それぞれの思惑(6)

「ファラ――‼」


 やっと追いつきました。視界にファラの姿を収めるや否や、目の周りがカッと熱くなるのを感じます。


 しかし、傍聴席がいくら騒がしくなろうとも彼はこちらに振り向きすらしませんでした。


「何事ですかな?」


 裁判官席から老齢の紳士の声が降り掛かり、私達の登場で浮足立っていた空気は一瞬にして元の緊迫感を取り戻しました。


「確か其方達は先程の……。」

「今年の最優秀淑女と紳士のお二人です。最優秀に選ばれた者として今回の件は知っておいた方が良いと思い、特別に私が呼びました。お伝えし忘れていて失礼いたしました、元老院長。」


 あのご老人――元老院といえば、公爵の天下り先である王家直属の組織だったはず。


 院長ということは、そのトップということでしょうか。

 となると、裁判官席にいるのは全員この国の重役ということ。


 それほどまでに、今のこの状況は国にとっても捨て置けない大事だということなのが分かります。


「静粛に!」


 王妃殿下の発言で再びざわつく傍聴席を鎮めるように、審問官はガベルを強く叩きました。


「尋問を再開します。」


 室内が静寂に包まれるのを確認すると、審問官はファラの方へと視線を落としました。


「先の証拠から被告人が下界人であることが証明されましたが、これについて被告人から何か異論はありますか?」


 通常の裁判とは異なり弁護人も検察もいないその異様な裁判に、これではファラの意見など聞く耳は持たれず、一方的に審判を下されるだけではないのか――。


 そういった心配ばかりが私の胸の内に靄として広がりました。


「いいや、俺が下界人なのは紛れもない事実だ。それに異論はない。」


 そのファラの発言に私は耳を疑いました。


 ファラには、下界に関わった者を悉く虐げるこの国の内情は散々話しました。


 国民が下界に触れるだけでという惨い刑を受けるというのに、自ら下界人を名乗ったら一体どうなるか――。


 それはファラ自身も分かっているはずです。



 傍聴席に座る人々も私同様に、ファラの発言には一哀一憂せずにはいられない様子でした。


「静粛に!」


 先程よりも怒声に近い声で審問官が語気を強めると、皆明日は我が身と言わんばかりに口を閉じました。


「主教殿の提出された証拠および被告人の供述により、以後被告人は下界人であるとして話を進めることとする。」


 無表情で目に光の無い審問官の冷たい声色は、一言呟くごとに背筋が凍るように寒くなります。


「次に被告人に問う。其方の目的は何だ?どうやって【正義の門】を超えたのか、それも含めて答えよ。」


 審問官の問いに、ファラはピクリとも動かずこちらに背を向けたままでした。


 この先ファラがどう答えたとしても判決は既に決まっており、それが揺らぐことはないでしょう。


 加えてここまで勢いで来たものの、ここから私がどう動いたとしても判決を裏返す事は叶わない。


 だからこそ、私はその背中に向かって祈るしかありませんでした。


「目的?正義の門?何かよく分からないが、勘違いしているようだからはっきり言っておく。」


 ファラの言葉に審問官の眉が僅かにピクッと動いたものの、ファラは気にすることなく続けた。


「俺はただ上界に来たかっただけだ。ずっと憧れていたこの場所にな。ただそれだけだ。それに、俺はその正義の門?とやらから来たんじゃない。」


 ファラは審問官を半ば睨みつけるように見つめ、傍聴席にもはっきり聞こえるような声量で答えた。


「目的はないと申すか。しかし、【結びの階段】を登り、【正義の門】を超えたのでなければ、いったいどうやってここまで来たと?下界からここへ至るには他に方法はないはずですが。」


 二人の会話に、傍聴席は再びざわつき始めました。


 【結びの階段】――ファラから聞いた、上界と下界を繋ぐ塔のような螺旋階段。


 ファラから聞いて知っている私を除けば、上界の人間でその存在を知っているのは恐らく王家の人間とそれに近しい方々だけでしょう。


 正義の門にはこの国の法律上、憲兵の中でも決まった者しか近づくことは許されていません。


 あの門を潜った先に何があるのか、それは傍聴席にいる人達には知る由もありません。


「結びの階段は下界じゃ登ることが禁じられている。登ったきり一人も帰って来ないからな。無事に上界に辿り着いたのかどうか、登った者の生死が確認できない以上は危険だって、十年くらい前に立ち入りを禁じられた。」

