ガジュマル

風のみた夢

ガジュマル

 チューニングの合わないラジオのような、静かなノイズが響いていた。

「雨だ」

カーテンをめくると、濡れていく景色が見える。

「もう梅雨がくるのかな」

アスファルトや隣家の屋根が、湿った色に沈んでいく。

 そっちはどう、と受話器の向こうに聞いてみた。

「晴れてるわ」

だるそうな声が返ってくる。

「夏みたい」

彼女は暑さが苦手だった。そしてエアコンも苦手だ。扇風機が回る小さな部屋で、汗に濡れたシャツの胸元を、指で扇いでいた姿を思い出す。

「暑いの、大変だね」

と僕は言った。

 そうね、と彼女は言った。

 そして、僕らは沈黙した。

 手にした電話は、「洋子」の文字を画面に映す。向こう側にある退屈そうな顔が、ぼんやりと想像できた。その姿は、アクリルで何層にも隔てられているように感じた。

 僕は関東を離れてから、洋子との約束どおり、ときどき電話をかけるようにしていた。

 最初は週に一度、話をした。それが隔週になり、今日は一ヶ月ぶりに洋子のことを思い出して、連絡をした。今日あったこと。最近のこと。思いつくままに、話してみる。けれど話しのタネは、すぐに尽きてしまった。

「変わったことはない」と尋ねても、「別に」とそっけない答えが返ってくる。もう話したくないんだということを、洋子の声音が僕に伝えた。

 愛媛に帰って三ヶ月、目新しいことはたくさんあった。新しく始めた仕事のこと、そこでの人間関係。けれどそれは、説明するにはあまりに煩雑で、楽しい話題でもなかった。距離が離れたことで、共有できないものが増えていく。

 たぶん、彼女も同じようなものなのだろう。これ以上、話を続けても、お互いに疲れるだけだった。もう、電話をするのも、終わりにした方が良い。

 そんなことを、僕は考えた。

 片手でカーテンをもてあそびながら沈黙をやり過ごしていると、ベランダで濡れるガジュマルが、不意に目にとまった。


 ――


 洋子とは、森の中のコテージで出会った。

 東京での暮らしに馴染めず、人との関わりに悩んでいた僕は、心理相談所に通っていた。一年ほどカウンセリングを受けたものの、問題が改善することはなかった。カウンセラーの玲子さんは、グループ・カウンセリングを僕に提案してくる。

「あなたの悩んでること、あなただけが悩んでるわけではないと思う。誰かと話をする。誰かと悩みを共有する。それはあなたにとって、何かの助けになるかもしれないわ」

 グループ・カウンセリングのチラシを玲子さんから受け取り、読んでみた。山の宿泊施設で行われる七日間の合宿だった。

「どう。参加してみない」


 東京からの新幹線を一時間ほどで降り、隣のローカル線に乗り継ぐ。

 二両編成の列車は客をまばらに乗せ、山間の線路を走った。街から、日常から遠ざかり、僕を知らない場所へと連れていく。目を閉じまどろんでいると、ブレーキに揺られ、終点のアナウンスが流れた。

 無人の駅に降り、切符を車掌に手渡す。

「ミツオさん、こっちよ」

改札の向こうで、玲子さんが手を振っていた。

「早かったんですね」

僕は答えながら、玲子さんの方へ歩く。

 駅前の広場には参加者らしい人たちが、幾人か集まっていた。絞り染めのシャツを着た五十代くらいの坊主頭の男性、ジャージ姿の四十代くらいの女性、お洒落なブラウスとパンツを着た学生のような女性。広場のまわりを当て所なく歩き、時間をつぶす人もいた。年齢も格好も、まちまちだった。

