第一章 下界落ち

下界落ち(1)

 紳士・淑女の国ヘイルベン――この国がそう呼ばれるのは、男性は紳士ジェルジュ、女性は淑女レイジュとして、幼い時から品位と知性を身に着けるために八歳から成人となる十八歳まで、ここロースハイム王立学院に通うことを強制され、成人した後もその品格を求められ続け、国民全員が例外なく紳士・淑女として日々を過ごしているからです。



「えー、本日も皆さんが健やかにこの場に集まられていること、大変嬉しく思います。毎朝この場に赴き、聖歌を歌い、一日の始まりを明確にしてから勉学に取り組む――その毎日の積み重ねが皆さんを淑女へと導くのです。」


 教会の祭壇で話す主教様を千人を超える全校女生徒が一心に見つめる。


 このありがたいお言葉を毎朝教会で聞くことから私達の学校生活は始まります。


 主教様のお話は一言一句いつも同じで、数百回、数千回と耳に胼胝ができるほど聞くことになるため一年もいれば暗記してしまいます。


「それではで締めとします。皆さん準備はよろしくて?」


 主教様の息遣いで三拍置いて全員で口を開きます。



〝 淑女の心得 六か条 〟


一つ、常に上品でお淑やかであれ 歩き方一つ、微笑み方一つにも気を遣います


一つ、常に落ち着いた丁寧な言葉遣い 無口ではなく、安心感を与える言葉選びをします


一つ、常に堂々としていること 混乱の中でも冷静に物事を判断し、適切に対処します


一つ、常に穏やかであれ 感情的にならず、無感情にもならないよう気をつけます


一つ、常に知性を感じさせること 挨拶一つ、会話一つにも配慮します


一つ、常に身だしなみを整えること 清潔感を保ち、周りへの気配りを忘れません   



「よろしい。では皆さん、本日もごきげんよう。」


 最後の挨拶を済ませると主教様は早々に出ていかれました。


 私達学生は主教様をお見送りしてから教会を出て校舎へと向かいます。

 そうして午前中は一般教養を学び、午後には礼儀作法やダンス等の淑女に必要な能力を身に付けます。


「ユナウさん、本日の昼食は屋内庭園ティンベルでいただきませんこと?」

「あ、クリスティーナさん。お誘いありがとう御座います。それは良い提案ですね、喜んで。」


 お昼休み――同じクラスの友人に誘われ、私は屋内庭園へ向かうことにしました。



 【屋内庭園ティンベル】は、学院内にある施設の一つで、私達女生徒の憩いの場の一つです。


 広場のように広々としたお部屋には庭園というだけあって種類豊富な草花があり、専属の庭師さんによって毎日手入れされています。


 中央には大噴水があり、その四方には小噴水もあります。


 そして数か所にお花の匂いや雰囲気を堪能しながらお茶を楽しめるガゼボがあり、学院内の施設の中でも人気スポットになっています。



「クリスティーナさんの今日のお弁当、凄く美味しそうですわ。」

「ユナウ、ここは生徒だけのプライベートスペースよ。その呼び方は止して。」

「あ、そうだよね。ごめん、クリスちゃん。ついいつもの癖で……。」


 クリスティーナはやれやれと一つ溜息を溢すと、バターナイフを手に取り、ルーブルパンを手で裂いてその箇所にマーガリンを塗った。


「責めている訳ではありませんわ。そういう所が貴女の素敵なところですし。でも、入学前からの付き合いなんだから、私と話す時くらいもう少し肩の力を抜いても良いのでは?」