「なら其方はどうやって……。」

「あるだろ、もう一つ。下界と上界を結ぶ〝へその緒〟が。」


 その単語を聞いた瞬間から審問官だけでなく、裁判官席に座っていた全員の顔が分かりやすく歪みました。


「まさか其方は……。」

「ああ、そのまさかだよ。俺はドウケツの塔、いや、あんた等からしたらドウケツの洞穴だったな。そこから昇って来たんだよ。」


 ファラのその発言は、元々知っていた私とガイラさんを除くこの場にいた全ての人々を震撼させました。


「そんな馬鹿な……いや、其方を捕らえた場所を考えれば……いや、しかし――。」


 元老院長の含みのある呟きを始めとした裁判官席の様子から、その存在を半信半疑でしか知らなかった傍聴人達はもはや混乱に陥っていました。


「静粛になさい!」


 あわや騒ぎになるかといったところで主教様が声を上げられました。

 そのたった一言で、納得のいかない様子ながらも室内は何度目か、緊張感を取り戻しました。


「被告人、確かファラと言いましたか、世迷言を申すのはお止めなさい。陛下も御座せられるこの神聖な場で不敬ですよ。」


 この場を荒らすな――。


 そう睨みを利かせるように主教様はファラに恐ろしい形相を向けました。


「世迷言か。まあ、信じる、信じないはあんた等次第だ。だが、俺はドウケツの洞穴を登ってこの上界へ来た。それは嘘偽りない事実だ。」

「繰り言を申すでない!」


 血走った顔で激しく机上を叩く主教様の荒ぶる姿。


 こんな主教様は初めて見ました。

 いったい何にそこまで必死なのか。


 ドウケツの洞穴を昇って来たという信じ難い事実に対してなのか、それともその単語自体を連呼することに対してなのか。


 考えたところで分かりませんが、主教様の様子は荒唐無稽な発言に対する怒りというよりも、何処か焦っているように見えました。


「そうだな。あんた等が信じないなら、いつまで経っても話は平行線のままだ。」


 一方でファラは表情は見えないながらも、その背中と声色から一貫して落ち着いている様子でした。


 死刑は免れないであろうに、どうしてそこまで落ち着いていられるのか。

 それとも判決を覆せるだけの何かがあるのか。



 そう思った矢先のことでした――。



「もう良い。」


 その重々しい口がおもむろに開かれた途端、裁判官席も傍聴席も皆が口を一斉に閉じ、場がこれまでにない程の緊張と静寂に支配されました。


「汝の妄言は聞き飽きた。ニコラスよ、もう尋問は十分であろう。」


 陛下の御言葉に審問官はやや迷いながらもガベルを手にしました。


「そういえば、あんたが国王だったな。」


 まさに審問官がガベルを叩こうと振り上げた時でした。


 何を思ってか、ファラは審問官の左隣りに御座す国王陛下に向けて言の葉を投げました。


 それに対して陛下は何も言わず、ファラの方へ目線だけを向けられていました。


「陛下に向かって無礼ですよ。勝手な発言は控えるように。」


 流石の審問官もファラの口調には怒りを覚えたような表情を向けていました。


 ファラと陛下が互いに睨み合う中、ファラは審問官の制止を無視して再び口を開きました。


「俺は幼い頃からずっと上界を夢見てた。父さんが語ってくれていた上界を。」


 陛下の方に体を向けたことでここからでも僅かに見えるようになったファラの横顔は、それまでの様子とは一変して物悲しそうに見えました。


「父さんは出稼ぎで二年ごとにしか帰って来ないから、ほとんど家にいなかった。だから、小さい時の俺は父さんの土産話をいつも楽しみにしてた。その中でも上界の話には特に興味を惹かれたもんさ。父さんは上界に行ったことなんてない。勿論それは分かってた。けど、それでも俺には、まるで見てきたように話す父さんの話が好きだった。」


