのは』
朗らかに笑う男の顔のアップに、「大宮氏が語る理想の社会とは?」というテロップが被さる。
『ボノボ の社会』
耳慣れない言葉が聞こえて文香は顔を上げた。
『ボノボ という霊長類がいます。チンパンジーによく似たサルの仲間です。私がまだ目的もなくフラフラしていた時に、大学で霊長類を研究するゼミに混ぜてもらって彼らの姿を見に行ったんです。大変でしたよ。なんせジャングルですから。しかし行ってみて驚いた。彼らはとても平和的なんです。ところで、サルっていうのは、子殺しをするのはご存じですか?ボノボ と近い種のチンパンジーだと、子殺しが起こります。オスが産まれたばかりの新生児を食べてしまったり、オスが自分の子でない子どものサルを殺してしまうことがあるんです』
レポーターが『怖いですねえ』と内容を理解しているのかしていないのか微妙な相槌を返したが、大宮はうんうんと頷いた。
『ええ。怖いですよね。それに悲しい。人間社会で起こっている問題は霊長類の
間髪入れずに、わからないですうと困って見せたレポーターに大宮は鷹揚に微笑んで、「コミュニケーションです」とはっきりと口にした。
『ボノボは危機的な状況に陥るとコミュニケーションをとってお互いの緊張を解こうと努力するんです。彼らは競わない。オスがことさら力を誇示しなくてもいいんです。互いにコミュニケーションを取り、触れ合い、平和を保ちます。私はボノボのコミュニティのように人と人とが繋がりあって争わない環境を作りたいですね。その中に教育も組み込んでいけたらと考えています』
玄関チャイムの音がしたので、文香はテレビを消した。
時間は午後1時30分を少し前だった。
「どなたですか?」
男は
霊能者?文香ははっと思い出した。ありさの幽霊だ。母親を恨んでマンションをさ迷うあの子の幽霊。
文香はドアを開けた。
背の高い男が立っていた。短い髪と太い眉は精悍な印象があったが、瞼の幅が広いのでどこか優し気だ。不思議な目の色をしている。
「どうぞ、お話しできることであれば」
盈の後ろからひょこっと小さな男の子が顔を出して頭を下げた。
「弟子です。
盈が言った。
「サンダルウッドですね」
ソファに腰掛けた盈がこちらを向いた。
「ええ、心を落ち着かせる作用があるんです」
文香はお茶の用意をしながら答える。夫の
部屋にはいつも香を焚いていた。香りは精神に作用する。精油は万能だ。体に塗って消炎作用のあるものも多いし、飲んで薬になるものもある。文香が所属するポジティブウェルネス研究会では、そういった古代からずっと培われてきた健康への知恵と最新の科学の知見を両輪として人々の心と体の健康を守るということを研究実践している。文香は協会が認定しているメンタルウェルネスサポーターの資格を取って5年になるが、今もまだ勉強することがたくさんあった。
「どうぞ。カモミールのお茶です。お口に合うといいのだけれど」
ガラスのカップに入れたお茶をテーブルに置き、文香はスツールを引きだしてそこへと腰掛ける。
「お母さん」
リビングの奥から星矢が覗いていた。客人に小さくお辞儀をし、少し心配そうな目でこちらを見ている。夫に似て少々引っ込み思案な子だ。
「こんにちは」
挨拶したのは盈の隣に腰掛けている黒い服の男の子だった。葦原十。9歳。
歳の割に落ち着いた子だと文香は思った。この子にも不思議な力があるのだという。そういった世界があることは文香にとって納得のいくものだった。一般的な科学とは別に、私たちは大地の力と宇宙からの波動によって動かされているからだ。それはポジティブウェルネス研究会の研修でも繰り返し説明されることであり、研究所の独自の科学的概念によってそれらを解き明かしたもののうち、技法として確立されたものを文香たちはカウンセリングに用いる。波動を用いて陽の感情を引き寄せ、悪いものを外に出す。これは既存のカウンセリングでは踏みいることのできない領域であり、教育にも健康にも、夫婦間の悩みにも応用可能なものである。
