骨巣の春鳥は覚えている

猿場つかさ

骨巣の春鳥は覚えている

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1.

 最初にニューロダイブと接続した時、為永ためなが春が抱いた感想は、気持ち悪い、だった。仕組みの小気味悪さはもちろん感じたけれど、デバイスとの接続のために身体を浸す溶液の感触の不快さが、まだ肌のどこかに貼り付いているように感じられた。

 親友の世界的アーティスト、上國料真希が仮想世界への移住を検討していると聞いて、春はその理由を聞いた。古くからのパトロンのスコットランド人大富豪、テレンス・リーに招かれて、仮想世界で自分の作品の進化を突き詰めると、嘯く彼女がどこか救いを求めるような瞳をしていた理由に、春はこの時まだ気づいていなかった。

 高校時代からの真希の作品のファンでありコレクターである春を、テレンスはライバル視していたが、個展のオープニングパーティで出会ってから、三人での交流があった。

 真希が春を誘っていいかと聞くと、テレンスはいつものように快諾した。

 上海経由でイルクーツクへ到着すると、ニューロダイブ社のロゴが刻まれたハイエンド無人自動運転車が迎えにやってきた。ボディは真っ白、駆動するモーターは上品で、加減速の際も荒れた道でも、揺れることも音を出すこともなかった。春と真希以外の何人かも含め、全員が甘く安らかな眠りへと誘われた。ニューロダイブの社屋の立つバイカル湖南岸で降りたとき、その佇まいを見て、棺桶みたいだなと思ったのを覚えている。

 真希とふたりで浅瀬へ行き、透明な水に足首を浸しながら、水を掬って遠くを見た。風がゴウと吹き抜けるのを聴きながら、ヒト以外にこの透明さはどう見えるんだろうね。と真希がつぶやくのを聞いた。バイカル湖にしか生息しないオームリという魚の料理を食べて、ウォッカを仰いだ。

「私だけの創造性をもって作品を作り続けるのは、私が私であることなの」

 真希からそう聞いた夜までは、学生時代の旅行気分で、すぐ帰るなんて思っていた。

 三日月型のバイカル湖の南岸に建つニューロダイブ社の社屋からは、北方に凛と佇むシベリアのパリ、アンガラ川に貫かれるイルクーツクの街がよく見える。湖水を利用した発電はそれこそ水のように潤沢な電力を生み出して、周囲に建つアルミ工場で掃いて捨てるほど製品が生み出されている。

「ニューロダイブはどうだった? 精神がアップロードされるといっても、驚くほどあっさりしているだろう。魔法のようにね。まだ五百人しか体験していない。誇りに思うといい。場所さえ伏せれば、シェアしてもらっても構わない」

 春がラウンジでサンドイッチをつまんでいると、テレンスがやってきた。大きさこそ抑えられているが、不遜さを隠そうともしない声が、高い天井に反響した。

「肌に何か残っている気がして、あまり気持ちのいい感じはしないね」

「最初だけさ。慣れの問題でもある。溶液は技術チームに改善させてるところだ。なあ」

 急に呼びかけられて、ニューロダイブ社のエンジニアリングリードの周浩然が眉をピクリと動かし、眉間に微かに皺を寄せた。

「ミスター。まず、シェアは困ります。正式リリースまでは秘密にしろと社長に厳命されています。溶液の方は確かに改善を勧めてはいますが」

 話し終わらないうちにテレンスは足早に去った。ラウンジの入口で、ゲストの到着を迎えていた。アフリカ系のグラフィティアーティストと、デンマーク人アーティストとテレンスが談笑をはじめている。周は小さく舌打ちをして、春を見て続けた。

「させてる。なんて言われる筋合いはない。ヤツはボスじゃないし。株主ですらない」

「腹立たしいけど、憎めないのが更に嫌なところね。社会的意義を謳ってたくさんのアーティストを支援して成功させてるし。それに。センスもある」

「全くだ。ワタシの姉も兄も、テレンス・リー記念美術館が素晴らしかったって連絡してきたよ。フォンを投げ飛ばしたくなったけど、たしかに写真を見ると、格好良かった。なあ、ちょっとついてこないか? 溶液とシステムの改善について、相談したい。君の指摘した点を精査したら、ニューロダイブの計算誤差が改善したからね。ソフトウェア・エンジニアとしての腕は立つんだろう?」

 ラウンジ脇の開発者用の通路に通され、無骨なエレベーターで地下深くへと降りていく。開発初期段階の試験版、α版のニューロダイブのポッドが並んでいる。一辺一メートルの正方形を底にした、高さ三メートル近い円柱は青い溶液に満たされていて、いくつかの中に人の影が見える。

「今日も何人も入ってるね。搭乗? 装着? どう言えばいいか、分からないけど」

「ワタシたちは接続と言ってる。古典的な呼び方だけどね。君のお友達、カミコクリョウ・マキは今日も接続してるよ。彼女は、ええと。アーティストか。テレンスの連れてくるのはだいたいアーティストだ。あとはスケーター。ワタシたちはアスリートも集めてる。評価期間が終わったら、ニューロダイブも、〈ウーネ〉も開いていく予定だ。その頃には、ニューロダイブの機器一式もだいぶ小型に安価になっているだろうね」

 周は無愛想にポッドを見上げながらそう言った。それから、春に一歩近づくと、ポッドのコストと自分の給料を自嘲気味に告げた。周の給料は安くはなかったが、ポッドのコストは目が飛び出るほどだった。目を丸くする春を見て、周は満足気に微笑むと、操作端末の並んだ開発部の一角へと進んだ。

「〈ウーネ〉?」

 春が聞くと、周は乾きかけのマーカーでホワイトボードにWorld and Whole Neural system Emulationと書いた。オックスフォード大学在学中に身に着けた英国風の綺麗な発音で読み上げてから、全世界全神経系模倣装置と簡体字を書いた。

「WWNE、頭文字をとって〈ウーネ〉、ワタシは他の名前が良かったんだがね。名前がストレートすぎるからかっこよくないね。実際、ニューロダイブに接続すると、脳と、全身に張る神経系がフルスキャンされる。神経細胞同士の接続関係も全て記録される」

 周は作業中のエンジニアの一人に声をかけ、百インチ近いモニターにコネクトームを表示させる。全神経回路網のつながりをマッピングしているそれは、意外にも規則的に組み合っていて、レゴブロックのキットみたいに、部分部分がはっきりと構造を持っていた。

 作品の製作中ですら見られたくないと言う真希を無断で覗き見ているように思えて、春は苦い顔をした。

「ニューロダイブ接続者が〈ウーネ〉へアップロードされている間に見たものを本当に見たと知覚できるように、色や形、それから|質感〈クオリア〉を与える神経へ刺激がフィードバックされる。音も、肌触りも。すべてね。だから本当に、神経ごとダイブできる。テレンスの言うところの、仮想空間での魔法のような人生をはじめられる」

「はじめるのはいいけれど。安全なの? 仮想空間に慣れすぎて、戻ってこれなくなったりしないの?」

 真希が〈ウーネ〉に接続するのを見送ったとき、永遠の別れが頭をよぎって心細くなったのを春は思い出す。少ししてポッドから出てきた真希を抱きしめると春は目をうるませた。彼女からはほのかにパンみたいな匂いがした。自分でニューロダイブに接続するときはそれほど怖くはなかった。そして、実際、〈ウーネ〉上で制作された真希の作品をいくつか見て、こうして戻ってくることができた。

「しない。接続者のモデルは〈ウーネ〉の体験を元に更新されるけど、ダウンロード時には更新内容もうまく疑似神経プリンティングされる」

「プリンティングって、焼き付けるんだと思うけど、誤差もあるだろうし、そんなにうまくいくかな?」

「そこがニューロダイブの肝だ。高精度スキャンと高精度プリントは機械と計算機の力だけじゃ実現できない」

 バイオリサーチャーを名乗る理知的な女性が立ち上がり、声を張って言った。

「脳だけでも、神経細胞は広げると地球四周分近くあります。これらを高精度に高速にスキャンするには、私達が好神経酵母と呼ぶ新種の酵母の力が不可欠でした」

「酵母はバイカル湖海溝で見つかったんだ。だからワタシたちはここにいる」

 酵母? 酒を作ったり、パンを焼いたりするやつか? それがどう役に立つのだろう? ポッド内は酵母に満ちている。酵母は神経細胞上でとても高速に増殖する。全部の神経に張り付くのに一日もかからない。そして、特別な信号で呼び戻すことができ、貼り付いた神経細胞のコピーとなる疑似神経を作りプリントするのに役立つ。

 まるで、パンを焼くように。周はここのパンもその酵母で焼いている。頭脳に良さそうだろ。と、冗談だか本当だかわからないことを言って、春に問題が起こっているソースコードを渡した。


 酵母に関する周の冗談を聞いてから、春はラウンジでサンドイッチを頼まなくなった。 真希は毎日のように〈ウーネ〉に接続し、夜になると春と同じベッドで眠った。現実空間では実現できないほど巨大な作品をいくつも作っていると、眠る前は興奮気味だった。

 依頼をいくつかこなすと春はすっかり周に認められ、今や開発スタッフみたいになっていた。ニューロダイブや〈ウーネ〉の仕組みや狙いも理解し始めていた。例の酵母は神経をコピーして、振る舞いの全く同じ疑似神経を作る。それを解析することで、接続されたユーザーのモデルは精緻化されていく。

 その結果、質感を覚える体験も、記憶も、感情の動きも言語の使い方も全部シミュレート可能になる。目下の課題は、生きた神経と擬似神経全体を健全に生かし続けるには、溶液を含め多大なコストが掛かるということだった。

 バイカル湖では電力は水のようだ。でも、ポッドを満たす溶液の方はただの水じゃない。コストが許す限り、疑似神経は神経回路全体に永遠の時間を約束するけどね。そう言って周は、いつも暗く知的に笑うのだった。

 春もニューロダイブを利用したかったが、テレンスが各国から招いたアーティストを含め、ニューロダイブ社が手配したα版体験者も大渋滞を起こしていて、春の番は回ってきそうになかった。しかたなく社屋のネットワークに繋がったフルダイブ型のVRスーツで〈ウーネ〉に接続するのだが、ディスプレイ越しに見る真希の作品は〈ウーネ〉上のものよりも生きていないように見えてもどかしさしか感じなかった。

 真希の作品の中をスケーターたちが走り、トリックをメイクする。現実世界では不可能な3600度の回転技を決めるのを見て、α版の体験者たちが投げ銭をしていた。これが新しい収益源になるのだと、テレンスは目を輝かせながら語った。自分の誘いでやってきた者たちが、新しい体験や新しい地平を切り開いていることに酔いしれている様子だった。