 前に湖で聞いたファラとファラのお父さまの話。


 唐突に語り出すファラに、傍聴席はいつの間にか彼の話に黙って耳を傾けていました。


「だけどある日、ドウケツの塔でボロボロで血まみれになった父さんの手帳を掃除屋の爺さんが持ってきたんだ。」


 実際には涙を見せてはいませんが、その表情と声色から私にはファラが心で泣いているように見えました。


「ドウケツの塔で見つかるのは〝上界からの落とし物〟だ。なのに、何故そこに父さんの手帳があったのか、俺には分からなかった。手帳の中身を見るまでは……。」

「そこまでです。其方の思い出話などこちらには聞く意味がありません。」


 審問官はガベルを二度叩きながら口を挟みました。


「それがあったから俺は、両手の指を犠牲にしてでも六年かけてあの塔を昇ってここへ来たんだ。」

「まだ続けますか。憲兵!」


 気にせず話し続けるファラに、審問官は左右に待機していた憲兵さん達に口を塞ぐよう手振りしました。


「いいえ、良いではありませんか。」


 憲兵さん達がファラを取り押さえようと動き出したところで、それを制止するように更に口が挟まれました。


「王妃殿下。しかし……。」

「何を語ったところで彼の死刑は変わらない。そうでしょう?」

「それはそうですが――。」

「確かに貴方の不安は尤もです。そうですね……では、これからの彼の発言には私が責任を持ちましょう。万が一にも彼の発言でこの国に不利益が生じるようなことがあれば、それを許した私が全責任を負います。それなら良いでしょう?」


 王妃殿下がそう仰るのが意外だったのか、他の四人は驚いたような表情を見せていました。


 王妃殿下の目配せに審問官は頷きで返すと、皆の視線は再びファラに集まりました。


「そしてここへ辿り着いて直ぐ、俺は一人の女の子に出会った。」


 先程の裁判官席のやり取りをまるでなかったかのように、ファラは優しい声色で続けました。


「その女の子は塔を昇り切って力果てた見ず知らずの俺を看病してくれた。何日もずっと、俺の素性を知った後も、バレたら自分の身が危ないのも分かった上で、それでも看病してくれたんだ。本当にありがとう。」


 ファラはずっと陛下達の方を向いてこちらには目線すら一切向けませんでしたが、それでも今の一言は私に向けて言ってくれたのだ、と胸が熱くなりました。


「彼女はいつも優しくて、笑っていて、ずっと一緒にいたいと思うほど話していて心地よかった。まさに父さんが話してくれた通りの上界人だった。」

「その女の子とは、いったい誰ですか?」

「父さんは、上界は国も人も豊かで思いやりがあって温かい所だって言ってた。だから彼女と会って、ここまで諦めずに昇ってきて良かったと心底思った。」

「こちらの問いには無視ですか……まあ、いいでしょう。」


 そのまま話し続けるファラに主教様は呆れた様子で頬杖をつかれましたが、その様子は次のファラの発言で一瞬にして吹き飛ぶこととなりました。


「だけど、俺は見たんだ。あの洞穴で、人が落とされるその様を。」


 その言葉を聞いた途端、裁判官席にいた全員の顔が再び歪みました。

 ただ一人、王妃殿下を除いて――。


「まだ思うように体が動かせなかった俺は、それをただ見ていることしか出来なかった。悔しかった。納得できなかった。だから聞いたんだ。彼女に。」


 ファラの顔は分かりやすく怒りを露わにしていましたが、それでも何処か悲しいようにも見えました。


「そこまでです。これ以上の発言は許しません。」


 審問官は焦ったように力強くガベルを叩きました。


「俺はその時彼女からこの国の内情を聞いた。父さんから聞いていたものとはまるで違ったこの国の内情を。その時の彼女の悲痛な声は今も耳に焼きついて離れない。」

「今すぐ発言を控えなさい!」


 審問官は立ち上がりガベルでファラを指しながら注意するも、ファラは一切気にせず続けました。


「あんた等は【下界落ち】に遭った人間がどんな状態で見つかるか知ってるのか!!」

「お黙りなさい!」


 憤った様子で裁判官席の五人を一人一人睨みつけるファラを、主教様が怒鳴りつけました。


 傍聴席は【下界落ち】という単語で皆動揺を隠せないといった様子でざわついています。


「あんたは確か、あの時主導してた――。」

「何を言っているのか分かりませんね。」

「そうかよ。でもな、俺は決めたんだ。」

「知りません。が、もう勝手はさせませんよ。憲兵!」


 今度は主教様の呼びかけで憲兵達が再びファラの元へその口を塞ぐべく駆け寄りました。


「彼女は死にかけの俺を救ってくれた。そんな彼女が泣きながら言ったんだ。【下界落ち】を止めたいって。」

「いい加減になさい!憲兵、早くその者の口を塞ぎなさい!」


 声を荒げる主教様に怯えるかのように、憲兵さん達は一斉にファラの手を、体を、そしてその口を拘束しました。


「なら今度は、俺が彼女の願いを叶える番だ!」


 首と体を振って何とか口だけでも開けると、ファラは広間全体に届かせるには十分すぎる声量で叫びました。


「どけよ!」


 ファラは力一杯繋がれた両腕を振って左右の憲兵二人のバランスを崩して倒すと、背後から羽交い絞めしているもう一人に右脇腹に向かって肘打ちを食らわせて拘束を解きました。