「どうぞ、よろしくお願いします」

坊主頭が周りに挨拶し、ジャージの女性が応える。玲子さんは、ブラウスの子と話していた。

 僕は手持ちぶさたに、遠い山をながめる。

 しばらくすると、迎えの車が到着した。荷物を後部座席に乗せ、皆がワゴン車に乗り込む。

「皆さん、そろわれましたか」

初老の運転手が声をかけ、車を走らせる。タイヤが石をはじきながら、山沿いの道を進んだ。

 二十分ほど走り、車は雑木林のなかに停まる。そこから伸びる小道を、玲子さんに付いて歩く。小屋につながれた柴犬が、初老の運転手に尻尾を振った。

「レオ、元気そうね」

玲子さんは犬に声をかける。

「こんにちは。今日からよろしくお願いします」

 管理棟に玲子さんが呼びかけると、六十代くらいの女性が出てきた。かっぽう着で、にこやかに僕らを案内してくれる。

 コテージの玄関に通され、扉一つ開くと、明るいホールが広がっていた。樹々を透かした陽光が、奥から差し込んでいる。円形のホールを囲むように、部屋や洗面所が配置されていた。僕らは荷物を置き、設備や寝具の説明を受ける。


 一息ついた頃、僕らはホールに集められた。

 カーペットに十個の座椅子が丸く並べられており、玲子さんが腰掛けていた。

「どうぞ、好きな所に座ってください」

玲子さんにそう言われ、参加者はばらばらと席を埋めていく。顔見知りの人もいるようで、お互いに声をかける様子があった。僕は場違いなところに来たような気がして、座椅子で所在なく床を見つめる。

 参加者がそろうと、玲子さんが口を開いた。

「皆さん、参加していただき、ありがとうございます。ここに座っている皆さんが、いまから一週間、一緒に過ごし、体験を共にするメンバーになります。

 最初にいくつか、説明をさせてください。

 ここは皆さんにとって、安全な場所です。皆さんが、ありのままの自分で、安心して過ごせる場所にしたいと思っています。そのために、お願いしたいことがあります。

 私からエクササイズを提案し、体験をシェアしてもらうことがあります。他にも、いま感じていること、過去に体験したこと、自分のどんなことでも話してもらって構いません。そこで見たり聞いたりしたことは、他の場所では話さないようにしてください。

 それからもう一つ。皆さんと話をするなかで、色んな感情がわき起こってくることがあります。それを、フィードバックとして伝えることができます。そのときには、自分を主語にした、Iメッセージで話すようにしてください」

玲子さんが、ここでのルールを説明していく。これから一緒にやっていくこと、守るべきこと。

 概要を説明し終わると、「最初のエクササイズを始めてみましょう」と玲子さんは言った。

「まずは、隣の方とペアになって、自己紹介をしてみてください」

 僕は戸惑い、固まってしまう。隣を見ると、女の子と目が合った。

「一緒に、いいですか」と彼女は言った。うん、と僕は小さくうなずく。

 小さな女の子だった。えくぼをつくって笑う顔はあどけなく、高校生くらいに見えた。

「洋子って言います。二十五歳です」

へえ、と僕は言った。年上だった。あなたは、と洋子に聞かれ、「もう少しで、僕も二十五」と答える。

「なんだ、タメじゃん。敬語使って損しちゃった」と言って洋子は笑った。

 僕は東京で看護学生をやっていることを話す。

「この一年くらい、玲子さんのカウンセリングを受けてて。今回、玲子さんに、合宿に出てみないかって」

「へえ。玲子さんの」と洋子は興味深そうに聞いた。

「私も玲子さんのワークショップに出て、すごく良かったからこれにも参加したの。

 玲子さんってきれいでしょ。でも怒ると目が三角になって、怖いのよ」

言いながら洋子はくすくす笑った。

 自己紹介を聞いた相手を、代わりに皆へ紹介していく。そんなエクササイズを行って、その日のセッションは終了となった。

 夕飯のため、僕らは食堂のある建物まで移動する。管理人さんたちが、食事を用意してくれていた。玄米のご飯とサラダ、魚を皆で取り分け、お味噌汁を注いでいく。敷地の畑で採れた食材が、たくさん使われていた。