「周が君を気に入ってるようだね。よかったよ。しかし申し訳ないことに、開発者向けの試験版も最少稼働にせざるを得ないんだ。アップロードされたい者が多すぎるんだ」

 ふたりがラウンジで食事をしていると、テレンスがやってきて言った。

「私は春に私の作品をもっと見てもらいたいけどな。これまでと同じように」

「期待に応えられるように。生産数を増やしているよ。真希、君も含め、〈ウーネ〉へ行くアーティストは沢山いる。美意識が続く限り、世界を更新し続けよう。〈ウーネ〉は僕たちに、とてつもなく永い時間を約束してくれるのだから」

「ええ。楽しみ。作り続けて、私が私であることを証明し続けれられるから」

「接続に際し、君の脳神経の特性を解析した。事故を防ぐためだ。まだ見てないのか」

「見なくていいの。その話は止めて」

 強い語気で返した真希に、テレンスは深々と頭を下げた。彼は周に電話をかけ、ニューロダイブと新機能の開発を早めるように淡々と告げた。まるで指揮官のように。

 その週末はデンマーク人アーティストの|κβ〈ケービー〉の送別会だった。彼は一刻も早く〈ウーネ〉に行くことを希望した。どうしても行く必要があった。会も終わり頃、彼は彼の妻と娘を永遠のように抱きしめた。温もりと匂いは脳の海馬に刻まれて、〈ウーネ〉で覚えていられるだろう。ワイン片手にテレンスは言った。

 忘れないようになる? 娘が言った。これから何が起こるか、半分くらいを理解できるような歳に見えた。いつだって女の子の方が大人びているのだ。ああ、とκβが答えた。 閉会の挨拶で、彼の妻が、紛争地帯で拘束されたトラウマで若年性健忘症となった彼を支えた皆への感謝の言葉を述べた。片付けの始まった会場の端の方で、κβと真希が話すを見ていると、開発者用通路が勢いよく開いた。

 汗臭い周は血色が悪かった。彼は誇らしげに両手を上げて。|完成した〈ワンチェンラー〉と叫んだ。駆けてきたテレンスは固く握手をすると、周の分の食事を用意させて彼を労った。周が完成させたのはκβ向けの海馬モジュールと、記憶補助ミドルウェアだった。母型モデルはすでに完成していたが、各人の各部位を模倣する応用モジュールの開発にずっと苦労していたらしい。

 応用モジュールにより、神経の老化が招くあらゆる疾患から人類は自由になる。ただし、モジュールが大きすぎて、疑似神経をプリントするには、人の身体が小さすぎる。だから〈ウーネ〉へ行きっぱなしになる必要があった。

「真希も本当に〈ウーネ〉に行くの?」

ニューロダイブ社屋近くの桟橋に歩み出たふたりが話すのを無数の星が見守っていた。

「そうだよ。大きな作品をつくるの。作品の保管場所にも困らないし、火事にも怯えなくていい。作ること、わたしを証明することに、永遠の時間を使えるから、私は行くの」

 真希がテレンスの受け売りみたいなことを言うのが、春にはひどく悲しかった。

 わたしは、もう一つの理由に気づいていた。

「今日、κβを見て思った。真希のお母さんのことでしょう? 行く理由」

「ノーと言ったら、嘘になるね。もう全然平気だと思ってたけど、ママがああなって、パパはいなくなって。ママのお葬式にもこなかった。ママが最後一人だったのを、私はずっと、心のどこかで怖れていたんだと思う」

 誰だって老いることを知っている。だけれど、予想だにしないときには来てほしくない。若年性アルツハイマーは唐突に真希の母親の元に訪れて、真希に深い傷を残していった。幼い頃からあれほど褒め称え、誇りにした娘の絵は、ある時を境に憎しみの原因になった。病はせん妄と忘却を彼女に与え、最後には介護施設の窓からの墜落へと誘った。

 遺伝性だ。医者が淡々と事実を告げた夜、真希は春の元に泊まり込んだ。

「あの時、うちの空き部屋で泣きながら絵を書く真希は化け物みたいだった。でも、真剣な顔と、できあがった作品がわたしはとても好きだった。いまでも、あの絵はうちにあるんだよ。その後、覚えたてのプログラムで真希が作るのを助けて、喜んでもらえたね。あれがわたしの仕事の原点だよ」

「私も、真希の家が原点だよ。あの頃に作った作品も、無名の頃に作った作品も、春は全部とっておいてくれてるね。友だちからもらったのを、売り飛ばす人もいるのに」

「売らないよ。わたしの目で見ていたいから」

「でも、売ったらすぐ分かるんだけどね。前に説明したじゃん。春にあげた絵にはナンバリングがないからだよ。作品の名前、一つ言ってみて。覚えてるやつがあれば」

「〈闇夜に惑う撫子〉とか? あってるかな?」

「あれは全部で五枚だけど、春と私のはナンバリングがないの。番号がないのは作家の大切なとかそういう意味。記念に作ってとっておく、みたいな意味があるの」

 春は真希を優しく抱きしめて、真希は強く抱き返した。耳元で確かめ合うように語られる温かい思い出話が、シベリアの夏の夜をふうと吹き抜ける冷たい風で封じられて、いつまでもそのままの形で残るように願った。

「最期にひとりになりたくない。〈ウーネ〉に行けばこの怖さを忘れられる」

「わたしもついていきたいな」

「ありがとう。春がそう言ってくれて、すごく嬉しいよ。でも、私なんか気にせす、自分で選んでね。春の人生は、春の人生なんだから。私にずっとついてこなくても」

「選んでこれだよ。これまでも、これからも。全部わたしの意志」

 春は震える真希を強く抱いた。

 真希がニューロダイブに入るとき、手をつないで一緒に入れればいいのにと思った。

真希が別のものになってしまいそうで、恐ろしかった。

 〈ウーネ〉に移住した真希の新作、〈満月の夏草は地に#345〉、〈満月の夏草は地に#346〉、…、〈満月の夏草は地に#600〉のシリーズは圧巻だった、それぞれが、一つの小島くらいの大きさをしていて真希の意匠が空間全体を覆い尽くしていた。

 鳥のすがたで真希の作品を見たのも、たしかこの時が初めてだった。

「鳥になって見るといいって冗談で言ったけど、すごく似合ってる。春はいつだって、影で私を本当に応援してくれていて、初期の作品もずっと持っていてくれるね。私を導く鳥みたいだって、ずっとイメージしてる」

 春はその日から、〈ウーネ〉では鳥のアバターでいることを決めた。仮想世界に形の縛りはないのに、どうしてヒトの形でいる必要があるのだろう? 敬愛するヒトの望む姿になるべきでないなんて道理はないのだから。

 春はニューロダイブの増産を待ちながらフルダイブ型のデバイスを利用して真希に会いにいった。栄えはじめた〈ウーネ〉には様々な人間がいた。問題を起こす者も生まれはじめ、パンクぶったストリートアーティストたちが接続者の|身体〈アバター〉があるのをお構いなしに空間中をグラフィティで埋め尽くして開発局が対応に追われた

 真希が移住したのは、〈ウーネ〉#34世界だった。接続するたびに、本当に日本っぽい雰囲気があるなと春は感じる。#30から#33世界は完全に日本をコピーして作られ、主要都市はすべて高精度で再現されているが、仮想世界ならではの面白みが乏しいと言われ、あまり人気がない。

 #34世界はあくまでも日本っぽく造られているだけだ。日本像生成AIを組み上げたのは周の部下の几帳面なエンジニアで、春もその一部始終を見ていた。

 日記や経典と言った古文書を含む歴史的資料、偉人の肖像画、国会図書館所蔵のあらゆるテキストデータや画像データ。オンラインに蓄積された日々のテキストや動画、画像など、炎上の記録から裏アカウントまで、より集めた日本的イメージを用いてつくられたAIが風景を生成している。生成された風景はニューロダイブを通じて接続するユーザーの感覚領野へ入力され、十分な質感を感じさせる。

 疑いだしたら逆に狂ってしまう。それくらいのリアリティだった。

 データから質感を生成してシミュレートできることを〈ウーネ〉は大勢の前で証明した。α版からの#10番台はイギリスの各都市を、#20番台は中国の各都市を模している。〈ウーネ〉の発展と共に世界は増え続け、現時点での最新は#128だだった。

 湿った石畳の道が竹林を貫いて、向こうはいくつも五重塔が見える。ニューロダイブに接続できたときはいつも、春はAIの計算で作られた日本的な光景を見下ろしながら飛んだ。

 ネズミ、ウマ、物好きはスライムや壁など、〈ウーネ〉でユーザーは自由な外見で暮らしている。おおよそ半分弱は非人間型だ。不意にめまいを感じ墜落しかけた。春のように、動物の知覚機構のシミュレーターを利用しているのは稀だった。春は真希の作品を鳥の目で見るために、ときおり、研究局が開発した鳥の視覚野モデルを利用している。いまやヒト視覚野よりも慣れてしまった。夜目は効かない。

「ヒトじゃないものから見たイメージを作品に込めたいから、今度から、作品に磁力を込めようと思うの。できあがったら、鳥の脳を使って見てみてよ」

 開発局の物理シミュレーションエンジニアが磁力生成の機構をリリースしたと伝えると、真希はそう言って喜んだ。

「そうする。でも、さっきテレンスにからかわれた。自分はサムライ姿のくせに」

「日本被れだからね、彼は。日本的な世界#34に住んでいるのもそれが理由。相変わらず精力的だよ。センスは良いけど、相変わらず尊大。経済的な成功者って、みんながああじゃないんだけどね。彼は全部が全部、自分の物かのように思い通りになると信じてる。〈ウーネ〉だと空間の成約もないし、アーティスト作品全部をくまなくチェックしてる」

 昨今の〈ウーネ〉の発展には、テレンスと彼の呼ぶアーティストとアスリートは不可欠だった。引退したバスケ選手が集まり、嗜み始めた3Dバスケはいつしか人気を博し、一台ショービジネスとしてニューロダイブ社に恩恵をもたらした。

 仮想空間でアスリートたちは、次から次へ新しい競技を生み出そうとした。

「周。わたし、古いソースコードの名前にバタフライとついていたのを直したよ」

 春がコードを見せると、周は寂しそうな顔をした。胡蝶の夢にちなんでサービスの名前をバタフライにしようとしたが、テレンスが社長に言って〈ウーネ〉になったと恨み節満載だった。〈ウーネ〉では永遠の夢のような生が約束される。誰もがそう思っていた。

 ユーザーの増加と共に増え続けるコストを削減するために、周が自律型リソース削減プログラムである〈シーワン〉を開発したのが、〈ウーネ〉における死の発端だった。


2.