「何を手間取っているのですか!痛みで喋れなくさせるなり、気絶させるなり、さっさとなさい!」


 主教様の号令で憲兵達は腰に差した剣や持っていた槍を一斉にファラへと向けました。

 しかし、ファラはじりじりとにじり寄る憲兵達には目もくれず、繋がれて更に指のない手で必死に懐からあの手帳を取り出しました。


「あんた等ならの意味が分かるはずだ!」


 そう言って、ファラは僅かに残った左手指の第二関節で手帳を掴み、その最後のページを裁判官席に突きつけました。


「そ、その紋章は――!?い、いや、そんなはずは――!?」


 それを見た瞬間、真っ先に元老院長が目を見開いて声を上げました。


 元老院長だけではありません。

 主教様と審問官も絶句して立ち尽くし、王妃殿下は両手で口を塞ぎ、ここまで他と比べてそれほど表情の変わらなかった国王陛下ですら、その顔は驚きを露わにしていました。


「俺の名は、ファラ=レクロリクス!正真正銘〝レクロリクス王家〟の血を引く人間だ!」


 怒号にも似たファラのその叫びは、裁判官席だけでなく、憲兵さんや傍聴席、私とガイラさん、この広間にいる全員の心を大きく震わせました。


「レクロリクス……?それに王家って……?」


 ファラのことを元々知っている私でさえ、ファラの言っていることを理解することは儘なりませんでした。



 レクロリクス――その名前には聞き覚えがあります。



 学院の大庭園にあったあの像。

 その像の名前が、確かレクロリクスでした。


 ファラはあの像の人の血筋ということ?

 でも、仮にそうだとしたらファラは元々この国の人ということ?


 それに、ファラは自分を王家の血を引く人間だと……。

 でも、王家のファミリーネームはロースハイムのはず……。


 レクロリクスなんて名前はあの像以外に聞いた事もありません。


「いったいどういう……ガイラさんは何か知っていますか?」


 自分だけでは処理しきれない。

 そう思ってガイラさんに助けを乞いましたが、その横顔を見れば、ガイラさんも今の状況を全く理解できていない様子でした。


 戸惑う声が傍聴席で漏れる中、柵の向こうではようやく事態が動き出しました。


「其方は下界人ではなかったのか……。いや、そもそも何故それを……。」


 元老院長が震える声で恐る恐る言葉を絞り出すと、ファラもゆっくりと口を開きました。


「俺は間違いなく下界の人間だ。だが同時に、この国の――上界の人間の血を色濃く継いでいる。でもそれは、俺だけに限った話じゃない。」

「それは……つまりはどういうことだ?」

「下界の人間の約半分は、濃い薄いの違いはあれど、皆レクロリクスの血を引いているってことだ。」


 その言葉を聞いた瞬間、元老院長は全てを悟ったように溜息をついて腕を組まれました。

 そしてそれは他の四人も同じ様子です。


「あんた等も知っているはずだ。千年前に起きた悲劇を。」


 ファラの問いに、裁判官席の五人は各々異なる表情は見せつつも誰も答えませんでした。


「千年前――この国が建国した当時、王家には二人の王子と一人の王女がいた。そのうちの次男――つまりは第二王子は、あの森にある洞穴の大穴に足を滑らせて落ちた。」


 ファラは語りながら手帳を懐に戻すと、再び陛下達に目を合わせて続けた。


「それは別に仕組まれたものではなく、本当にただの事故だった。だが、当時の王妃は自分が傍にいながら起きたこの事故に酷く落胆した。国では第二王子の死を追悼し、喪に服したものの、死んだのは第二王子。国の存命には何の問題もなかった。国は第一王子が継ぎ、王家が途絶えることもない。だから年月が経つにつれ第二王子の存在は徐々に薄れていった。」