 ご飯を噛むと、もち、もちと鳴り、玄米の風味が広がる。野菜は瑞々しく、マッシュポテトはなめらかに口で溶けた。

「美味しいね」

皆が口々に言う。僕も頷く。思い思いに話をし、僕も一緒に笑いながら、穏やかに夕食を摂ることができた。


 翌日から僕らは、一人ひとりの抱える思いを話しはじめた。それは、子育てのことであったり、仕事のことであったり、生きづらさであったりした。それぞれが抱え、内面につかえている思いを、言葉にし、感情に表し、吐露する。他の者は、ただ見守り、共有した。


 電車が怖い、と洋子は言った。

「満員電車で、身動きとれないと、不安になるの。過呼吸を起こしそう」

足先に目を落とし、怯えたように話す。両手は腰の横で、座椅子を強く握りしめていた。

「帰りの電車に乗ることを考えても怖い。新幹線は、ドアが閉まると閉じ込められた感じがするから」

洋子は助けを求めるように、玲子さんの顔を見る。

「事故にあってから、怖いの。狭くて、逃げられない場所」

言いながら、洋子は涙をこぼす。

 玲子さんは、洋子の横に座り、背に手を当てる。言葉はなく、ただ呼吸を合わせ、一緒にいた。洋子は、うずくまり、すすり泣く。

「もし良かったら、ここにいる皆にも、手を当ててもらってもいいですか」

 うん、と涙でくぐもった声で洋子は言う。

 皆が、洋子の背に手を置いていく。僕も肩にそっと触れてみる。やせた、小さな身体が、浅い呼吸をくり返していた。

「みんなに、言葉をかけてもらっても、いいですか」。玲子さんの問いかけに、洋子はもう一度頷く。

「大丈夫」

「一緒にいるよ」

「平気だから」

それぞれが、静かに言葉をかけていく。洋子のこころの平穏を、祈っていた。

 しずかに時間が過ぎる。

 洋子は涙を拭き、玲子さんの方を見た。

「ここで、いったん終わっても大丈夫ですか」。玲子さんが問う。

 洋子は頷きながら「ありがとうございました」と皆に言った。


「僕は、どこにいても嫌われるんです」

合宿の四日目、僕は自分のことを話してみる。

「ひとと、付き合えない。何を話したらいいのか、分からない。初対面の人と頑張って話してみても、次に会うと、もう何を話したらいいか分からない。

 喋れない僕は、邪魔になって、皆に迷惑をかけてしまう。どうやっても、嫌われてしまう。僕なんか、いない方がいい」

そう言って僕は、膝に顔をうずめる。

 もう死にたい、と呟く。

 玲子さんが傍で見守り、皆が言葉をかけてくれる。

 大丈夫だよ。そのままでいいよ。あなたがいてくれるだけでうれしい。

 暖かい言葉だった。嬉しかった。

 僕は泣いたあと、くたびれて座椅子にもたれた。放射状の支柱に支えられた、多角形の天井をながめる。真ん中に天窓があり、木漏れ日が差し込んでいた。

「そのままで、いいんでしょうか」

ぼんやりと、誰にともなく呟く。

 玲子さんが「そのままで、良いんですよ」と、僕に繰り返した。見ると、皆が、静かにうなずいていた。

 合宿の最後の夜、僕らはホールに集まって過ごした。

 玲子さんが夫のことを話すと、洋子がその出会いについて聞き出そうとする。ジャージの主婦は、若い頃にフィンドボーンで過ごした体験を教えてくれた。坊主頭の男性は、ホールのピアノで「主よ、人の望みの喜びよ」を演奏してくれる。

 僕はそこで過ごしながら、皆との時間をただ楽しんでいた。

 七日間で、僕が変わるすべなど、見つかりはしなかった。それでも、人の優しさは、感じた。人のなかに、あたたかく、ここちのいい場所がある。そのことが、僕に記憶されていた。人への、信頼や、安心が、心の深くに、浸透していった。

 翌日、合宿が終わると、僕らは荷物を背負い、コテージを後にする。

 犬と管理人さんに手を振り、ワゴン車に乗り込む。駅に着き、初老の運転手に手を振って、改札をくぐる。参加者は皆、電車に乗り、やがて、てんでに降り、帰っていく。手を振り、扉が閉まる。そのたびに一人減り、二人減り、僕らは日常へと戻っていく。