 〈シーワン〉は神のように無慈悲だった。周は凄腕で教養も深いけれど、時に恐ろしくシニカルだった。一切の人の意図を許さず、機械的に動くリソース確保のための自立的な十のプロセスに、|十王〈シーワン〉と名前をつけた。地獄で亡者の裁判を行う十人の王の名前をつけた。日本でいうと閻魔様だ。

 すでに多数のユーザが住んでいるにも関わらず、〈ウーネ〉を地獄呼ばわりするのは春には気が引けた。〈ウーネ〉における機械的な死は、それによって導かれる。

 新しく生まれた電葬士という仕事は、〈シーワン〉がリソース削減の予兆を見せた時に、ターゲットになっているユーザーに死に方を選ばせること。新しく配属されてきた者たちに、春はよくそう言って説明する。

 運営開始から十年が経過し、ニューロダイブ社も複数の部門とスタッフを抱える所帯になった。春が関わりがあるのはポッド管理局、研究局、統制局だ。統制局は〈ウーネ〉の規律を保つために設立された。五年間の運用を経て、それだけの部門が増やせるだけニューロダイブ社には財務的余裕が生まれた。

 ニューロダイブポッドの管理が変わり、私的な目的で〈ウーネ〉と物理世界の行き来がしづらくなった。統制局は社内外の治安を守ることを使命として、神経の解析で根が真面目と機械的に判定されたスタッフが配置転換されていった。

「統制局のヤツラはお硬いくてソリが合わないけど、〈ウーネ〉の治安維持には貢献してる。チュートリアルに来た新参者の上からグラフィティを描こうとした奴らを捕まえてくれたりね。ワタシもこの前、重力定数が超大きい場所に迷い込んで動けなくなったとき、助けてもらったよ」

 そう言って周は笑い話をするが、彼はそのとき以来、局長といしての権限があるのに一切ニューロダイブに接続しないようになった。

 〈シーワン〉の作動の予兆を補足して、春は対象者の元へ急行する。

 金髪碧眼の男がぐったりと怯えている。シロハヤブサ姿の春を見て、困惑を深めた。

 外から接続した周が男のポッドの生体モニターにアクセスし、値を春に送りつける。ログデータはつい今朝方に、ポッドに収められた男の本来の神経回路網が突然反応を返さなくなったことを示していた。ダメージを受けたのは、運動野と視覚野だった。

「オレはどうなるんだ? 何も見えない。音もうまく聞こえない」

 春はプロフィールを見る。〈ウーネ〉登録時点で五十、現時点で六十歳を越えていた。

「周。なぜ急にこんなに生体係数が低下しているの? もう0.3なんて異常値だよ」

 ポッドの中は高価な溶液で満たされている。テロメア修復酵素、ストレス因子排除分子マシン、潤沢な神経伝達物質の群れ。神経にとっては天国みたいな環境だけれど、形あるものはすべからく失われる。好神経酵母由来の神経回路網の突然死が起こり、生体系数が急速に減少することはすでに知られていた。

「分からない。ニューロダイブを満たす溶液にはシンプルな老化防止効果こそあるが、生きた細胞の機構は複雑だ。研究局の読みでは、その男が〈ウーネ〉で一番過酷な3Dバスケのリーグで事故にあっているのが原因だとか。物理世界ではありえない視覚像の変化がもたらす刺激が、ヒトの生身の神経細胞には負荷が高かった可能性があるそうだ」

 周は歯切れの悪そうな言いぶりをした。しかし、悲観はしていない様子だった。

「そこに誰かいるのか? 教えてくれ、オレはどうなるんだ?」

「生体係数が0.3を切りました。この数字の意味は、理解していますか?」

 春は聞く、アナウンスはしているが、機能の意味を真に理解する者は少ないから。

「ああ、一応。減ったのを何度か見たことがある。その度にオレは、欠落した部位を補うためのシミュレーターを買った。3Dバスケで稼いだカネで、若い選手の感覚を買うこともあった」

「なら、話が早いです。生体係数はあなたの意識と人格に、あなたの神経が関わっている度合いを現しています。1を切ると、もうあなたの脳や神経系にあなたが生まれ持った神経はほとんど残っていないということになります」

「ゼロになったら、どうなるんだ?」

「それを選ばせるのが、わたしたち電葬士の仕事。選択肢はふたつ。なにも変わらないでいることもできます。記録をみると、あなたの場合、最初のストア利用は、聴覚野を補うためか。最初に聴覚野のシミュレーターに接続したときのこと、思い出せますか? まずは落ち着いて、視覚を回復させますね。わたしの権限を使います」

 身体に直接触れることで、他人の神経回路網に触れることができる。ストアにアクセスし、男の脳に標準的なヒト視覚野モデルを接続する。接続の時、無いはずの重みを感じた。何か悪意があれば、他人の脳を思い通りに触ることができる。悪意がなくとも、ミスが何かを不可逆に変えてしまう可能性がある。春は喉元が震えるのを感じた。

 男は視覚を取り戻すと冷静さを取り戻した。普段どおり目が見えることは安堵をもたらす。春が促すと冷静に思い返し始める。すでに接続済みの海馬補助モジュールが立ち上がり、初めて聴覚野シミュレーターを接続した日の質感を高精度に再現する。

「思い出せる。あのときも生体係数が減少して少し焦った。しかし、接続するとびっくりするぐらい元通りになった。なにも、変わらなかったと言っていい」

「そう。だったら、怖がることはありません。今回もそれと大体同じ、ただ、プロセスが少し長くなります。あなたは二日か三日、長くて一週間ほど眠って、あの間にあなたの元の神経は切り離されて、同じ動きをするシミュレーターにつなぎ変わります」

「少し長い眠りにつくわけか。若い頃、大学のリーグの優勝祝勝会のあと馬鹿騒ぎして眠った。起きたら母親がいて、三日眠っていたと言われた」

「なら、経験済みですね。眠るのと同じ。起きたら、完全なシミュレーターになるけれど、あなたはあなたのまま」

 誰かが完全なシミュレーターになれば、その分のニューロダイブの溶液は節約される。そのうえ、データとしても圧縮される。神経ネットワーク全体は酵母がつくった疑似神経ネットワークと、計算機上のプログラムに完全に置き換えられる。生きた身体は、どこにもなくなる。それは大幅のリソースが節約されることを意味する。

「完全なシミュレーターになる方はわかった。そうじゃない方は、どうなる?」

「消えます。電源切るみたいに。簡単でしょう?」

「それは、怖いな。オレは完全なシミュレーターになる方を選ぶよ」

どちらを選んでも、これまでに男から生まれたデータとニューロダイブに残された彼の身体は利用開始時の契約に則り処理される。不要だからだ。〈シーワン〉について春に話しながら、そう言い放った周は随分と淡白な口ぶりだった。

「寝て起きたら、オレの身体は死んでいる。だがオレは普通に起きて、いつもと同じように3Dバスケの試合に行くんだろうな」

 男の言葉を思い出しながら、春は事後の手続きをするためにニューロダイブ社の開発部に戻る。〈ウーネ〉を知覚していた春の意識は、ニューロダイブに接続された元の身体へダウンロードされる。ダウンロードの前に、鳥の視覚野モデルを含め、利用しているシミュレーターを切り離す。〈ウーネ〉上での知覚を経て変化したコネクトームを元の肉体の神経回路網に焼き付ける。

 ニューロダイブのポッド内の溶液が引いていき覚醒する。生まれたての子鹿のようになってしまった。筋繊維や骨格への馴れの間、身体が液体として流れ落ちてた後の砂袋を踏んでいるような麻痺の感覚の後に、肉と骨が巻き上がり貼り付いていくような熱を感じる。溶液の肌触りよりも今はこっちのほうが気持ち悪かった。

 喉を這い上がる吐き気を抑えようと、春はしゃがみ込んだ。ダウンロードされたあと、実際に吐いてしまう開発スタッフを何度も見たことがあった。

「死者が処理される最中に見る走馬灯を、記憶にアクセスして丁寧に作っているな」

 春がようやく立ち上がった頃、周がやってきた。

「説明したら、大体の人はアレンジしてほしいと言いますね。死に方の一つだから。わたしだって、走馬灯を選べるならば、わたしの好きなイメージを選ぶと思う」

「生存した神経細胞が切り離される時の断末魔で自発的に活動する。それで記憶が視覚や聴覚のイメージが蘇る。それは、〈シーワン〉に処理される者が見る最後の夢だ」

「最後?」

「酵母の作る疑似神経と神経回路エミュレーターは入出力を完全にコピーする。でも、そこには無意識は乏しい。意識はコピーされてアップロードされる。しかし、無意識はアップロードされないんだ」

「でも、彼らは生き続ける。変わらずに」

「そうだ。〈ウーネ〉では、死者になったあと、生き続ける」

 〈ウーネ〉運営上重要なデータの削除は認められない。3Dバスケの選手の場合は運動野のシミュレーターが、アーティストの場合は創造性を生み出す前頭葉モデルや視覚野モデルが価値が高いとみなされる。現に、この前死んだ詩人は、言語野の削除を希望したが、統制局に認められなかった。詩人は消滅したが、彼の形式と文体そのままの言葉を操る者が、翌日から〈ウーネ〉に現れたと聞いた。

 周はデスクの写真立てに視線を送る。半年前に亡くなった彼の母親と、生まれたばかりの彼の息子が写っている。

「なるほどね。ワタシはできれば葬式はこっちでやりたいけどね。そうだ。アナタの秘密の頼み、部下に進めさせてるよ。研究局と協力してる。鳥へのダウンロード実行したいって、アナタもよく分からないね」

 わたしはただ、物理世界に残る真希の作品を、〈ウーネ〉でするのと同じように鳥の視野で見たいだけなのだ。周に話しても理解されないだろう。周は近頃、統制局に見つからないように色々な実験的な開発を進めていると聞く。そのつては使わせてもらおう。春は研究局の鳥類管理棟に目を向けた。

 〈ウーネ〉のアラートが鳴る。〈シーワン〉がまた動く兆候がある。電葬士の出番だ。春はニューロダイブに接続し、〈ウーネ〉へ入る。生体係数を確認する。自分の死はまだ遠い。

 翌々週、春は真希を誘って3Dバスケを鑑賞した。スタジアムの裏手正面を飾る真希の作品に見惚れていると試合開始の合図が鳴った。席につくと選手が高く跳んでいる。ボールを持ち、空中を蹴り、相手チームの防御をかい潜る。古典的なバスケットボールコートの長辺を一片とする直方体コートを、お馴染みの色をしたボールが飛び交う。

鳥のすがたで真希の肩に乗って、春は試合の成り行きを見つめていた。

 〈シーワン〉を経た先日の男が元気に跳んでいる。ベテランとしてチームメイトに号令を出し、若手を導いている。彼の死後、〈ウーネ〉に登録された彼の3Dバスケモジュールを導入しているのか、若手たちがみな彼の癖をコピーしたかのような動きをしていた。