 ファラが今語っているのは本当にこの国の歴史なのでしょうか。


 こんな場面でファラが嘘をつくとは思えません。

 ですが、そう思わずにはいられないほどファラの語り出した昔話は聞いた事もない歴史でした。


「だが、王妃だけは違った。第二王子の夭折を皆が忘れていく中、王妃だけは王子がまだ生きていると信じていた。穴は深過ぎて捜索こそ出来ないが、きっとどこかに繋がっていて生きている、と。だからこそ、王妃は王子が落ちたその次の日から、毎日食べ物を穴に落としていた。それが王妃の日課となったんだ。そしてそれが後に功を奏すことになった。」


 ファラの語るこの国の歴史――。


 それこそ妄言だと思わずにはいられない内容にもかかわらず、裁判官席は不思議と沈黙を貫いたまま、誰一人否定することはありませんでした。


「第二王子は奇跡的に生きていた。動けない程全身に怪我を負っていたものの、生きていたんだ。そして、王妃が穴から落とした食べ物で飢えを凌ぎ生き延びた。ある少女に出会うまで――。」


 ファラが一言一句語るごとに裁判官席の空気は一層重くなっていく。


 その明らかに異様な光景は、傍聴席の者達の心に益々疑念を与えていった。


「ある日、第二王子は穴の底で一人の少女に出会った。王子は少女に連れられ、朽ち果てた村で治療を受け、その家族と共に過ごした。そうして幾年月か経った後、怪我の治った王子に最初に沸いた感情は、助けてくれた少女への感謝と、自分の存在への絶望だった。」


 ファラは声を震わせながらも懸命に続けました。


「村では、その日に食べる物すらままならず餓死する者が後を絶たなかった。加えて、病に倒れる者も少なくなかった。当然、薬など貴重も貴重。それでも王子には傷を治すべく、十分な食事と薬が毎日出ていた。それは何故か。それは単純な信仰心だった。〝天から降って来た子供〟――村の者達がそう言って神の子だと王子を奉っていた。『明日は今日よりも良い日が訪れますように――。』己が身を後回しにしてでも、村人達は王子に祈りを捧げていた。そんな村人達の姿を見て、王子は心に誓った。この村の繁栄と、そしていつか家族のいる上界に再び戻ることを。そして王子は上界での生活を参考に、幼いながらも数十年という時を掛けて村を発展させた。」


 根拠など何もない。


 けれど、ファラが今話している事は紛うことなき真実なのだ、とこの場にいた皆の胸にそう響いていた。


「その後王子は助けてくれた少女と結婚し、子孫を反映させた。ただ一点、家族との再会という夢こそ果たせなかったものの、子孫にその夢を託し、悔いなく人生を真っ当した。その子孫が王子の遺志を継ぎ、幾星霜を掛けて繁栄させたのが今の下界だ。」


 ファラはそこまで話すと、一息つくように深呼吸を一回して裁判官席の様子を窺った。


 裁判官席は今までに無いほど深刻な面持ちで暗い様子だった。


「仮に百歩譲って今語った戯言が真実だとして、其方は何が言いたい?」


 皆が押し黙る中、口を開いたのは国王陛下でした。


「戯言か……お前達に話しても詮無いことだったか。」


 ファラは誰に聞かせるでもなくそう呟くと、無性に腸が煮えくり返ってきた。


 ここまで話してもまだ響かないのか。

 ならもう直接言ってやるしかない――。


 ファラは国王を睨みつけた。


「下界の人間の過半数は濃い薄いはあってもお前達と同じ血が流れている!特に俺はあんたと同じレクロリクスの血を色濃く継いでいる!元を辿れば俺達は皆同じ血を継いでいる家族なんだ!それを悉く下界人と蔑んで、下界と関わった者を下界落ちといって殺す――。そんな暴虐が許されるのか?いや、許されていいはずがない!違うか!」


 吐き捨てるように怒鳴るファラの声――。


 初めて聞くその悲痛な叫びに、私の心は酷く揺れ動いていました。


「ファラ……。」


 何が正しくて、何が間違いなのか。


 答えは決まっているはずなのに、話のスケールが想像以上に大きくなり過ぎて、今まで生きてきて身に着いた知識がその答えに行きつくことを邪魔してしまいます。


「確かに……。」


 額に汗を掻きながらガイラさんはおもむろに口を開きました。


「彼の名前が本当にファラ=レクロリクスなら、王族の人間である可能性は高い。」

「どういうことですか?」


 独り言として呟いたつもりだったのか、ガイラさんは驚いたようにビクンッと体を震わせてこちらに顔を向けました。


「私もユナウさんもそうですが、ここにいるのは王族以外は例外なくミドルネームを持っています。しかし、ロースハイム王家の方々はミドルネームを持ちません。そして、あの青年――ファラ=レクロリクスもまたミドルネームがない。それはつまり、王族の人間だという事を意味します。」