「うん、そうだね。」


 そう答えた私にクリスちゃんは笑顔を返してくれました。


 クリスちゃんの家と私の家は家同士のお付き合いがあって、この学院に入学する前からの親友です。

 私が気を置かずに話せるのはクリスちゃんと両親だけです。


 しかし学校の規則上、お父さまとはもう十年以上会っていません。

 お母さまも私が四歳の頃にこの世を旅立たれてしまわれました。


 だから、クリスちゃんといる時間が私にとっての癒しの時間なんです。


「そういえば、もうそろそろですわね。」

「何のこと?」

「今年の【最優秀淑女ポーティマス・レイジュ】と【最優秀紳士ポーティマス・ジェルジュ】の発表ですわ。」

「ああ。」

「ああって、貴女ねえ、次期最優秀淑女なんて呼ばれているんだから、もう少し気にしたらどうですの?」

「ごめん、クリスちゃん。前から言ってるけど、私そういうのにあまり興味がないの。」


 クリスティーナはガクッと肩を落としては『信じられない』とユナウにジト目を向けた。


「学年一番の成績で容姿端麗、才色兼備で常に完璧。殿方からのお嫁に欲しいランキング毎年一位の貴女がそんなことでどうするんですの?」

「そ、そんなことないよ!今だってクリスちゃんの方が言葉遣い綺麗だし、成績も普通だし、お化粧とかだって私苦手で全然してないし……。」

「それは私がそうしなさいって言ったからでしょうが!というか、お化粧に関しては普通に嫌味だからね、それ!」

「ク、クリスちゃん!言葉、言葉!」


 ハッとしたように手を口で塞ぎ顔を真っ赤に染めるクリスちゃんを、私は不覚にも可愛いと思ってしまいました。


「私は感情が表に出やすいタイプだから最優秀淑女には程遠いですわ。だからこうして貴女と話す時も多少話し方に気をつけていますのに。」


 クリスティーナはムスッとしながら卵焼きを口にした。


「それを言ったら私だって六か条の『堂々としていること』は満たしてないよ。いつも自信ないし。」

「そうかしら?その割には以前大勢の前でお話しされた時は物怖じしていませんでしたし、この前殿方から告白を受けた時も動じていなかったじゃありませんか。まあ、時々やたら頑固になる時がありますけど。」