「ねえ、帰りはどっち」。新幹線を降りて、洋子は言った。

 高円寺と答えると、「同じ方向ね」と僕の顔を見る。

「電車、一緒に乗ってよ」

いいよ、と僕は言った。良かった、と洋子は安心した顔で笑う。

「喉かわいちゃった」。新宿まで帰ってきたとき、洋子は言った。喫茶店に寄っていこうよ。上目遣いで見る洋子に、いいけど、と僕は答える。

 駅から出ると、外は雨が降っていた。僕は傘を持っておらず、そのまま歩きはじめる。

「待ってよ」と言って洋子は鞄を探り、折りたたみ傘を取り出した。

「入んな。濡れるよ」。傘を開きながら、洋子は言う。そして腕をいっぱいに伸ばし、僕の頭上に傘をかぶせようとした。

 いいよ、という僕に「持ってよ、もう」と怒ったように洋子は言った。

 僕は傘の柄をつかむ。けれどそれはあまりに小さくて、洋子を濡れさせないように僕が縮こまると、彼女と肩が触れた。

「相合傘ね」と言って、洋子は楽し気に僕を見た。

 喫茶店の席に荷物を置き、カウンターに並ぶ。僕はミックスジュースを、洋子はソイラテを頼んだ。

「帰ってきちゃったね。東京に」

目まぐるしく行きかう人を眺めながら、僕は言う。

「そうね」。気のない返事しながら、洋子はメモ帳を破っていた。そこに電話番号とメールアドレスを書いて、僕に差し出す。

「ミツオさんも、教えてよ」

言われて僕は、携帯電話を取り出した。普段、かける相手も、かかってくることもない電話だった。

「何番だったかな」。言いながら、自分の番号を確かめる。


 それから洋子はときどき、僕に電話をかけてくるようになった。

「こんど銀座のクラブで、友達が歌うことになったの」。深夜の着信に出ると、洋子はそう話し始める。

「学生の頃からの付き合いで、聴きに行ってあげたいんだよね。でも、電車に乗れる自信がなくて」

「ちょっと遠いね」。僕は彼女の家から銀座までの乗り換え経路を考えてみた。

「それでさ、ミツオさん。一緒に行ってくれない」と洋子は言う。

「僕が行くの。ライブに、洋子さんと」僕は驚いて答えた。女性とライブに行ったこともなければ、銀座のクラブに入ったこともない。

「電車に乗るための『お守り』みたいなものよ。来週の土曜日の夜、空いてるよね」。もう決まったことみたいに、洋子は話を進めた。

 銀座のクラブに女の子と行くには、どんな服を着て行ったらいいんだろう。僕は持ち合わせの衣類を全部並べて、悩んだ。そして、黒い服と黒いズボンを着て、黒い靴を履いて出かけた。

「変じゃない」待ち合わせ場所で洋子に聞くと「いいんじゃない。何でも」と言う。

 満員電車も地下鉄も、話しながら乗っていると、洋子はごく普通の女の子に見えた。なんでもない話を、いくらでも話してくれる。洋子の話を聞くのは、僕にとっても心地よかった。