「確かに、言われてみれば……でも、王家のファミリーネームはロースハイムですよね?レクロリクスという名前が王家というのはどういうことなのでしょうか?」

「それは、私にもさっぱりです……。が、もしかしたら私達は根底から勘違いしていたのかもしれません。」

「勘違い……?」


 それが何なのかはまだ分かりません。


 ガイラさんの表情は一つの考えに行きついている様子でした。


 ですが、この状況でそれを聞く勇気が私にはありませんでした。

 私も漠然とは感じていますが、これ以上足を踏み入れることはすなわち、この国の深淵に触れることを意味するからです。


「言いたいことはそれだけか?」


 裁判官席は相変わらず五人五色の顔色を見せるも、国王陛下の様相は変わりありませんでした。


「それだけ……だと!?」

「其方が言っていることは極論に過ぎん。其方の戯言を仮に全て真実と受け入れたとしよう。だが、それが何になる?」

「何って……同じ人種を傷つける必要はないだろ!少なくとも下界を虐げる理由はなくなるはずだ!」

「同じ?フッ……ハハハ。」


 ファラの言葉に陛下は腹を抱えるように高笑いしてみせました。


「何がおかしい!?」


 ファラは憎たらしく思うように憤怒の表情を陛下に向けました。


「同じ人種などと戯言を。思い上がるな下界人!」


 初めて声を荒げた国王陛下のその圧は、傍聴席にいる私達の背筋まで凍らせるほど不気味なものでした。


「同じではない。決してな。我らは純粋な上界の人間の血を持つ。しかし、其方は違う。仮に其方の言う通り、下界の人間に上界の血が流れていたとしても、所詮は下界の血が混じった薄汚い血だ。それを同じ血とは、片腹痛いわ。」

「薄汚い……だと?何故下界の人間をそこまで虐げる?何故純血か、混血かでそんなにも差別する?一部でも同じ血が流れていたら、それは自分と同じ血族だ!同じ家族だ!違うか!」


 冷静さを欠いて感情的になるファラ――。


 それに対して、陛下の表情は余裕そのものでした。


「なら貴様は、会ったこともない人間が人を殺したら、その罪を代わりに背負えると申すか?」

「それは……。」

「出来ぬだろうな。だが、貴様の主張はつまりはそう言うことだ。会ったことのない人間でも先祖を辿れば同じ家族。それが通るのであれば、赤の他人はこの世に存在しないということ。それはすなわち、身内の犯した罪は己にも責任があると受け入れるということだ。」


 唇を噛みしめて俯くファラに、陛下は冷たい眼差しを向けるだけでした。


「ニコラス、決まりだ。」


 国王陛下の声に審問官は頷き、再びガベルを手にした。


「それでも俺は――」


 何かを決心したようにファラは顔を上げて国王の方を見やった。


「俺は、受け入れる。血族の罪を背負うのは王族の務めだ!俺達は皆同じ血を持つ血族。同じ仲間を、家族を、蔑む必要も、殺す必要もない!下界落ちはもう必要ない!」


 それはファラにとって本心ではあるものの、精一杯の抵抗だった。


「それこそ戯言だな。」

「くっ……。」

「それに、貴様は一つ勘違いをしている。この国の王家は今も昔もロースハイムだ。レクロリクスなどという名はこの国には存在しない。」

「なん……だと……!?」



 信じられない、万策尽きた――。



 まるでそう声に出すかのようにファラは膝から崩れ落ちました。


「終わりだな。ニコラス。」


 再び宣告を催促する陛下の声に、審問官がガベルを叩きました。


「被告人、ファラ=レクロリクス。最後に何か言い残す事はありますか?」


 審問官の問いにファラは何も答えず、その身を動かす事すらありませんでした。


「ファラ……。」



 私はこのまま祈る事しか出来ないの?

 ファラは結局死刑になってしまうの?

 なら、私は何のためにここまで来たの?