「すみません。十がちょっと退屈しているみたいで、お子さんと一緒に遊ばせてもらってもいいですか?いろいろと情報を集めないとならなくて、今朝から話を聞いてばかりだったんです」
盈が苦笑する。文香は構いませんよと言って星矢に声をかける。
「お兄ちゃんが遊んでくれるって。襖をしめておくから奥で一緒に遊んでてね」
十がぺこりと頭を下げて星矢の隣に並んだ。膝を折って目線を下げ、「よろしく」と言っているのが聞こえる。2人は和室へと移動した。人見知りをする子なのに、今日の星矢はずいぶんご機嫌に「お兄ちゃん」と懐いていた。
子ども同士、気が合うところもあるのだろう。しばらくして、ゲームの電子音が聞こてきた。
「ご迷惑をおかけします。あの子は僕の甥なんですが、両親を亡くしているんです。僕とよく似た目を持っているから、僕が引き取ったんです。しっかりした子ですが、さみしい思いをさせているのかもしれませんね」
盈がすまなそうに言う。20歳そこそこの青年が小さな子どもを引き取るというのは大変なことも多いだろう。それに、こういった仕事は時に人から不審な目で見られることもある。
「ああ、お話を聞きに来たんでした。僕が話してしまってはいけませんね」
盈は頭を掻いて、居住まいを正した。
「もうご存じだと思うのですが、このマンションには昨年の8月に亡くなった国分ありさちゃんの幽霊が未だ成仏できずに残っています。僕の見立てでは、普通の死に方をしていない。だから残っています。長谷さんから見て、ありさちゃんの様子はいかがでしたか。率直に言いますと、親子関係です。国分亮子さんと国分ありさちゃんとの関係は良好だと思いますか?」
ありさちゃんは、何かに不安を抱えていたようです。
文香はそう切り出した。
「私はカウンセラーとして子育ての問題も取り扱っています。子どもの描く絵というのは子どもの精神状態の指標になるんです。私も一度しか見ていませんが、ありさちゃんの絵は、明らかに異常でした。黒い色をした怪物やおばけは不安を抱えた子どもが描く絵なんです」
文香はタブレット端末をダイニングテーブルから取ってくると、画面を操作した。過去に文香がカウンセリングしたクライアントから送られてきた画像を呼び出す。
「この絵が一番似ています。これは母親から虐待を受けて育った人の描いたものです」
画面のなかで、黒い色をした人の形のものが女の子に覆いかぶさっている。このカウンセリングはずいぶん苦労した。最終的には彼女の中からポジティブなエネルギーを引き出すことに成功した。今もなお彼女はカウンセリングを続けているが、生きる力を取り戻すにはもうすぐであろう。巣くってもらった恩返しをしたいと彼女は言っていて、時期が来たらセラピストの養成講座を紹介するつもりだった。
「ありさちゃんのスケッチブックもこういった絵でいっぱいでした。星矢と一緒にお絵描きしている時に見たんです」
「ありさちゃんがお子さんのおもちゃを壊したそうですね」
しばらく画面に目を落とした後で盈は言った。
誰から訊いたのだろうか。いや考えるまでもない。水橋さんだろう。
「水橋さんからお聞きになったんですか?」
盈は少し困った顔をした。
「水橋さんはなんでも知ってらっしゃいますからね」
文香は水橋の特徴のない顔を苦労して思い出す。
あの人は欲求のエネルギーが大きすぎる。自己のエネルギーと他者から得るエネルギーのバランスが崩れている人だ。悪い人ではないけれど。