 混みあう電車を銀座で降り、明かりの灯る街を歩き、ひとりだと絶対に入らない重い扉を開く。店員に案内され、座ったソファーは深く沈んだ。

「来てくれたんだ」

ドレスを着た女性が洋子に声をかけ、二人は話し込む。

「友達」

と洋子は僕を紹介し、僕は会釈をした。

 ドレスの彼女がライブのために準備を始めると、洋子は飲み物のメニューを僕に見せた。

「こんなお酒、飲んだことないよ」。洋酒、ワイン、カクテル。なにを選べばいいのか分からなかった。

「いいんじゃないの。大人の酒で酔っちゃえば」。洋子は注文しながら、薄くしてあげて、と店員に言い添える。

 琥珀色のお酒を飲み、つややかなジャズを聴く。

「バグダット・カフェで使われた曲よ。知ってるかしら」洋子に聞かれて、首を横に振る。砂漠の古い店に、流れ者が集まってくる話。今度、観てみて。

 酔いにぼやけた頭で、僕は頷いた。世界が、どこまでも広がっていくような気がした。

「ミツオさんは、どんな音楽聞くの」

 帰りの電車でそう聞かれて、僕はラジオで聞いたヴァイオリニストのことを話す。こんど渋谷でライブがあるんだ、と言ったら「一緒に行こう」と洋子は笑った。

「ここに行くにはどっちに行ったらいいですか」

ライブ会場の住所を見せながら、洋子は交番で尋ねる。

「向こうの、道玄坂の先だね。いかがわしい店がある方だから、気をつけて」と警察官が答えた。

「大丈夫よ、この人は」と言って洋子は笑い、こっちだってと僕の手を引いて点滅しはじめた信号に走った。

 地下のライブハウスに、美しくも悲しい音が響く。僕は目を閉じて聴き入り、曲の世界にうっとりと浸る。何曲か演奏が終わり、洋子に「どう」と尋ねた。

「よく分かんない」と答えながら、洋子はコロナビールを仰ぐ。

 次の曲を聴きながら、ふと隣を見ると、洋子は丸い目で僕の顔を見ながら、にこにこと笑っていた。

 ライブが終わると坂を下り、道沿いのロッテリアに入った。ハンバーガーとポテト、飲み物を買って食べながら、洋子は学生の頃、障がい者のボランティアをし、ベリダンスを習っていたことを聞かせてくれた。

「そろそろ終電じゃない」

時計を見て僕が言うと、「そうね。帰ろっか」と洋子は答えた。


 大学が三年になる頃、僕は病棟での実習が始まっていた。毎日病棟で患者やカルテから情報をとり、終わると図書館にこもる。終電で帰り、家で記録をまとめ、布団に入る頃には夜中の三時を回っていた。

 洋子とは会うことも、電話をすることも減っていった。

 深夜に帰宅し、消音にしていた携帯電話を見ると、着信履歴に洋子の名前が並んでいる。

夜十二時をまわっていたけれど、折り返しかけてみた。

「最近、不安が強くて」

洋子は泣いていた。

「駅までのバスに乗ることも、できなかった」

僕は聞くことしかできなかった。

 とても長い電話だった。

 先週、電車に乗り、過呼吸の発作が出て、途中で降り、そこから歩いて帰ってきたこと。閉ざされた空間を怖く感じること。遠隔ヒーリングをしてもらった女性に、ひどい対応をされたこと。誰にも、どこにも助けを求められないこと。テレビで見た過去生の話や、輪廻の話。生きることは試練でしかないこと、苦しい修行をして魂が磨かれていること。苦しみはいつか報われること、楽しそうな人よりも高い次元に行けること。

 明け方まで喋りつづけた洋子は、疲れ切ったように「もう寝るね」と言った。

 電話が切れたあと、僕は眠ることもできず、残っていた課題を進め、そのまま実習に向かった。

 四年生になり、卒業論文の研究を進め、国家試験の勉強をしていた。洋子と電話をすることは減り、メールでのやり取りになっていた。パニック障害がひどくなったようで、ほとんど家にこもりっきりになっている。

 一ヶ月ぶりに会う日を約束し、洋子の家まで行く。家から、近くの公園まで歩く。

「好きな人ができたの」と洋子は言った。

「え」と僕は言った。「僕らって、付き合ってたんじゃなかったの」

「あなたとはいい友達よ」と洋子は答える。

「だから別に、こうやって遊びに来てもいいのよ」

 公園の落ち葉を踏みながら、僕は訊ねる。

 恋の相手は鍼灸師らしい。

「片思いよ」

洋子はそんなふうに言うだけで、それ以上話すことはなかった。僕も聞いて楽しい気分ではなかったから、それが顔に出ていたのかもしれない。

 言葉少なく、僕らはブランコをこいだ。

 洋子のことが、よく分からなくなっていた。なんのために会いに来ているのか、苛立ちを感じもした。

 足元で落ち葉が乾いた音をたてる。夕暮れに照らされる洋子の影が、遠く、長く、伸びていた

「もう帰ろうか」。疲れたように、洋子は言う。


 大学を卒業すると、僕は神奈川で仕事をはじめた。

 もう電話をすることはなくなり、季節の変わり目に、思い出したようなメールが届くくらいだった。目を通し、その返事を考えても、気の利いた言葉が浮かばず、なおざりになっていった