 ニューロダイブ社のラウンジで特別な酵母を使った焼きたてのパンが提供されなくなって久しい。そんな思い出話をするたびに、同僚の江端怜にババア呼ばわりされるのが少し気に食わなかった。日本からやってきた彼は、統制局と兼任する口の悪い電葬士だ。

「仕事のときぐらいその格好やめりゃあいいのに。統制局の上の方が、規律を乱すって問題歯してんよ。おれは良いと思うけどね」

「大親友がこの姿が好きなの。だからずっと鳥でいる」

「鳥の聴覚野モデルとかも試してんだろ? 普段から人間以外の感覚で過ごすなんて、珍しいな。おれの聞く限りあんまりない。音とか、よく聞こえそうで羨ましいけどね」

「あんまりメリットはないよ。夜に目は効かないし、高い音もヒトの方が聞こえる。コウモリは超音波を聞けるけど、鳥には無理だから。低い音が聞こえるのと、磁気は感じられる」

「音はわかるけど、磁気ねぇ。〈ウーネ〉の磁気って、真面目に作られてないでしょ」

 開発局には物理シミュレーションを専門に取り扱うグループがあるが、確かに地球の磁気を完全に模倣することは目的とされていない。あくまでも人間向けであるからだ。

 真希の作品はそうではない。作品の制作は順調で、ヒト以外の何者かから見た時の世界を創造するというコンセプトは進化を続けている。最近の彼女の作品には磁気が込められている。先日テレンスがすべて買い上げたという〈新月の冬の枯れ草が〉シリーズは、巨大な球の内側に冬の草地を描いた作品だが、級の中を通り抜ける飛行経路を磁気が指し示すように作られている。真希はそれを明らかにしていない。だから、テレンスはそれを知らない。知覚できないからだ。

「綺麗なものに包まれて導かれるみたい。昔から変わらず、真希の作品は優しいね」

「そう言ってくれると嬉しいよ。テレンスに難しいこと言われるより、ずっとずっと」

〈ウーネ〉にユーザーが増えるほどに、電葬士の仕事量は増えていった。ユーザーが脳のシミュレーターを利用すればするほどに、生きた神経は蔑ろにされた。完全なシミュレーターとして生き続けるか、消滅するか。選択をつきつけるのはいつも電葬士たちの心を消耗させた。特に嫌なのが、埋葬する相手に犯罪歴や規約違反歴が見つかったときだ。

「アラートが来た。五分後に出るぞ」

 時間に厳格な怜はそう言うと、きっかり五分後に石畳の街道へ飛び出していった。怜が春より遅れてくるのは、よっぽど何か理由があるときだ。世界#34の日本的風景はデータ量の増大とともに洗練され領域を拡大し、今では初期からある〈ウーネ〉世界の一つとして観光名所にもなっている。世界は#1084まであるというのだから、相当に若い。

テレンスはその中央に広大な邸を構え、百人近い使用人を従えながら美の追求に明け暮れている。世界中から〈ウーネ〉へアップロードされてきたアーティストが集まっていた。

「相変わらずおせえよ、春。鳥の恰好なんだから、もっと飛ぶように早く来いよ。生体係数は閾値を下回ろうとしてる。もうすぐ〈シーワン〉が起動する」

 怜は悪い冗談かよと言い放った。男がネズミ男のアバターを使っていたからだ。デフォルメされたキャラクターなどでなく、実世界にいるパンダマウスをモデルにつくられたそのアバターの毛並みは美しく、それなりの高級品であることが分かる。いつもよりも優しく接してあげよう。春は思った。

 妻と子供が不安を顔に浮かべている。二人共、春や真希と同じα版時代からの〈ウーネ〉ユーザーだった。〈ウーネ〉に行ったきり戻っていない。となればこの子供は何なのか。春が開発局に問い合わせると、最新型のニューロダイブを利用しているらしい。

 肉体に生存した生殖細胞を利用して、人工授精された子供が自動保育器にいれられたままアップロードされているのだ。年齢通りのアバターを使っている。そういえば、最近〈ウーネ〉には子供が増えている。春は思った。動物のアバターよりも、遥かに多い。

 ネズミ男の希望は完全なシミュレーター化で、家族もそれを望んでいた。でも、ネズミ男はピンときていないようだった。

「論理で説明されても、やっぱりピンと来なくなってきた。俺が死者になる? おれはいったい。どうなるんだ?」

「往生際が悪いぜ。この人、春、どうする。もう一回、説明する?」

怜が気だるそうに言った。

「パパ。サトウくんのとこもおじいちゃんは死んでるけど、一緒に住んでるよ。おれの学校だって、校長先生は死んでるけど毎週月曜に教室に来て前に立って、長い話をしてくんだ。それよりオレ、パパの本当の顔を見たい。こういう時に、電葬士がいれば再現できるんだろ?」

 海馬や記憶関連のモジュールにアクセスし、本人ですら忘れている記憶を引き出せるのは電葬士の特権だった。子供の依頼は顔の再現だった。埋葬はいつの間にか儀式化され、依頼を受けた坊主AIがお経を唱える間に処理を進める。物理世界時代の写真は残っていなかったから、ネズミ男と妻の記憶から男アバターを再現した。だいぶ美化されているようだったが、本人たちは満足していた。

 強い希望がなければ、死亡認定されたあとの死者の神経細胞とシミュレーターは再利用される。時折、死んだ人間と同じ喋り方をする人が現れると噂するユーザがーがいるが、それは都市伝説でもなんでもない。誰かの言語野エミュレーターがそのまま再利用されているのだ。

 帰りがけ、怜が残念そうな顔をした。

「春。あの男は統制局に回収されることになったから、死のフラグだけ立てちゃって」

「あのヒト。何をやっていたの?」

「違法なワールドで神経ドラッグの利用歴がある、記憶のパターンの中に、暴力の質感が認められた。犯罪者のデータは貴重だ。回収されて、データをとるための特別な空間に移送される。死のフラグは立てられるから、今後は〈ウーネ〉ではモノ同然に扱われる」

「そう。じゃあ、移送先を教えて」

「周のやつが最近開発したプライベートルームに移送されるぜ。プライベートルームは#ZKで始まる名前がついている。権限は当局だけにある。春にはアクセス権がない。でもこの機能、犯罪者の秘密のやり取りにも使われてる。あの邸に住んでる富豪がいくつもプライベートルームを確保していることを、当局は把握してるぜ」

 統制局がテレンスを訝しんでいるのは明らかだった。テレンスは周と何を企んでいるのだろう?

 周の元へ赴くためにダウンロードを実行する。生体係数が普段よりも多く減った。実行する度に、慣れない神経の感覚が負担になり肉体に収まった神経が摩耗していると、前に周に指摘されたのが思い出される。

 その指摘を受けたとき、慣れ親しんだ鳥の姿でダウンロードできるように、周に依頼したところだった。

 ポッドから出て歩き出すまでに、どんどん長い時間がかかるようになっていた。

 周のデスクには高校生になった周の一人息子の写真が飾られている。巨大ディスプレイに研究局から送られてきた写真を表示していた彼は、春が写真を見ながら顔をひきつらせるのに気づくとひどく焦る様子だった。写真の一枚目で、ニューロダイブから肉体が引き出されている。二枚目で筋繊維融解液で骨と神経が顕になっている。骸骨はいつだって、生々しい死を連想させる。

「見たのか?」

「見てはいけなかった?」

「〈シーワン〉に処理された死者だ。死のフラグが立つと、データの所有権はニューロダイブ社に帰属する。身体も同様に、モノになる。死んでいるんだから。モノに何をしたって、咎められるいわれはない」

「合理的理由を語るのは、後ろめたさを感じているからでしょう?」

「回収された神経は際限なくコピーされ、実験的につなぎ合わされ、解析に使われる。病や心の解明にな。物理世界の医療メーカーが莫大なカネと引き換えにデータを買う。ニューロダイブ社はそれで成り立っているんだ」

「〈ウーネ〉に入ると、いつかはモノになる運命なんだね」

「そうだ。統制局はモノになった後は厳しい、奴らに言われて、運営側がモノの中身を見れるような機能が作られれた。つまり、ワタシたちは、完全なシミュレーターのやつの心の中を見ることができる」

「そう。あんまり、見たいとも思わないかもしれない。見分けるのには、使えるね」

「そうだ。それと、君から依頼されてた鳥へのダウンロードだが、研究局が進めてる。この写真は鳥の大脳の構造を示してる。サイズがヒトとは全然違う。しかし、部分的に構造は似ている。α版のニューロダイブの出力なら、ここに神経プリントすることも可能かもしれない。脳全部が無理なのは覚えておいてくれ。あとでアップデートを入れるが、試作版を君に渡しておく」

 キーボードを打つ周の指先の皺が深くなり、白髪も増えていた。身体こそ細いままだったが顔の皮膚は乾いてたるんでいた。エンターキーを叩くと、試作版ダウンローダーが春の持ち物として〈ウーネ〉上に紐付けられる。

「まだ未完成だ。アップデートを待ってくれ」

 最新型のニューロダイブはダウンロード機能がオプションになっていると聞いて、春は開発用のα版ニューロダイブを見上げた。周に開発局のブースで会うのも、これで最後になるのかもしれないと思った。


3.

 私を消して。完全に消して。真希からその連絡を受けたとき、春は真希を奮い立たせる創作への情熱が消えてしまったのかと勘違いした。真希の生体モニターに問い合わせると、真希の神経回路網の示すバイタルパターンは以前とまるで変わらなかった。

 テレンスが自身の美意識のさらなる進歩を賭けて。資金を投じて才能あるアーティストの脳部位をパッケージングしていると聞いていた。ただし、それは死者の話だ。春は〈シーワン〉に補足された何人ものアーティストの死に立ちあってきた。その度に彼らは、前頭葉と大脳皮質の一連の回路、想像力と感情を司る神経回路を〈ウーネ〉の共有物とすることを望んだ。彼らの脳から生まれたデータで、疑似神経による創造性モジュールが組み上げられる。それらはストアに並び、誰でも利用可能な部品となる。

 誰もがそれを望んだかは確かではない。

 春は真希に指定された場所に降り立った。

 そこは真希の作品の質感を持った空間で、何かを嗅ぎつけて先に到着したテレンスが、おなじの侍のアバターで長い髪と着流しをなびかせていた。

 その領域からはじまって、複数の作品が展開されていた。どれも直方体の内側に壁を含めた四角形の各面を色づく草地が覆うような作品で、真希の作風そのものだった。

 春は違和感を胸に作品の中を飛んだ。わたしを導くものがない。すぐに異変に気づいた。磁力が描かれていない。

 ここ何年も、春の作品には鳥の感じることができる磁力が描かれているのに。

 これは真希の作品じゃない。じゃあ誰が?

