この世界のきっかけ

ワタリヅキ

本編


 仕事帰り、夜道を車で走っていた時のことだった。

 その時の俺は、いささか冷静さを欠いていたと思う。ついさっき、会社を退社する直前に、業務上の重大なミスに気が付いてしまったのだ。会社には残り俺一人で、いまさらどう対処することも出来ず、半ば逃げ出すように会社を出てきてしまった。先に帰った上司の個人携帯に連絡をしてすぐに報告すべきなのだろう。いや、すべきだ。社会人として当然のことだ。しかし、今日は金曜日。今頃上司は楽しくお酒を飲んでいる頃かもしれない。そんな時に電話をしたらどうなるか、想像しただけでゾッとする。

 道の両側にさまざまな店舗が並んでいる片側一車線の通りだった。街灯が明るく道を照らす中、その時走っていたのは俺の車一台だった。

 やはり、上司に電話をすべきだろうか。あるいは、そうすることで事態は最悪の局面を迎える前に収束する可能性もある。このまま放置して週明けを迎え、それから発覚する方が最悪なのは間違いない。俺はポケットの中に入っているスマホを意識した。電話、すべきだよな。

 何か、きっかけが欲しかった。正直になって逃げない気持ちを後押ししてくれるような。そんな都合の良いことがある訳がないよなと思いながら。

 何気なく歩道を見ると、白いコートを着た女性が一人、歩道を歩いていた。見たところ三十代くらいだろうか。その姿に特に変わったところはなくそのまま追い越そうとした時、その女性がパッとこちらを振り返り、そして俺と一瞬目があったような気がした。

 見覚えのない人だったし、気のせいだったのかもしれない。何せ1秒にも満たない刹那のことだ。そう思いながらバックミラーを見てみると、その女性が派手に右手の拳を突き上げて、何かを叫んでいるように見えた。何を言っているのかまでは車の窓を閉じていたので分からなかったが、それが情熱的な叫びであることは間違いなかった。思わず窓を開けてしまう。

 訳が分からず、世の中には変わった人もいるものだとあまり気にしないようにして、再び目線を前に戻した。運転中にあまり脇見をするものではない。

 少し前の横断歩道の押ボタン式信号機が、青から黄色に変わる。見ると、自転車に乗った男子学生が一人、横断歩道を渡ろうとしているようだった。

 俺はアクセルペダルからブレーキペダルに足を移した。


***


 仕事帰り、夜道を一人歩いていた時のことだった。

 私は今日、人生の決断を迫られていた。

 長年付き合っていた彼氏から結婚しようと言われ、今日返事をしないといけないことになっていたのだ。もちろん彼氏のことは大切に思っているし結婚しても良いのかもしれない。しかし、これまで付き合ってきた期間が長かったこともあり、今の関係のままでも良いのではないかという気もしていた。実家を出て、これから彼と二人で暮らしていけるのか、漠然とした不安もあった。マリッジブルーというものかもしれない。

「よし」

 おもむろに、私は決意した。

「次に通り過ぎる車が黄色い車だったら、私は結婚する」

 私は一人、そう宣言した。

 昔から決断の仕方が変わっていると言われてきたが、この結婚の決め方も相当変わっていると思う。しかし、運に委ねるこんな決め方が私には合っていると思った。どうせ自分では決められないのだ。きっかけは自分で生まなければならない。

 黄色い車を選んだのは、ありそうであまりないカラーリングで、結婚を決断するのにちょうどいい確率であるような気がしたからだ。もちろん、結婚を決意するのに適した確率なんてこの世界に存在しないことは理解している。白や黒ではなく、黄色の車。もし、この私の突拍子もない決意と、この世の中の偶然がシンクロするとしたら、私はきっと思いっきり叫びをあげて拳を天に突き上げることだろう。

 片側一車線の通りは今、珍しく車が一台も走っていなかった。


***


 塾帰り、夜道を一人自転車で走っていた時のことだった。

 横断歩道を渡るために信号機のボタンを押す。普段は車通りの多い道だが、この時は向こうから黄色い車が一台走ってくるだけだった。

 今日の塾での出来事を思い出す。

 最近成績が落ち込んでいて、志望校への合格が厳しいと講師の先生から言われた。志望校を変えるのも一つの手ではないか、こっちの学校はワンランク落ちるが、生徒の自主性を重んじる魅力のある学校だよと、他の選択肢を提案してくれたのだが、僕に志望校を変えるつもりはなかった。

「絶対に志望校は変えない。塾の先生なら生徒が合格できるようにするのが仕事だろ」

 僕はそう言って、机を思いっきり倒して塾を飛び出してきてしまった。先生が何かを言って呼び止めようとしたが、僕は無視して自転車に飛び乗りここまで走ってきたのだった。

 実を言うと、成績が落ちているのは僕が勉強をさぼっていたからだ。最近、学校で友達と喧嘩することがあって家に帰ってくると疲れてすぐに眠ってしまう。勉強しなければいけないと分かっていても勉強する気になれなかった。

 先生はそんな僕に一生懸命勉強を教えてくれて、進路の助言をしてくれた。僕をやる気にさせようと色々考えてくれていたし、先生には感謝していた。僕はその思いに応えるどころか、むしろ裏切ってしまったのだ。

 謝るべきだろうか、いや謝るべきだ。

 学校でのことは塾の先生には関係がないし、僕はやり場のない怒りの矛先を先生に向けるべきではなかったのだ。

 何か、きっかけが欲しかった。

 どんなきっかけでも良かった。例えば、あり得ないことだけれど、突然誰かが歓喜の叫びをあげるような、この世界の中にあるドミノが倒れだす瞬間のような、そんなきっかけが欲しかった。

 向こうから来た車が、横断歩道の手前で停車した。

 その時だった。

 車が走ってきた方角から、女性の歓喜の叫び声が聞こえてきたのだ。

「よし! 私は結婚する!」

 そう叫んだように聞こえた。

 よく見ると、白いコートを着た女性が一人、歩道に立って拳を天に突き上げていた。その姿を見て僕ははっとした。

 きっかけだ。

 僕はついさっきまで考えていたことを思い出す。何かきっかけがあれば動き出せる。まさに今、考えていたようなことが起こったのだ。

「よし!」

 僕も彼女につられて叫んだ。「僕はこれから謝りに行く。正直になって、逃げずに先生に謝りに行く」


***


 横断歩道の手前で車を停めた時のことだった。

 目の前の学生が突然、叫び出したのだった。窓を開けていたので、彼の言葉は耳に入ってきた。

 俺ははっとした。

 これは、きっかけだ。

 俺はついさっきまで考えていたことを想起する。正直になって社会人としてあるべき行動をするきっかけを俺は望んでいたのだ。

 そうか、どういう訳かは分からないけれど、目の前の彼が叫んだのは俺の背中を押すきっかけなのかもしれない。

 横断歩道の信号が青になる。俺は少し車を走らせ車を路肩に停車させた。深く深呼吸する。

 俺はポケットからスマホを取り出し、上司への通話画面をタップした。


Fin.

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