 一年間勤めて、僕はそれ以上、仕事を続けることが無理になっていた。精神科でもらう薬は効かず、眠剤は日中の仕事を妨げ、ミスと事故を繰り返す。

 退職願を提出し、地元に帰ることにした。

「引っ越す前に、会いに来て」と洋子はメールをくれた。

 洋子の家で待ち合わせ、少し離れたお寺まで歩いていく。

 あたたかい日差しが境内を照らしていた。参道の桜がほころびはじめている。

「こんな場所があったんだね」と僕は言った。

「お蕎麦が美味しいのよ」。洋子は参道に並ぶ店を見ながら話す。土産物屋に入り、梟の置物や湯気のあがる饅頭を買って歩く。

「これ、かわいいじゃん。ミツオさんも買いなよ」。そう言われ、二人で麻の服を一着ずつ買った。

 増えた手荷物を降ろすために喫茶店に座る。ミックスジュースを頼み、僕は向かいに座った洋子を眺めた。

 とても、穏やかな顔をしていた。

「なんだか合宿で会った頃のことが、懐かしいよ」と僕は言った。

「あの頃は、まだ電車も乗れたのにね」。洋子は、遠い目をして話す。

「女の子とデートするのも、初めてだった」。僕が言うと、あれはデートだったのかしら、と洋子はからかうように笑った。

 そのあと、洋子はまじめな顔をして僕を見る。

「私、ミツオさんに助けられたのよ」。丸い目で、真っすぐに言う。「だから、感謝してる」

「なんにも、できなかったけど」。僕が言うと、洋子は静かに笑った。

「私のことなんか、そのうち忘れちゃうんでしょうね」

 忘れないよ、洋子は、僕にとって特別な人だから。そう僕は答えた。

 帰り際、洋子を送っていくと「ちょっと待ってて」と言って家に入る。もう一度、玄関から出てきた洋子の手には、袋がさげられていた。手渡され受け取ると、ずっしりと重い感触がある。

 なにこれ、と僕は訊ねた。

「ガジュマルよ」

見ると、植木鉢が入っている。

「私と別れても、その子は十年だって生きてるから。根が丸くなって、可愛くなるんだよ。

 絶対、枯らさないでね」

と洋子は言った。

 こんなもの、どうやって持って帰ればいいんだろう。内心、困りながらも僕は「ありがとう」と言う。

 満足気に笑う洋子は「愛媛に行っても、また電話して」と言った。


 ――


 通話時間は30分を越えていた。秒数が沈黙をカウントしていく。

「あのね」と僕は言った。「色々、ありがとう」

僕の言葉に、洋子は沈黙で応える。

「じゃあ」

またね、と言いかけて、僕はそれを飲み込んだ。

「元気でね」

言うと、洋子は、うん、と溜息をつくように答えた。

 間をおいて受話器が、ツー、ツー、ツー、と鳴る。その音が、洋子とのつながりの切れたことを僕に教える。

 雨は、窓の外を白くけぶらしていく。電話を握ったまま、僕は膝に顔をうずめた。水音が毛布のように包んで、僕を世界から切り離していく。

 一人きりの部屋、慣れ親しんだ孤独。それは、誰にもおびやかされない安息でもあった。

 熱をおびた電話機の向こう、暑い部屋で過ごす洋子も、また一人でいるのだろう。

 僕らは、ひとりだ。

 かすむ窓の外に目をやる。この世界のなかに、幾つもの孤独が隠されている。胸にしまった寂しさとともに、僕らは生きていく。

 ひとりなのは、一人じゃないよ。

 雨のガジュマルは、そう言っている気がした。

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ガジュマル 風のみた夢 @eien_no_inori

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