幕間 鹿を見に行こう
「グレイ! 私、「鹿」が見てみたいわ!」
アーネット様がそんなことを言い出したのは、屋敷に暴漢が侵入したあの日から、半年ほどが経ったころだった。
「鹿、ですか?」
「ええ、私、本の中でしか見たことがありませんの。後学のためにも、実際に見ておきたいのです!」
「それでしたら、首都にお戻りになられた後、飼育されているものを……」
「いいえ、野で生活している鹿が見てみたいの!」
目を輝かせる彼女。アーネット様は、人一倍学問への探求心が強い。言い方を変えれば、好奇心が強いともいえる。
「アーネット様。この近辺の山は思われているより危険です。ここはどうか」
「そう……よね。無理を言ってしまったわ」
彼女は目を伏せる。……彼女は、自分に危害が及べば、その責任は従者である俺たちに向かうことを理解しているのだ。そのことに思い至ったのだろう。
俺はそんな彼女に弱かった。ため息をついて、外着に手をかける。
「分かりました……。俺が着いていきます。一目見たら、すぐに戻りますよ」
アーネット様はぱっと見で分かるほど顔を
馬車で行けるところまで行った後、坂の
「はあ、はぁ……」
俺の後ろを歩くアーネット様はだいぶ息が上がっているようだった。アーネット様も俺も動きやすい服装に着替えてはきていたが、それでもこの山の坂道は堪えるだろう。
「休憩しますか?」
「いえ、大丈夫。もう少しでしょう?」
「では……せめてお手を」
俺が手を差し出すと、アーネット様は不思議そうにそれを見る。
「杖代わりにと。無礼でしたらすみません」
「いえ……ありがとう。変ね。人の手に触れることは慣れていないの」
アーネット様がそろりと手を差し出す。汗ばんだ手が、俺の手袋をしかと掴み、俺たちは最後の坂道を歩き出した。
「あ……あそこ! 居たわ、グレイ!」
はしゃぐ彼女の声で、坂を上がり切って休憩をとっていた俺は、彼女が指さす方向を見る。
そこには二頭の鹿が、寄り添って植物を食んでいた。
「つがいかしら。見て、グレイ。あっちは角が生えているでしょう? 角が生えているのはオスで、角のない方がメスなの」
楽しそうに樹の影から、彼らを見て話すアーネット様。と、牡鹿が俺たちに気付いたのか、角を立てて威嚇してきた。俺はアーネット様とその牡鹿の間に立ち、腕を構える。
「アーネット様。危険です」
「あら、すみません。お邪魔しましたわね、すぐに去りますわ」
アーネット様が坂を下り始めたのを確認してから、それを追いかける。
ふと振り返ると、雌鹿を後ろに置くように、こちらをじっと見ている牡鹿と目が会った。
「……お前も、お姫様を守ってるってわけか。邪魔して悪かったよ」
言葉が通じたわけではないだろうが、牡鹿はすぐにふいとこちらから目を逸らし、二頭の鹿は森の奥に消えていった。
俺は彼らが完全に見えなくなるまで、その姿をぼんやりと眺めていた。
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