 怖くなって、生体モニターとプロフィールを確認する。もちろん、真希に死のラベルはついていない。

 春は磁力を頼りに、覚えている限りの真希の最新作〈夏草の碧に星満ちる#1242〉へ向かった。#1243を描くのをピタリと止めて、真希がうなだれて、深刻そうに表情を凍らせていた。

「真希、ねえ。真希、完全に消えたいって、どういうこと?」

 真希はうつろな目をしている。正常な判断ができているようには思えなかった。

「ねえ。春。あなたは、どういうところがあなたなんだと思う?」

「どうしたの。急に、わたしは、真希の作品を本当の意味で楽しめることと、それから、電葬士の仕事も、疲れるけれど誇りにしてるよ。組み合わせかな。わたしだけができることが、わたしなんだと思う」

「あなたらしさを奪われてしまったら、どんな気持ちになる?」

 自分にしかできないと思っていたプログラムを他人が生み出したとき、電葬士の後輩たちが仕事を覚えて自分が’必要とされなくなったとき、だれかに代わられてしまうと思った時、消えたくなったのを春は思い出した。

「いなくなってしまいたいと、思うかもしれない」

「そう」

真希は自分の作品を仰いで、両手を広げて春を包んだ。

「春、私、消えたい。この世界がもう信じられない。私の何かが、コピーされてる。テレンスは私のデータを使って、死んでいった他のアーティストと同じように、私を私タラしめてる創造性をモノにしようとしている」

「落ち着いて、真希。真希はまだ死んでいない。死んでなければ、あなたの脳のモデルが誰かが使うなんてことはありえない」

「だったら、あの私のような作品は何なの? それに、証拠は他にもあるの」

 息を呑んだ。真希は取り乱している。周の顔を思い出す。彼の目が黒いうちに、〈ウーネ〉のシステムに不正が入り込む余地なんてあるだろうか。 

 春が言葉を返せずに硬直していると、真希は高い声で叫び散らした。

「昨日、一人の子供にアート創作の指導をした。いつものように、自由に作らせようとした。私は、私の作風なんて教えない。それをそのままコピーさせることは、私にとっては芸術への冒涜だから。でも、その子が手を動かしたとき、手先から生まれるのは私が作るのと同じ作品風景だったの。ねえ、私を消して。完全に消して。どうせ時が時がきたら、周の作った〈シーワン〉がやってきて、私が完全に消えるのは許されなくなるでしょ? 私が創作する時の神経の活動は記録されて、全部残っているんだから。利用されたくない。私の源を、コピーされたくない」

「でも、なにかの間違いとか、幻みたいなものかもしれない。周と調べるから、待って」

「見間違い? わたしは、幻覚とか妄想とか、そういうものから逃れるためにここに来たの。春は知ってるでしょ? 私もコピーを見るのも、私が幻覚を見てるのでも、どちらもおんなじなの。私から私が奪われる。ねえ、ニューロダイブに残ってる私の身体を侵されたくない。だから、私の身体も、神経も、データも全て燃やして、消してほしい。残った骨も、どこかに持っていってほしい。春はダウンロード、良くしてたじゃん」

 ダウンロードはしばらく実行していない。それどころか、統制局はα版のニューロダイブは安全性に問題があるとして接収してしまった。春はそれを言おうとして止めた。真希を失望させたくなかった。失望させないでいて到達するのが真希の消滅だとしても、親友として真希の望みを叶えたかった。永遠のような静寂に包まれて、留めたいことも悲しいことも、言葉にしなくとも伝わると思った。

「春なら、誰よりも分かってくれると思ってたのに、〈ウーネ〉が変えてしまったね」

 そう言われて、何も言い返せなかった。真希が去るのを、追うこともできなかった。


 完全な消滅という真希の望みを叶えられるのは自分しかいない。春は覚悟を決めて嘴を強く噛んだ。クラクラと頭がおもく、飛行がおぼつかないほどだった。

「生きているうちにストアに並ぶことはありえない。僕が作った〈ウーネ〉機関プログラムを信じてくれ。しかし、君の親友が間違っていないのだとすれば、誰かが何か企んでいることになる。テレンスのヤツか? 調査はワタシの方でしよう」

「未完成のダウンローダーは、使い物になるの?」

「未完成だ。技術者として、そっちは動作の保証はできん。ただ、研究局のヤツラが、一度は動かしている。一応、アップロードと両方向の対応だ」

 春は覚悟を決めて、未完成のダウンローダーを起動した。

 わたししかできない。わたしが完成させなければ。

 もしこれで不良動作をしたら、わたしはいったいどうなってしまうのだろう? 鳥への神経プリントが失敗したら、わたしは正常にもどってこれるのだろうか? 行き来することで、容量に合わせて色々を捨てなければいけないのに。

 完成までに全部で五回のダウンロードが実行された。起動して眠り、ニューロダイブに繋がれた猛禽として目覚めるたびに、予想通り春の生体系数は大幅に減った。起動するたび、春はプログラムの特性を読み解いてソースコードを完成に近づけた。周の手つきの伝わるプログラムは、なんだかとても懐かしかった。命が削られてしまって、〈シーワン〉に補足される日もぐっと近づいたように思えた。

 真希を消すならば、ダウンローダー以外の準備が必要だ。芸術家や起業家、アスリートの脳シミュレーターとデータは〈ウーネ〉の資産だから、統制局が不正な利用がないか厳重にチェックしている。アルゴリズム特有の融通の効かなさを〈シーワン〉が示したときのため、電葬士は特別な削除権限を持っていた。葬儀の際の走馬灯作成、あの時もいらない記憶を海馬や海馬シミュレーターから消していくのだけれど、あの権限を強くしたものだ。

 春はカモフラージュとして〈シーワン〉の誤動作を誘発する仕掛けを用意する。春自身の神経を適当な数切り離したりつないだりし、〈シーワン〉作動の閾値付近をうろつかせるプログラムだ。

 古い開発部のスタッフをひとり呼びつけて、彼の覚えている限りのニューロダイブ社屋の地図と、ユーザーIDから真希のポッドの位置を推測した。

 ほとんどの前準備が完了した。あとは一発、やらずには気がすまなかった。

 テレンスの元へ飛んだ。彼は狼狽したが、予想外に冷静だった。

「あなたはアーティストを、生きたままストアに並べるような外道だったのね」

「待て。春。落ち着け。君も真希も焦りすぎている。真実を見失っている。真希のサポートをしてきた立場から言わせてくれ。真希は消えるには惜しい才能だ。僕と一緒に、まだまだ世界の美意識を前に進められる」

「真希はそれを望んでない。どのみち袋小路だよ。今やらなくても、いずれ時がくれば、真希の脳の部位は偉大なアーティストのモデルの一つとしてストアに並んでしまう」

「それの、回避方法があると言ったら、君はどうする? まず、僕は、君の思うようなことはやっていない」

「どういうこと?」

「周につなぐぞ、周。調査結果を教えてくれ」

「春、テレンスはやっていない。俺は開発局長の特権を使って、〈ウーネ〉システム上の全ログデータを捜査した。テレンスは無実だ。どうやら、研究局の新入りがなにかやらか

したらしい。真希以外にも、問題が起きてる。再発しないように、すでに穴は塞いだ」

 事実はいつだって残酷だ。真実の見え方は変わる。一度変わった心は変わりづらい。

「いいか、僕の作戦を着てくれ、周の作ったプライベートスペースを使う。統制局も決して見ることができない。僕と君、ふたりだけがアクセスできる記憶の共有地だ。〈ウーネ〉で僕は、数え切れないくらいのアーティストを支援した。しかし、一方で、僕は僕だけに開かれた美も欲しくなった。〈ウーネ〉上のアート作品は全ユーザーに開かれてしまうからね。自宅にアーティストを住まわせて、そこで作品を作ってもらい、鑑賞する。僕と彼らだけの美の空間だ。そういう美もあっていいとおもう。だから、プライベートスペースを作らせた。周は金を払えば何でもやるんだ。子供に良い教育を与えたいらしい」

「やっぱり、あなたは高慢だから嫌い。でも、真希をそこに連れていければ、真希を助けることができるのね? 消えなくとも、〈ウーネ〉に利用されなくて済むのね?」

「そうだ。彼女は嫌がるかもしれないが、留めるのが真に彼女のためになる。そして、それには君の協力が必要だ。連れて行くのではなく、持っていくんだから」

 君には電葬士の権限がある。彼女が嫌がったら、記憶のモジュールに介入して、嫌がったことは消してしまえばいい。テレンスがその後の手筈について説明を続けるのを、春は頷くこともなく聞いていた。


 持っていく。その言葉の意味するところを、春はその時はまだ理解しきれていなかった。なによりもまず、ひどく混乱していたし、真希の望みを叶えながら留めておくことができるなら、それが一番だと思っていた。

 その後すぐ、周がニューロダイブ社を辞めた。老いに身体がついていかないと言った。

 全てが終わって妙な達成感に包まれている春の元に険しい顔の怜がやってきた。いましがた真希にやったことが露見したのかと不安で、言葉を出すのが恐ろしかった、

「研究局の不正の処理が大変だった。電葬士も兼ねてるオレは関係があるからって引っ張りだこで、本当に面倒だった。死のフラグがつけられていないユーザーのデータを勝手に触って、作られた神経シミュレーターを勝手に公開した。全部じゃない。思想家や詩人の言語野とか、アーティストが視覚イメージを生み出す領野とか、音楽家の音感とか、そういう芸術系のモジュールだ。いまは全部、そういうのは削除されてる。それがきっかけで生み出されたものも、全部な。なんでも、α版ユーザーは別の取り扱いになっていて、管理の網をくぐり抜けたんだとか。春は大丈夫か? 自分のドッペルゲンガーみたいなのに、会ったりしてない?」

 視覚だけを模倣したから、磁気が含まれなかったのだ。だからあれは、やっぱり真希の作品じゃない。そう思うと春は、安心すると同時にやりきれない気持ちになった。

「ううん。大丈夫」

 でも、例えば子供とかが、その違法なモジュールを使っていたら、その子はどうなるの? 春がそう聞くと、怜は普段と違うトーンで、さあなと言った。結末を知っているようにも聞こえた。

「あと、元開発局長の周浩然? の息子から連絡が来てたよ。亡くなったって。葬儀は道教式だって。よくわかんねーけど。紙銭を焼いて、七日ごとにお参りしたり、遺骨を洗って金塔に収めるってさ。おれたちも参考にできるかな?」

 禿げ上がった頭、皺だらけで乾いた鼻と細く優しい目。添付された遺影の中で柔らかく笑う周を見て、春はニューロダイブ社で初めて彼に会った日のことを思い出した。


5.