「ええ。ありました。星矢のおもちゃが壊されて、あの子のカバンから出てきたんです。でもそれも、愛着を求めようとする一つの表れだったんでしょうね。ありさちゃんは普段からマンションの中をよく1人で歩いていたんです。放置気味だったんですよ。もっとも、亮子さんもお若い方だったから、自分の子どもとの向き合い方がわからないままだったんじゃないかしら。だから、虐待というよりはすれ違いなんじゃないかと思うんですよ」
「すれ違い?」
「そうです。亮子さんはありさちゃんとの向き合い方が分からないから放置する。ありさちゃんはもっと自分を見てほしいから問題を起こす。その対処法も知らないから、亮子さんはありさちゃんを叩く。だから、あんなことが起きた」
あんなこと。そう。ありさの死だ。
その後に起きたことも文香は知っている。
去年の10月、 頃からありさの幽霊はマンションの中で目撃され始め、ひと月もする頃には私も見た、私も見たと皆が騒ぎ出した。
1人で寂しげにマンションを徘徊する姿を住民たちが目撃し、ついに管理人の野本が重い腰を上げた。だが、それが逆効果だったのだ。
彼が住民に配った、魔除けの効果があるという御札は効果はなく、さらに異様な現象を引き起こした。かつてありさが住んでいた505号室で怪事が起きたのだ。
彼女の部屋に安置されていたありさの骨壺が割れ、部屋中には御札が散らばっていたという。
「僕たちもありさちゃんが成仏できるようにできるだけのことをするつもりです。そのためにはまだ彼女に対する情報が足りない。長谷さんに教えていただきたいのは、亮子さんのことなんです」
盈は膝の上で指を組み替えた。
青いようにも灰色のようにも、黒のようにも見える瞳が揺れる。
瞳孔はさらに複雑な色をしていて、文香はほんの少しその色に引き込まれるような気がした。
「長谷さんから見て、亮子さんってどんな方でしたか?」
「お若い方というのが第一印象ですね」
話しながら、文香は亮子の姿を脳裏に再生していく。
それにしても、どうして亮子のことを聞くのだろう。
「それに、ちょっと派手な方という感じでした。このマンションにはあまりいないタイプの方だったので、最初は私も戸惑いました。そのうち水橋さんが亮子さんと話すようになって、それから、私とも言葉を交わすようになりました。水橋さんが、私がセラピストだって亮子さんに言ったみたいで、何回か相談を受けました。できる範囲でアドバイスしたりなどしましたね。亮子さんなりに頑張って溶けこもうとはしていたみたいです。言葉遣いとか、服装とか、気を付けるようになりましたね。でも、結果的にそれも自分とありさちゃんを追い詰めたのではないかと……」
ガタンという音がした。すぐに襖が開いた。
星矢が十の服の裾を掴んで、俯いている。
「すみません。絆創膏ありますか。星矢くんがハムスターに噛まれちゃって」
星矢が十の服の裾をぎゅっと引いたのが見えた。「大丈夫」と十はそれを制する。
文香は慌てて腰を浮かし、星矢の傍に屈みこむ。星矢はおずおずと掌を開いた。
人差し指の先の皮膚がめくれている。赤くなっているが、血は出ていなかった。
洗面所でよく洗ってくるように言う。十がすみませんとまた言った。
「星矢くんがハムスターを見せてくれるって言ったんです。でも機嫌がよくなかったみたいで、手に載せようとしたら噛まれました。ごめんなさい。オレが止めたら予感ですが」
「いいのよ。謝らないで。星矢が勝手にやったのだから」
文香は救急箱から絆創膏を取りだしながら思った。
賢い子だ。状況の説明もしっかりしている。大人と関わる時間が長いとこうなるのだろうか。
戻ってきた星矢の指に絆創膏を貼ってやり、「ジェリーは夜行性なんだから、昼間はそっとしておきなさいね」と釘を刺す。星矢は洗面所で泣いたのか、赤くなった目で、うんと頷いた。
「今日は特別にもう1時間ゲームしていいから、ゲームで遊んでて」