 審問官がガベルを叩く音が残響となって耳に響きます。



 どうにかしたい、どうにかしなければ――。



 そう思っても、怖くて足が竦んでしまって動けません。


「ユナウさん!」


 その時でした。強張っていた私の腕が力強く掴まれました。


「ガイラさん……。」

「動くなら、もう今しかありません。判決が出てしまえば彼は即死刑です。考えなしでも、もう動くしかありません!」



〝 そうよ、ユナウ。あの人の手を掴んで――! 〟



「今のは――!?」


 周辺にいた人達が私達の会話を不思議に思ったのか、不安そうにいくつか視線が向けられています。


 しかし、そんなことも気にならないくらい私は心が研ぎ澄まされていました。


「ユナウさん?」


 ガイラさんの心配そうな声が薄ぼんやりと聞こえてきます。


 そう――。


 この人のお蔭で思い出せました。


「ありがとう御座います、ガイラさん。」

「あ、いえ……どうも。」


 何のことか、と頭を掻くガイラさんを横目に私は立ち上がりました。


「お母さまの教え、今ようやくその意味が分かりました。どうか今一度、私に勇気を下さい。」


 小さく呟いて祈った後、私は床に膝を着ける力のないファラの背中を見つめました。


「判決。被告人ファラ=レクロリクスは、死――」

「お待ちください!」


 審問官が判決を述べる寸前、私は傍聴席から力強く叫びました。


「何事ですか?今大事なところです。傍聴人は規則を遵守なさい。」


 審問官が分かりやすく不快感を露わにするも、私は恐れずファラの元へと駆け出しました。


「いい加減になさい!憲兵、その者を退場させなさい!」


 柵を越えようとする私を見て、焦ったように審問官が憲兵の方々に命令しましたが、気にせず私はファラの元へ走りました。


「何で――!?」


 焦ったように立ち上がってこちらに振り返るファラを見て、私は安堵すると同時にその腕をしっかりと掴みました。



〝 取り返しがつかなそうと思った時は、迷わずその人の手を掴みなさい。絶対に離しては駄目よ。でないと、その人とは二度と一緒にいられなくなってしまうから―― 〟



 あの時――ドウケツの洞穴で見つかりそうになった時、私は諦めて手を離してしまった。

 掴まなかった。


 私はそれを後悔しました。

 お母さまの教えがあったのに、私はそれを守れなかった。



 でも、だからこそ――。



「今度は離しません!」


 両手で掴んだファラの腕を私は自分の体にギュッと抱き寄せました。


「どうして……何で出てきたんだ!?これじゃあ君まで――」

「先に約束を破ったのは貴方の方です。」

「約束?」


 ファラは戸惑いを隠せず瞳孔を震わせていました。


「『誰にも見つからないで』って約束したのに、貴方は自分から見つかりに行きました。」

「いや、あれは君を守るために――」

「関係ありません。約束は約束ですから。先に破ったのはファラなんですから、これでお相子です。」


 したり顔で胸を張る私に、ファラは根負けしたように溜息をつきました。


「参ったな。」


 それでもお互い顔を見合わせてみれば、思わず失笑していました。


 何が可笑しい訳ではありませんが、この感じ何だか久々な気がします。


 ファラが横にいるだけで安心できる。

 ずっと一緒にいたい。


 そんな気持ちが心の底から溢れてきます。


「そこまでだ!」


 再会に浸る間もなく、気づけば私達は憲兵さん達に取り囲まれていました。


「ファラ。」

「ああ。君に任せるよ。」


 もう一度顔を見合わせると、有無を言うまでもなくファラはこちらの意図を理解してくれていました。


 ファラに頷いてから私は一歩前に出ると、裁判官席と対峙しました。


「私は今年の最優秀淑女に選ばれたユナウ・レスクレイズ=アルバートンと申します。皆さまどうか私の話を聞いて下さい。」


 ここに立ってみて初めて分かる――。


 傍聴席からは感じなかった裁判官席からの重圧に思わず気圧されそうになります。


「待ちなさい!貴女は今自分が何をしているのか分かっているのですか!?」


 私の登場に加え、主教様の荒げる声に場は益々混乱に陥っていました。


 最早傍聴席のざわつきも抑えは効かないでしょう。

 でも、だからこそ今この場で私が発言することに意味があります。


 普通の学生だったなら、この場で何を発言しても無意味だったでしょう。