 プライベートスペースZK#13に、今日もアーティストを連れてくる。周の残したプライベートスペースは、テレンスと春の二人だけがアクセスできる空間だった。それはニューロダイブに接続された二人の記憶領域の中間につくられた隠れ家であり、ふたりだけが覚えている記憶のようなものと言える。

 外では〈ウーネ〉リリース80周年を祝う祭りが開かれている。今や一万を越す〈ウーネ〉世界全体で同時に開催されおり、最新の#12462世界の代表が祝辞を述べている。祝辞は百周年、二百周年に言及していて、死んだ者も生きる者も、〈ウーネ〉ユーザーがみな栄光を願っているのを聞いて、春は暗澹たる気持ちだった。

 いつまでわたしは、裏切りの罪と共に生きなければいけないのだろう。

 #ZK13には〈ウーネ〉で制作した真希の作品が古いものから新しいものまですべて格納されている。ふたりだけの特別な美術館だ。もしテレンスさえいなければ。

 先週は何百人目かのアーティストをここに連れてきた。繰り返し繰り返し、テレンスと結託し、ときに統制局に告発すると脅されながら、春は違法行為に手を貸してきた。違法かどうかはもはや気にしていなかった。真希の望みを叶えなかったことを自分なりに前向きにとらえようとして、老いを忘れたこの世界で、永く永く後悔した。

 統制局で昇進してそれなりの地位についた怜は未だに良き仕事のパートナーだ。これほど近くにいるのに、春は怜に違反行為を疑われていると思ったことはない。

 生体係数があと半分ほど減れば、自分にも死のラベルが貼り付けられることになる。わたしはおそらく消えられないだろう。怜に記憶を捜査されたら、わたしの罪は暴かれて、わたしは永遠にこの意識を抱えたままで過ごすことになるのだろう。とまり木の上で、春は深く目をつむった。

 #ZK13の末端まで飛んでいくと、天井の高い展示室にたどり着いた。打ちっぱなしのコンクリートの柱は部屋全体の空気に冷たく寄り添っていた。五メートルほど上方にあるガラス窓から、北国の仄かな太陽の光が希望のように甘く流れ落ちていた。

 デンマーク人アーティスト、κβがそこにいた。彼は生きてはいない、しかしまた、〈ウーネ〉において死んでもいない。彼のアバターには0930と、物理世界に残してきた彼の娘の誕生日が刻まれている。彼は娘も〈ウーネ〉に招いたが、結局それは叶わなかった。彼はテレンスに誘われ、#ZK13に入ることを快諾した。彼は全てをシミュレーションに変えたあと、テレンスのサポートを受けながら永遠に作品を作り続けることを決めたのだ。彼は視覚野と右腕全体、左手の親指以外の指以外の四本の指の神経網を立て続けに失って、標準的なシミュレーターを接続したあと、極度のスランプに陥った。

 感覚が変わってしまったように思える。何も描く気にならない。そう言った彼に、物理世界からのパトロンであるテレンスは救いの手を差し伸べた。資金を提供し、研究局が試験中の最新シミュレーターを彼向けにカスタマイズし、κβが作品を作り続けられるようにした。ただし、テレンスのためだけに創作をするようにとの条件付きで。

 彼が春とテレンスの記憶領域にいられるのは、彼が〈ウーネ〉においてモノに過ぎないことの証拠でもあった。テレンスは春の手を借りて、彼を運び込んだのだった。

「それよりこっちは歩かないでくれ、床じゃない。そこからは紙なんだ」

「飛べば大丈夫でしょう?」

「ああ、もちろん。いつもどおり、そうしてくれ」

 デンマーク訛りの英語の発音ですら完璧に模倣されていると春はいつも思う。注意するときは人間嫌いを思わせる棘のある口調になるが、すぐに遊び盛りの子犬のような柔らかさを取り戻すところも、完全なシミュレーションと思わせない。

 彼の作風も。その作品の美しさも。昔のままだ。

 ふと周の言葉を思い出して、春は彼の心を覗いた。モノとして扱われる限り、〈ウーネ〉で心や思考のプライバシーは保証されない。κβの考えは透過的で、春は彼が本当に生き続けることを望んでいたのを知った。

 アーティストたちに会う度に目を背けたくなる。わたしは同じように、真希をプライベートスペースに連れてきたのだから。テレンスに彼女のデータを渡し、彼女用の特別な脳のモジュールを用意して、真希を全部シミュレーションに変えたのだから。

「新しい作品ができそうだから見にきてね。いつものシロハヤブサの姿で」

真希から連絡を受ける。受けるたびに消えてしまいたくなる。

 もう八十年以上も昔、大学の頃部屋でふたりきりで飲んだモルドバ産のワインのフルーティーな香りを懐かしむ。質感を確かに海馬から引き出せるけれど、その本当さを疑いだしたらきりがない

 真希の作品世界の方へ飛ぶ。〈春導く地に祝福を#879〉、〈春導く地に祝福を#880〉、…、〈春導く地に祝福を#881〉、彼女らしい名前とナンバリングだ。眠たく霞のかかった空に桜が舞散り、薄青と黄色の花が咲き乱れて円柱を砕いたような形の大地に伸びている。空の向こう霞が晴れれば、広がる紺碧に眠気のかけらもない。

 真希の正面に降り立つと、彼女は春が近づいてこないのを不思議な顔で見つめる。あの日からずっと、近づくことに怯えていた。戸惑いを覚えていた。

「もっと近くにくればいいのに。この新作は、春が一番最初に見る人だよ。ねえ。さっきテレンスから連絡が来て、いままでありがとうって急にお礼を言われた。それと、春、あなたを探していた。あなたに葬ってもらうんだって、躊躇いなく言っていたよ」

 急にそんなことを言うなんて、いったいどういうつもりなのだろうか?

 憤りと困惑にどう対処すればいいか悩んでいると、春はテレンスに呼び出された。

 なにもない広大なスペースに堂々と立つテレンスは優しい瞳で春を迎えた。覚悟を決めた男の顔をしていた。相変わらずのサムライのアバターが、憎らしくて愛おしかった。

「決めたんだ。もう終わりにすることにした」

「あなたの生体係数は世界でも高い方、死ねるようになるにはまだ早い。あれほど物理的な神経の方の不老化技術にお金をつぎ込んでいたのに、どういう心境の変化?」

「回り回って、結局老いから逃れられないと悟ったのさ」

「それは何度目の嘘? 何度もそう言って、その度に技術に賭けて乗り越えてきたでしょう。高慢だけどバカみたいに前向きなのが売りなくせに」

「何回も嘘をつかなければたどり着けない結論もあるだろう。僕は、僕の脳に刻まれたこの美意識と、僕の生み出したアート、僕の持ち物を〈ウーネ〉のものにされたくないんだ。だから、君に僕の特別な葬儀をお願いしたい」

「どういうつもり?」

「真希にやるはずだったことを、僕にやってほしい。僕は完全な消去を望むよ」

「ふざけないで、今更になって、そんなことを言うの? 許されるとでも。それに、完全な消去は真希のために準備したの。あなたのためじゃない」

 裏切りに誘ったのはテレンスで、一見甘い誘いに鳴ったのは自分自身で。あの日からつもり続けた後悔が劇場となって爆発する。ないはずの心臓が逆回しになって、逆流するよう、空虚に咆哮した。蹴り上げた鉤爪で地面スレスレを滑空して、テレンスの顔を鷲掴みにして、そのまま高くへと持ち上げようと力を込める。

「落ち着いてくれ」

 テレンスが漆黒のヤタガラスに姿を変えて、春の鉤爪をかいくぐり飛んでいく。逃げてるのではなく、誘っていた。彼はヒトには聞こえない音域で低く鳴いた。しばらく飛んで降りると、今度はたくましい西洋人にすがたを変えた。

 太い右腕で赤い毛糸を持ち、左手には切り落とされた牛の頭を持っている。薄い金髪はオリーブの葉の冠で飾られている。彼はわざとらしく赤い糸を辿る。その先には迷宮から英雄を救い出すアリアドネが待っているのだ。薀蓄好きの周が昔教えてくれた。

 羊の角飾りのついた石の円柱オブジェクトが呼び出され、等間隔が空間に配置される。ギリシャ様式の神殿を建てた。神殿を出ると、静かな夜のエーゲ海に木造の船が浮かんでいる。テレンスはそれに乗り込み、青い瞳でハルを見て口を開いた。

「僕を悩ませているのは、極めて古典的な問題だ。ミノタウロスを倒したテセウスがアテナイへ帰還するのに使ったこの船は、記念にアテナイに長い時間保存されることになる。その間に、朽ちた木は新しいものに取り替えられる。やがて全ての部材が取り替えられたとき、その船はこの船と同じ船だということができるか?」

「テセウスの船ね。そんなの、同じの定義による」

「優等生はそう答えるだろうね。でも、僕は優等生じゃないんだ。僕や君の神経回路を成す全ての神経が疑似神経のシミュレーターに少しずつ置き換わったとして、最後に残る僕は元の僕と同一なのか? 真希も昔、疑問に思ったことがあった。〈ウーネ〉にいて自分は同じでありつづけるのか?」

「わたしは、入れ替わっても、作り続ける限り、真希は真希だよって答えた」

「彼女もそう思っていたのかもしれない。答え合わせはできる。心を覗見れば、どう思っているか分かる。君の言う通りなんだろうね」

「見る必要なんてない。真希はわたしの前でそう言ったんだから」

「見れるんだから、見ればいいのに。君と僕が彼女をここに運び込んだ事実は変わらない。君の裏切りは〈ウーネ〉に永遠に記録される」

「こんな装置まで用意して申し訳ないけど、モノであるテセウスの船とわたしたちは違う。わたしたちには意識があって、変化を続けているんだから」

真希の作風も、わたしも、変わり続けているはずだ。春は思った。

「それは君が、真希への罪の意識からそう思いたいだけだろう。人は見たいものだけを見たいように見る。この問いに対する。僕の答えはノーだ。同じじゃない。とりかえしのつかないどこかの時点から、気づかないうちに僕は僕でなくなってしまった。取り替えても、僕は変わらなくなった」

 これを見てくれ。彼は言うと、春を#ZK13の一角に連れて行った。κβとその友人のアーティストが談笑している。テレンスがふたりに挨拶をし、春もそれに合わせた。κβの友人のアトリエに行くと、無限に続く白い壁に彼の作品が掛けられている。ダイナミックに手を振るう手つきが伝わるような雄々しい筆致の油彩からはじまり、やがて作風は変化する。アトリエの半分も過ぎない頃から、穏やかな光に照らし出される絵の質が変わる。フラットな筆致ののっぺりとした色数の少ない抽象ばかりになる。

 どこまで行っても、同じ絵の繰り返しに見える。春には差を見つけられなかった。

「取り替えてたら変わってしまうことが苦しいんじゃない。取り替えても取り替えても変わらないことに、もう僕は耐えられない。受け入れられない。美意識が変わらなくなってしまったんだ。どんな作品をアーティストが作っても、もうずっと、同じ様式にしか感動しない。それ故に、アーティストも同じようなものしか作らなくなってきている。その割合は年々増えている。パトロンとしての僕の終わりだ。それは、僕の終わりを意味する。僕はもう、変われない」

 テレンスは春を連れプライベートスペースを出て、元の場所で木造の船に残された最後の底板を変えた。にぎやかなアテナイの街の喧騒が遠のいていき、等間隔で並ぶ正円の円柱オブジェクトが消えていく。彼は元のサムライの姿に戻って、一羽の白いハヤブサと向き合った。

 この男の覚悟は変わりそうもないと、ハルは思った。それでも、聞いた。

「もう、気持ちは変わらない?」

 言ってから、あの裏切りの日に真希に聞いたのと同じ言葉だと気づいた。あのとき首が 横に振られていたら、いま自分はどうなっていたのだろう?