「そ、そんなことないよ。人前で話すのは慣れましたけど、告白の時は凄く恥ずかしかったですし、どうしていいか分かりませんでしたし……。」

「言葉遣い。」

「はっ、ごめん。」


 ユナウはナイフとフォークを置いて両手を膝に置くと下を向いてしまった。その様子にクリスティーナはまたもやれやれと溜息をつくと、ユナウに微笑みかけた。


「顔を上げて、ユナウ。私が悪かったわ。」

「クリスちゃん。」


 ユナウの寂しそうな表情に、クリスティーナは意地悪し過ぎたと少し反省した。


「まったく貴女という人は、その顔がもう反則ですわ。」


 クリスティーナはお弁当箱の蓋を閉じると、紅茶を一口飲んでから立ち上がった。


「そろそろ時間ですわ。戻りましょう、ユナウ。」

「うん、ありがとう。クリスちゃん。」


 私とクリスちゃんは空のお弁当箱をしまい校舎の方へ戻りました。



 本日の午後の授業はダンスです。


 ダンスを踊れるのは淑女として必須の能力です。

 ワルツを始め、フォックストロット、ジルバ、タンゴ等も踊ります。


 そして、私はこのダンスの授業が一番苦手です。


 ダンスは踊るのも見るのも好きですし、何よりドレスを着られるのは嬉しいです。

 先生のご指導も分かりやすく、お人柄も大好きです。

 ですが――。


「では、各々準備を整えて後、男女でペアを作って下さい。」


 やっぱり今日も――。


 先生のお声で、例の如く周囲がざわつき始めました。


 そうです。この授業は男女合同の授業なのです。


 紳士と淑女では求められるものが異なるため、基本的に寮舎も校舎も分かれており、授業も別々に受けます。


 しかし、両者とも共通に求められるものも少なからずあり、ダンスはそのうちの一つです。


 そして、ただでさえ殿方に見られることに不慣れな私がこの授業を一番苦手とする理由は正にこれです。


「流石の人気ですわね、ユナウ。」

「クリスティーナさん……。」


 後ろからこっそりとクリスちゃんが話しかけに来てくれました。

 私は藁にも縋る思いでクリスちゃんの手を握りしめました。


「もっとシャキッとしなさいな。ダンスの腕前は貴女が一番ではありませんか。それに、ダンスは基本的に殿方がリードしてくださいますわ。何も難しいことはなくてよ。」

「確かにそうですけど、そういうことではなくて……。」

「まあ確かにあんな視線を大勢から向けられれば、貴女の気持ちも分からないでもありませんわ。」


 クリスティーナは反対側に列を成してこちらを見る男生徒達を見遣った。


 その視線は明らかにユナウに集中しており、今日こそは自分がユナウと踊るのだ、とそう聞こえてきそうなほど皆目を血走らせている。


「こちらにも大勢魅力的な女性がいるというのに、失礼じゃありませんか、まったく。」

「クリスティーナさんの言う通りですわ。」


 思わず出たボヤキにユナウが賛同してくれたものの、クリスティーナは少し後ろめたい気持ちでもあった。


「まあ、こちらも人のことは言えませんけど……。」


 横目で少し離れた女生徒達を見れば、正面のユナウを見遣る男生徒達と同様の視線を一心に向けている姿があった。


 男生徒達の中でユナウが人気なように、反対に女生徒達に人気な男生徒も当然存在します。


 クリスティーナが視線を前に戻すと丁度その男生徒が他より一歩前へ出てきました。


「キャー、スイルリード様よ!」

「こっちに来てくれないかしら!」

「今日は私が踊るのよ!」


 淑女のお淑やかさは何処へ行ったのやら。


 そう思うほど隣の女生徒達は盛り上がりを見せていました。

 


 ガイラ・ジーン=スイルリード――この国で王家の次に権力を持つ四大公爵家の一つ、スイルリード家の一人息子にして、ユナウと同じ次期【最優秀ポーティマス】との呼び声高い紳士。