 でも、最優秀淑女と発表され認知された今の私なら、一つ一つの発言の重み、その影響力は多大なものとなるでしょう。



 【最優秀淑女】――その称号には何の興味もありませんでしたが、今日まで努力し続けて良かった、と今は心の底から思います。



「先程ファラの話に出てきた、上界で出会った女の子というのは私です。」


 そのたった一言だけで、これまで以上に傍聴席の騒々しさが増しました。


 学院外に於いての最優秀の称号というのは、どうやら私が思っていたよりもずっと影響力の強いもののようです。


 でも、それなら一層都合がいい。


「彼の話にもあった通り、私は行き倒れていた彼を助けました。それは、人として人命救助は当たり前だからです。勿論、その時は彼が下界人だったなんて知りませんでした。彼の口から下界から来たのだと聞いた時は耳を疑いましたし、六年も掛けてあの穴を昇って来たなんて今でも正直信じられません。けれど、逆に言えばそれは上界人との区別がつかないという事でもあります。」


 気づけば憲兵の矛先がすぐそこまで迫っていたが、ファラは〝今は彼女の言葉を聞け〟と憲兵達に目配せをした。


 憲兵達は苦い顔をしながらも、その矛先を直ぐには突き出さなかった。

 それは偏に、憲兵達の心の中にも国に対して疑念が湧いていたからに他ならなかった。


「彼とこの一年弱話をして、私は下界に関する多くのことを学びました。そして聞けば聞く程私達と然して変わらない、下界人も私達と同じ普通の人間なのだと分かりました。」

「そこまでです!今の発言は陛下を、いいえ、この国を否定する言葉ですよ!」


 声こそ荒げてはいますが、主教様の顔はあの時――下界落ちを始めて見た時に見せていた表情と同じものでした。



 怖い――。



 思わず足が震えます。

 けれど、ここで恐怖に負けて引いたら一生後悔します。


 ファラが傍にいることを思い出し、私は自身の心を奮いたたせました。


「いいえ、主教様。下界人は私達と変わらない人間です。同じ血が混ざっていても、そうでなかったとしても、下界人も同じ一人の人間なんです。だから、上界人だからと、下界人だからと、差別する必要なんてないんです!」

「ユナウ……。」


 ファラが心配そうに呟くのを聞いて、私は最後のダメ押しと言わんばかりにファラの腕に抱き着きました。


「私は、ここにいる彼が、ファラが好きです!例え彼が下界人であっても、私は彼のことが好きです!」


 ファラの目を一心に見つめると、顔を真っ赤にしながらもファラは頷き返してくれました。


「俺もユナウのことが好きだ!」

「上界人と下界人でも分かり合える。愛し合える。私達の関係が何よりの証拠です!」


 その言葉は、ここにいる何人かを除いては、それまでの固定観念を吹き飛ばす程人々の心を震撼させた。


「馬鹿なことを……。」


 主教様は顔を青褪めては気分悪そうにバタンッと音を立てて座りました。


 他も、元老院長は両手に顔を埋め、王妃殿下は固唾を呑んで先行きを窺っているように見えます。


 審問官はガベルを持つ手を震わせて迷っている様子でした。


「ニコラス!」


 しかし、国王陛下の怒声に審問官は焦ったようにガベルを何度も強く叩いて無理矢理場を鎮め、間を置くことなく口を開きました。


「は、判決。被告人ファラ=レクロリクスは死刑とします!」

「そんな!?」

「くそっ……!!」



 一考する余地はある――。



 そう思う者が少なくなかっただけに、傍聴席からあわや暴動が起きるのではと思う程の罵詈雑言が裁判官席に向かって浴びせられました。


 その所為か、憲兵さん達の半分以上が私達をそっちのけで傍聴席を押さえに掛かっていました。


「静粛に!この件に関しては一切の反論を認めない!以上、閉廷とする!」


 傍聴人達が憲兵さん達によって部屋の外に押し出される中、国王陛下は反対側から去ろうとしていました。


「待てよ!」


 ファラは陛下に向かって叫びましたが、陛下はこちらに振り返ることなくそのまま掃けていってしまいました。


「ファラ!!」

「ユナウ!?」


 ユナウの叫びにファラは瞬時に反応するも、時既に遅く、ユナウは憲兵達に腕を掴まれていた。


「お前ら、その子を離せ!」


 そう叫ぶと同時に、頭に固い感触を覚えた。


「ファラ――!!」



 ユナウの泣き叫ぶ声が聞こえる――。



 それを最後に、ファラの意識は途絶えた。

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