「星矢くん。行こう。スマブラのコンボ教えてあげるから」
十が笑って誘う。
星矢はまた、十の服の裾を握って後をついていった。
「すみません。どこまで話しましたっけ?」
「腕、どうかされたんですか?」
ソファに戻りかけた文香は、思わずえっと声を上げた。
「腕のここの所、痣になってますよ。どこかにぶつけられたのでは?」
盈は自分の前腕を指で示した。
今日は文香はドルマンスリーブのブラウスを着ていた。救急箱を用意する時に袖が上がって見えたのだろう。気がつかなかった。確かに青く内出血している。
「やだわ。本当。いつぶつけたのかしら」
「僕もよくありますよ。無駄に背が大きいから、色んなところにぶつかります」
「私は小さいので、背の高い人は羨ましいですよ」
文香は無意識に腕を押さえていた。
それから、いくつかのことを話した。
亮子に服装についてアドバイスしたこと。子育てのなかでできる気持ちの切り替え方法や子どもの話の聞き方などの助言もしたことも伝えた。
「亮子さんの様子がおかしくなったのは、去年の10月くらいからなんです。ありさちゃんが死んだ直後は、もちろんふさぎ込んでいらしたんだけど、四十九日が過ぎたあたりから急に病的というか、身なりなんかも気を使わなくなって、前に着てた派手なスウェット姿で出歩いたり、みんなにありさの幽霊が見えるのかなんて聞いたりし出して。私は、これはカウンセリングが必要だなって思ってセラピストを紹介したんです。私だと距離が近すぎるから、協会の別の人を紹介したんです。ありさちゃんの骨壺の事件を聞いて、これは放っておけないなって思ったので……」
文香はそこで一呼吸置いた。いくらもうこの世にいない人のことだからといって、口にするのが憚られたのだ。
「気になる点があったんですね。実は僕も同じところに引っかかっていたんです」
盈の言葉に、文香はほっとした。亮子の死について警察が簡単な聞き込みに着た時も、口にはできなかったのだ。
「そうです。だって、どう考えても自作自演じゃないですか」
盈は、そうですねと穏やかな口調で言った。
「状況ができすぎています」
「そうです。亮子さんも自分が苦しんでいる状況を口に出せない人だったんです。だから、あんな方法で助けを求めてしまって、それで、みんなもっと彼女と距離を置いてしまった。御札の話を信じている人たちは、怖がって退去する人もいて、なんだかマンション全体が異様な感じでした」
そうして文香は話を終えた。子どもたちの遊ぶゲームの音が小さく響く。
盈は組んだ指の上に顎を載せ、なにやら考えているようだったが、暫くして立ち上がった。
「お話しありがとうございます。いろいろと見えてきました。お時間を取らせてしまってすみません」
盈は襖の向こうに、「十、帰るよ」と声をかけた。
襖が開いて、やや不満そうな顔の星矢が顔をのぞかせる。
「星矢、お兄ちゃんはこれからご用事があるの。そんな顔しないで」
「まだ遊びたい」
「星矢くん、ごめんね」
十は優しく星矢の手を服の裾から離した。
「また来てくれる?」
星矢の問いに、うーんと十が唸った。嘘でもまたねと言ってくれたらいいのに。文香はそう思いかけたが、子どもは素直なのだと思いなおす。
星矢が背伸びして、十の耳元に何か囁いた。十はそれに頷く。
「それは絶対……」
十が囁き返すのも聞こえた。子ども同士で何か秘密の約束でもしたのだろう。
微笑ましい。
二人は頭を下げて707号室を出ていった。
玄関ドアが閉まる。途端に星矢が身を固くした。肩に首がめり込むほど首をすくめ、目を閉じる。わかっているんなら余計なことをするんじゃない。
文香は無表情で、自分の腕をテーブルの角へと叩きつけた。
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