 その権力もさることながら、容姿、性格は正に紳士と呼ぶにふさわしく、全てを持った男と噂されるほどの人物です。


「やっぱり競争率高そうですわね。」

「クリスティーナさんも大好きですものね。」

「なっ――!?」


分かりやすく顔を真っ赤に染めるクリスちゃん。


 何といいますか、とても尊いです。

 この二人がくっ付いたらさぞお似合いでしょうに。


「失礼、ちょっといいかな?」


 私達がその声に振り返ると、そこにはなんと噂の人物がいました。


「ス、ス、ス、スイルリード様!?わ、私達にな、な、何用でしょうか!?」


 突然のことにテンパっているせいか、クリスちゃんの舌は回っていません。


 その様子に目の前の紳士はこほんっと小さく咳払いをすると、優しく微笑みながら口を開きました。


「ミス・アルバートン、宜しければ本日は私と踊っていただけませんか?」


 そう言ってスイルリードさんは左手をそっとこちらに差し出してきました。その瞬間、私の頭は真っ白になってしまいました。


 ダンスの授業は十歳からあります。今まで多くの殿方にお誘いをいただきましたし、恥ずかしながらこちらからお誘いしたこともあります。


 というより、それだけ長い間何度も授業があったのですから大半の殿方とは踊ることになります。


 しかし、スイルリードさんからお誘いを受けたことはこれまで一度もありませんでしたし、ましてやお誘いしたこともありません。


 クリスちゃんに助けを乞おうと横を見ますが、あまりのショックからか、石にでもなったかのように固まったまま反応してくれません。


「え、ええっとー……。」


 こちらの様子を察したのか、スイルリードさんは先程とは少し異なる口角の上げ方で微笑みながら出した手を引っ込めました。


「すみません。どうやら困らせてしまったようですね。今言ったことは聞かなかったことにしてください。」


 顔には出ていませんでしたが、戻っていくその背中は少し寂しそうでした。


 声を掛けていただけたことは光栄でもちろん嬉しかったのですが、上手くお返事を返せず、お気まで遣わせてしまいました。何だか申し訳がありません。


「待ってください、スイルリード様!」


 呼びかけたのはクリスちゃんでした。その顔は真っ赤なままでしたが、どうやら石化は解けたようです。


「何でしょう、ミス・ウェルディーン?」


 スイルリードさんがこちらに再び向き直ると、クリスちゃんは私の背中を強く押してきました。


「え、ちょっ、クリスティーナさん!?」

「スイルリード様からのせっかくのお誘いをお断りするなんて言語道断ですわ。いいから踊ってきなさいな。」


 クリスちゃんは誰にも聞こえないようにひっそり耳打ちしてきました。


「ほら!」


 再び背中を押されて態勢を崩しながら前に出ると、目の前には綺麗に整った殿方の顔がありました。


「あ、あの……。」


 何故だが先程までとは比べ物にならないほど緊張しました。

 今までこんなに胸がドキドキした覚えはありません。

 これはいったい――。


「ミス・アルバートン、どうかしましたか?」


 目だけ合いながら一向に口を開かない私を不思議に思ったのか、スイルリードさんは落ち着いたトーンで話を振ってくれました。


「あの、先程はとんだご無礼を、大変失礼いたしました。」


 そこで私は二、三秒頭を下げてから呼吸を整え気持ちを落ち着かせました。


「いえ、無礼ということの程では。パートナーの選択は自由ですから。」


 その言葉にホッとしつつも気持ち新たに頭を上げ、もう一度スイルリードさんの目を見て私は右手を差し出しました。


「ミスター・スイルリード、どうか私と踊っていただけませんか?」


 その言葉にスイルリードさんは少し驚いた様子でしたが、再びあの微笑みを向けて私の手を下から包むように握って下さいました。


「喜んで。」


 温かい。

 今までも授業の度に多くの殿方に手を握っていただきましたが、その誰よりもスイルリードさんの手は温かいものでした。


 各々がパートナーを決め、いよいよ音楽が流れ始めます。

 スイルリードさんのリードはとてもお上手で、私は直ぐに緊張が抜け楽しさと高揚感で時間も忘れてダンスに夢中になりました。


「ミス・アルバートン。」

「な、何でしょうか?」

「これからは私のことを家名ではなく、ガイラと呼んでいただけませんか?」


 踊る中でスイルリードさんは私を抱き寄せるようにして耳元で囁きました。その行為に恥ずかしさのあまり私はしばらくの間目を合わせられず俯いてしまいました。


「はい――。」


 あまり思考が回らず、スイルリードさんが何を思っているのかも深く考えずに私はお返事してしまいました。


 しかしそれが、この後の大事を引き起こしてしまったのだと今になって思います。


 音が徐々に消え曲が終わりを告げた時、私は真っ先にスイルリードさんから手を離していました。


 あれ以降私は一度もスイルリードさんと目を合わせられませんでした。

 スイルリードさんもそんな私に微笑みかけるだけで、それ以上は何も仰いませんでした。


 もう戻ろう――。


 そう思った時でした。

 周りがやけに賑やかな雰囲気で、皆さんの視線が私達に向けられていることに気がつきました。

 それどころか、私とスイルリードさんは皆さんに囲まれる形で見られていたのです。


「スイルリードさん――!?」


 何事かと振り返った瞬間、私は目の前の光景に目を疑いました。


 スイルリードさんは片膝を床に着け、右手を私の方へと差し出し跪いていたのです。


「ミス・アルバートン――いえ、ユナウ・レスクレイズ=アルバートン嬢。卒業式グラジュアートの日、無事成人を迎えたその時、どうか私の妻となっていただけませんか。」


 スイルリードさんがそう言葉を紡いだ瞬間、それまで騒がしいほど賑やかだったボールルームは一瞬にして静まり返りました。



 告白プロポーゼ――それもただの告白ではありません。四大公爵家の長男、つまりは次期公爵の告白。

 それは国の生涯をも変える可能性のある大事です。


「スイルリードさん……。」


 私はどう答えていいのか分からずただ言葉に詰まっていました。


 告白されたことに対しての嬉しさや恥ずかしさよりも〝なぜ〟という疑問と戸惑いで胸がいっぱいでした。


 息の詰まる沈黙が続き場に緊張が走り始めた頃、パンパンと手を叩く音がボールルームに響き渡りました。


「皆さん、授業はまだ終わっていませんよ。」


 沈黙を破ったのは先生でした。

 その音で皆さんハッと我に返ったように張り詰めた糸を解くと、再びざわざわと落ち着かない雰囲気になりました。


「仕方がありませんね。今日の授業はここまでとします。次回までに苦手な部分をよく復習しておくように。良いですね?」


 『はい!』と声を揃えて返事をすると、皆さんは話しながら教室へと戻っていきました。


「まったく貴方という人は。告白自体は個人の自由ですから咎めはしませんが、もう少し時と場所を考えなさい。最優秀としても、紳士としても、大切な事ですよ、ミスター・スイルリード。」

「申し訳ございませんでした、マスター・ヒルデ。以後、気をつけます。」


 スイルリードさんは先生に頭を下げると、今度は私の方に変わらぬ微笑みを向けました。


「ミス・アルバートン、先程は失礼しました。」

「い、いえ。」

「お返事は今すぐでなくて構いません。卒業式まではまだ半年以上ありますから、どうかゆっくり考えてみて下さい。」

「はい。」



 そこまで言うとスイルリードさんはご学友の方々と部屋を出ていかれました。

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