 彼は頷いた。

「物理世界でも〈ウーネ〉でも死ぬチャンスは一度きりしかないんだな。それが自分に近づくまで、僕たちはそれに気づかないんだ。春、脅すようで悪いが、君が失敗すれば、僕らのやってきたことは明るみになる。しかし、僕にはずっと不思議だった。君は職業上の特権を使うことができる。それで、真希をここに運ぶときに記憶に触れたんだろう? 彼女は恨んでなんかいないようだよ。それに、自分の罪の記憶だって消せたと思うのだが。そうせずに君が引きずっているのも、君の変わらなさなのかもしれないな」


 〈春導く地に祝福を#900〉は暗い。水気をたっぷり吸った暗い雲が強い風を受けながらも重たく眠たそうに空に寝転んでいる。雨が降りそうなのに一滴の水も落ちてこないのがむずがゆいような不安なような、妙な心地にさせる。祝福を受ける瞬間は、かくも暗いものなのだろうか。

 途方も無い荒れ地に花壇を植えるように草花を描いていた真希が上空の春に気づく。

「製作中は入ってこないで。いつも言ってるでしょ。春だとしても、許さないよ」

「作っている所を見られたくないなんて、本当は、真希の方が鳥何じゃないの。真っ白で、足がすっと長く美しくて、きっと頭が赤くて」

 真希は未完成の作品を他人に見られるのをいつもびっくりするくらい嫌がった。まだ無名で、物理世界に住んでいたころ、春が彼女の家に遊びに行くと、エアコンのない作業部屋のドアをピッタリと閉めて鍵をかけ閉じこもった。集中力が切れた頃に汗だくになって出てきたり、冷え切った足先を震わせながら子鹿のように出来るのを見て、ハルはよく呆れたものだった。

 会話がしたくなったときはドア越しに、ソファでくつろぐハルに声をかけた。丸一日眠ることも食事を摂ることもなく制作に没頭して、マキが疲れ切った頃にハルが紅茶を淹れると、それを運びこむごく僅かの間だけ、春は真希の横顔を見ることを許された。

 そんな性格も、完璧に模倣されている。

 海馬の一部が機能を失って、初めて海馬に記憶増強モジュールを接続した日、なんでも思い出せて便利ねとからりと笑っていた。変わることに怯えないところも、彼女は昔のまま彼女らしかった。

「作成中に入られて怒ってコーヒーを投げたら、春のお気に入りのワンピースに思いっきりかかったのを覚えている? 後にも先にも、私と春が一週間も口を聞かなかったのはあのときだけかも」

 そのあと、春はできあがった作品を受け取って仲直りをした。家がもしまだあれば、まだあの作品はどこかに残っているはずだ。あの作品たちのほうが、いまの作品よりも本物らしく思えてしまう。朽ち果てていなければ。また触れてみたい。実際に触れられないからこそ、憧れるものは焦がれるほど本物らしく感じてしまうのかもしれない。本物らしさとはかくもうつろうものなのだ。

「昔から、何かを作っているときの真希の真剣な顔が好き」

「ふふ。わたしがアバターを変えて、ヒトじゃなくてアライグマとかサルとかネズミとかになっても、同じこと言えるの?」

「言えるよ。きっと、同じ顔すると思う。真希だって分かると思う」

「じゃあ、透明なスライムにでもなろうかな。それか、アバターを消しちゃうか」

「わたしが〈ウーネ〉に来たばっかりのころ、真希がκβとかを誘ってくれて、子供みたいに馬鹿騒ぎしたね。アバター消して動き回ったり、街で全員が透明になったり。今はもう、姿を消すのは規約違反になるけれど」

 消えても消えなくても、違反でもそうでなくてもいい。すがたが消えても、何かを作っている限り、わたしにはあなたの作る様子がみえるよ。春は思った。

「真希。謝ってももう遅いよね?」

「謝る? なんで謝るの」

「真希を裏切って、ここに連れてきたこと。わたしはあなたの記憶に触ってない。だから、覚えてるでしょ。眠るように消えられるよって騙したこと。あなたは消えたいと願ったのに」

「さっき、テレンスが来た。あの頃は消えたいなんて分からなかったって、謝ってた。彼も消えたいって望んでるんでしょ?」

「そう。あの男、勝手すぎる」

「昔からああだから、自分が芸術の神様だとでも思ってる。でも、神話の神様だって、飽きて憂いて死ぬこともあるじゃない? だから赦してあげよう。テレンスが消えるなら、あとはあなた次第だよ。私の望み、今度こそ叶えられるでしょ?」

「どういうこと?」

「どうもこうも。テレンスが消えれば、私も消えれるでしょ? ダウンロードすれば、私の身体を焼くこともできるでしょ」

「わからないよ」

「ハル、あなたは決して認めようとしなかった。それは嬉しいんだけど」

「うん」

「この#ZK13は、あなたとテレンスの持ち物だから。テレンスがもし消えるなら、その中にあるモノは全部あなたの持ち物になるよ。あなたが自由にできる。私も含めてね」

 春は目を見開いた。身体の支え方がまるでわからなくなり、真っ直ぐに墜落した。真希に受け止められて、久方ぶりに抱きかかえられた。真希は春の胸毛に、祈るように顔をうずめた。

「わたしが死ぬときに、わたしの持ち物であるあなたを消すチャンスが生まれる」

 眠たい空を見上げながら、ささやくように春は言った。声は風に流れてすぐに消えた。


 八十周年フェスティバルの騒ぎが続く中、春はテレンスの完全な消去の準備を進めた。 #34世界は解放感から羽目をはずした者で溢れて、電葬士も統制局もいつもの何倍も忙しかったから、誰も春が何をしているか気にしなかった。

 街道の濡れた石畳を吹き抜ける風が竹を囁かせ、その下を催し物の大名行列が通過する。そのうしろを故事の英雄が描かれた紙に骨組みをつけられた美しい紙人形の山車灯籠が続く、そのうしろに降嫁する高貴な姫の載る籠が、その次にもまた行列が続くのを春は見つめた。木の上でリスやネズミ姿でパレードを楽しむ者たちに春は並んだ。

 更に上で、別のユーザーが旋回している。ついこの間、怜とふたりで埋葬したα版からのユーザーだった。彼は完全なシミュレーターになることを選んだ。言葉を交わすことを捨て、上空から次の世代を見守り続けることだけを願った。ずっとずっと、彼の子孫のまた子孫が生まれてもまだ、〈ウーネ〉を彼は見守り続けるのだろう。

「相変わらず遅いぞ」

 時間に厳格な怜は五分前に到着し、遅れてきた春に目を細めた。薄い布団で眠る旅人の横で、彼の恋人が両膝をついて泣いている。ふたりはどちらもダウンロードされることを望んでいた。春は今すぐにはそれは叶えられないと答えた。彼らの使ったニューロダイブは最新型で、そもそもダウンロードの機能がないからだ。怜は丁寧に、正規のやり方について長々と説明した。

「できないのに、正しいやり方を説明するほうが残酷だよ。彼らには時間があったからよかったけど、危うく希望通りに完全なシミュレーターに変えてやれないところだったじゃない」

「ニューロダイブ社のどこかの部門から横流しされた違法なダウンローダーが出回ってる。〈シーワン〉を誘うようなその兆候がこの辺で増えてる。だから仕方ない。ダウンロードなんて信じてるのは初期ユーザーばっかりだ。ジジイババアの幻想なんだよ。若い奴らはみんなそう言ってる」


 八十周年フェスティバルがいちだんと盛り上がる夜は、完全な削除の決行ににはもってこいだった。〈シーワン〉を揺動するために、偽装した生体係数を生きるか死ぬかの境目で小刻みに変化させるプログラムを起動する。でも、予定通りにはいかなかった。

 春は怜から統制局全体への連絡を受け取った。複数の規約違反の疑われるテレンス・リーとその関係者を確保せよ。月の見えない闇夜の未明、祭りの残滓が各所でこうこうと照り残っていた。

 暗い。鳥の視覚能力で飛ぶにはあまりにも暗い。地面も空も、何一つ見ることができない。鳴く声の跳ね返りだけで全てのモノの位置を把握できるコウモリたちが羨ましかった。そのコウモリたちでさえ、全く姿をみせない静かな夜が訪れていた。

 テレンス邸に近づく。闇が深さを増して翼にまとわりつくように春には思えた。杉の木に正面から衝突し、嘴が折れるところだった。これ以上、鳥の姿では進めない。でも、時間がない。テレンスが捕らえられる前に、彼の削除を実行しなければ。

 春はたまらずヒトの姿に戻る。二足歩行が覚束ない。歩き方を知らない赤ん坊のようにふらついてしまう。鳥の運動野の接続を解除し、誰でもいいからアスリートの運動野モデルと接続しようとしたが、シミュレーターストアは不自然なメンテナンス表示を返した。

 ただ這うように進むことしかできなかった。

 山門を抜ける。光を遮るものすべてを改めて影の中に落とすかのように、小さな風に揺らぐ太い蝋燭だけがぽつぽつと灯されている。

 山門の向こうには竹林が果てしなく広がっている。

 そよ風が吹く度に竹の葉がささやく。誰にも気付かれないように進めと歌うように。闇に慣れた目でも二歩先までしか見えない。

 後ろから息を吐く音がした。隠れて摺るような密やかな息づかいだった。

 振り返ると馴染みの背丈が見えた。怜が春より遅いのは、特別な理由があるときだ。

「この暗さじゃ、鳥の姿でいるのは無理だよな」

「暗すぎるよ。いつもはいくつも灯篭がともっているのに。それに、誰もいない」

「そうだな。暗すぎる。これじゃあ、逃げるのは一苦労だ。追いかけるのも、骨がおれるけどな」

「追いかける?」

「前代未聞の規約違反者のテレンスをな。アーティストの脳を独占した疑いがある。不自然な違法ダウンロードの兆候もみられてる。それに#ZK13、初期型のプライベートスペースだ。春は覚えがあるよね?」

「ZKはプライベート空間につく接頭辞ね」

「そうだ。主に犯罪に使われる。名前は自由に変えられるんだから、他の名前つければ、怪しさが減るのに、どうしてかみんな、秘密は秘密だと分かるようにしておきたがる」

「そうね。大切すぎて秘密にしたいものは、外からでもそうと分かるようにしたくなる」

「なあ。おれも春とは長い付き合いだ。犯罪者のデータは通常の埋葬プロセスにのせらない。解析され、どういう神経の働きがそういう行動をさせるのか徹底的に解析される。犯罪者のモデルとして生かされ続ける。牢獄という〈ウーネ〉共有地の中で、永遠に。いま協力してくれれば、お前を普通に死なせてやることもできる。統制局が開発局を黙らせた。すぐにプライベートスペースの中も強制捜査されるようになる」

 テレンス。もう捕まったの? 望み通り、消してあげるから。どこ?

 闇夜に隠れるなら、鳥の方が良い。春は鳥に戻り、地を蹴った。ヒトに聞こえない低い音が闇夜に鳴っている。目には見えない。でも飛べる。ぶつかる予感がしない。怖くはない。呼ぶ声はまっすぐに伸びている。見えなくてもあると確信できるほどに。

 翼を広げ、レイの脇を真っ直ぐに抜けてくらやみの中へ抜けて、石畳を蹴り出して風に乗った。そよ風でも、飛び立つには十分だ。

 闇夜に啼くヤタガラスすがたのテレンスがいた。

 鳴くのを止めた彼の三本の足を嘴で掴む。触れることで、テレンスのデータへのアクセスが許可される。全部消していいの? 聞くと彼は頷いた。

「しっかりダウンロードされてくれよ。僕の肉体を、完全に焼いてくれ」

 電葬士の特権を発動し、データの削除を開始する。所有物、所有権の徹底的な削除には時間がかかる。時間を稼がなくては。春は#ZK13へ逃げ込んだ。


 〈春導く地に祝福を#882〉、〈春導く地に祝福を#883〉、真希の作品が続いていく。普段と異なり、作品同士が三次元的に並べられ、迷路のように入り組んでいる。真希の姿をすぐには見つけられずに、春は焦った。落ち着くために目をつむった。目をつむると、春の居場所までの真っ直ぐな導きを感じられた。それは実際には入り組んだ道筋だけれど、直線に視えるように知覚できた。

「製作中は入ってこないでって、また言わせないでよ」

「ごめん。でも、急いでる。これが最後だから。許して」

「冗談だよ。特別な時こそ、いつも通りでいたかった。ちょうど今完成したところ。あなたがこの子の最初で最後の持ち主だよ」

 その〈春導く地に祝福を〉にはナンバリングがなかった。

 番号ないの作品は、いつだってふたりだけのものだった。

 すべての真希の作品と同じように、丹念に磁力も刻み込まれている。磁力の導きに沿って作品の中を旋回する。円柱状の壁を埋め尽くすネモフィラにヒヤシンス、幼い頃よく育てたチューリップにパンジー、芝桜にルピナス。舞い散る桜、その後ろに祝福するような春の光が見える。

 周から渡されたダウンローダーを取り出して、嘴にくわえる。脳の全てを持っていくことはできない。ダウンロード先は鳥なのだから。

 言葉と記憶、全部はいらない。でも、真希との言葉と記憶は全部持っていこう。

 視覚は真希の作品が分かるように。聴覚はできる限り圧縮する。磁力を感じるモジュールと、飛ぶための運動野。選んでいく。わたしがわたしであるために、わたしの認識を成すものすべてはいらないのだから。

 ダウンローダーをウォームアップさせ、エラーがないことを確認する。周の顔とソースコードを書く丁寧な手つきと知的な眼差しを思い出してから、少しでも容量を軽くするために余分な記憶の削除を開始する。周、あなたの腕前を信じてる。準備が完了して、春は自分に死のラベルを貼り付ける。真希との約束が果たされる時が訪れた。

 春は自分の持ち物をすべてを消去する命令を実行する。テレンスに続き、所有者の春を失った#ZK13が消えはじめる。崩壊する空間に、κβがクレパスを叩きつけている。#ZK13に住む他のアーティストたちも現れて、みんな思い思いに制作を続けている。

 すがたの消えかかる春は、すがたの消えかかる真希に抱かれているのを見た。腕の温もりが少しずつ消失してる。〈春導く地に祝福を〉の先に、眠たさから目覚めた薄青の晴空が見えた。


 プリントされた神経が筋肉と骨格に馴化していく間、翼も足も火照ってかなわなかった。溶液が抜けると研究用のポッドが開き、春は猛禽たちの中で目を覚ました。久しぶりのダウンロード実行の警告を受けた警備ロボットがやってきたが、鳥が出てくることは想定していなかったらしい。最古の型式のポッドの異常動作として故障を報告して持ち場に戻っていった。

 立ち並ぶ沢山のポッドそれぞれの中に、ヒトが格納されていた。

 テレンスと真希のユーザーIDからポッド管理塔の位置を確認し、α版ユーザのニューロダイブが格納された管理棟に忍び込む。大量に並ぶチタン型のポッドが静謐に並ぶ空間に、あちこちに色とりどりの花が捧げられている。花束を持つ観光客らしき人々が、最初にアップロードされたα版ユーザーが眠る地を敬意の目で見ているのが見えた。

 真希のポッドを見つけ、ダウンロードした手順通りにニューロダイブを操作する。春は意味は覚えていなかったが、手続きは確実に実行できた。

 内部の溶液が流れ出し、真希の身体が現れる。

 死化粧などしなくても、なんて美しいんだろう。春は思った。

 同じようにしてテレンスのポッドから彼の身体を取り出し終えると、警告音がなり始め、警備ドローンが飛んできた。テレンスのポッドの上にドローンを誘導して、鉤爪で鷲掴みにして叩きつける。空転した高出力モーターから出た熱がドローンのフレームを燃やしはじめる。その火で、テレンスの身体が炎に包まれ焼ける音がした。

 何台ものドローンの音が聞こえて、春は真希の身体を掴んで飛び立った。

 ニューロダイブ社の社屋の外には、透明なバイカル湖がなにひとつ変わることなく広がっている。真昼の新月が映っていた。地磁気に導かれるように遥か北の湖に着地して、柔らかい枯れ草の上に横たえた真希の肉体を見つめた。

 遠雷が聞こえる。雷の下で起こる火で、約束通り真希を焼こう。

 わたしは春鳥に現れる鳥として、そのうち卵を生むのかもしれない。わたしが真希の作品を美しいと思っていた記憶は、薄れながらも受け継がれるだろうか?

 まずはわたしが、骨を巣にして真希のことを覚えていよう。骨をくわえて、世界に残る真希の作品を探して飛び回ろう。見る度にあなたがあなただったことを思い出すだろう。

 そう誓って、春は新月に向かって高い声で啼いた。高らかに啼いた。




骨巣の春鳥は覚えている 猿場つかさ

 為永春は親友の上國料真希とニューロダイブ社を訪れていた。真希と春は高校の頃からの親友で、いまや世界的なアーティストになった真希のことを春は昔から敬愛していた。真希も逆に、自分の作品を経済的価値を通して見ない春を心の支えにしていた。

 ニューロダイブ社は社名と同じデバイスを開発し、α版を招待制としていた。春と真希をバイカル湖畔の社屋に招いたのは、高名なパトロンのテレンス・リーだった。進歩主義社の彼は、技術の力で仮想空間で美意識とアートを新しい段階へ進めると意気込んでいた。有名ではないただのソフトウェアエンジニアである春は、真希は遠くに行ってしまうことを寂しく思いながら、ニューロダイブの性能改善の提案を偶然行うことで、エンジニアリングリードの周浩然み認められ、開発部に居場所を見つける。

 ニューロダイブは全身の神経回路をスキャンし解析し、入出力を模倣して、接続者を仮想世界〈ウーネ〉へと接続する。〈ウーネ〉上での活動は全て記録され、ログからユーザーの脳の各部位はコピーが作られ、シミュレーターやとして〈ウーネ〉の資産とされる。

 真希が〈ウーネ〉に移り住む日、春は真希の隠された望みに気づいたと本人の前で打ち明ける。表向きにはアートによる自己証明だったが、実際は真希は遺伝性の若年性アルツハイマーに怯えていた。知らないうちに自分が自分でなくなるのが怖い。真希は言った。

 〈ウーネ〉は不老の世界で、無慈悲な死とは無縁であると誰もが思っていた。

 十年目、周の開発した自律型リソース削減プログラム〈シーワン〉が、〈ウーネ〉に死の概念をもたらした。人が制御できない〈シーワン〉は、生体係数が少ない者を補足し、強制的に完全なシミュレーターに変えてしまう。〈シーワン〉は死のフラグを点て、〈ウーネ〉における死者はモノとして扱われる。生前の死者から神経のデータを基に学習された脳の各領野のシミュレーターは、ストアに並び誰でも使える共有物となる。死んだ者と全く同じ言葉遣いの者が、〈ウーネ〉に現れるのは、誰もが知る事実となった。

 〈ウーネ〉発展と共に統制局が生まれ、ダウンロードの自由は消えていく。

 真希に好きだと言われた鳥のアバターで過ごす春は、死に方を選ばせる電葬士として活躍をはじめる。走馬灯の作成、データの削除希望を逝く者に聞くこと、あるいは完全な消去をすること。逝く者の身体に触れることで特権的に脳に触ることもできる。何人もをお葬ったが、まさか真希から完全な消去を頼まれるとは思わなかった。

 真希はテレンスにはめられ、生きたまま自分の創造性シミュレーターを作られ、同じ作品を作る者を〈ウーネ〉に生み出されたと春に告げる。それは研究局の末端スタッフのミスだったと報告されるが、真希にとっては自分を奪われたも同然だった。消滅を望む彼女のため、春は命を削ってダウンローダーを完成させるが、テレンスの甘い言葉に乗り、真希を裏切って、彼女を完全なシミュレーターとしてテレンスとの秘密の空間に入れてしまう。それをネタにテレンスに脅され、春は他のアーティストに対しても同じ罪を重ねる。

 〈ウーネ〉八十周年フェスティバルが開催される中、春はテレンスに呼び出される。て今度はテレンスが消えたいという。それも、真希を消すために準備したダウンローダーを使わせろと言うのだ。春は激怒するが、テレンスが消えることで、テレンスとの共有物となった真希を消すチャンスが生まれると真希に告げられ、統制局の追手をかいくぐりながらテレンスと真希の消去、それからダウンロードを実行する。

 猛禽にダウンロードされた春は、真希の死体を焼いて、骨を咥えて飛び立つ。

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骨巣の春鳥は覚えている 猿場つかさ @tsukasalba

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