君に捧ぐ

外瀬

君に捧ぐ

「そうそう、おれ、留学するんだ」


 さくが穏やかに言った。

 始業式のあと部活を終え、もとは朔也の部屋に遊びに来ていた。他愛のない話をしている最中に、なんでもないことのように朔也が言うものだから、元希は空耳かと思い、聞き返す。


「え、なんて?」

「去年の夏、短期でドイツに音楽留学しただろ? そのときの大学に入学するから、高校やめてドイツに行くんだ」

「まじで?」


 元希は口をぽかんと開けて、なんとも間抜けな顔で驚いた。その顔を見て朔也は笑う。


「なんて顔してんだよ」

「いや、びっくりするじゃん。そっか、すげえな」


 元希の口から出た感想はこれ以上ないほど陳腐なもので、なんか他に言うことないのかよ、と心のなかで自分に突っ込む。


「いつ?」

「向こうで新学期が始まるのが八月だから、それに合わせて、かな」

「いつまで?」

「四年間」

「帰ってくんの?」

「うん、卒業したら日本に戻るつもり」

「プロになる夢に近づいたってことか」

「それはこれからの努力と運次第だけど」


 とりあえず状況を整理して心を落ち着かせる。

 留学。ドイツ。四年間。

 自分では上手く想像できない。元希は高校三年になっても部活一色の毎日で進路のこと考える余裕もなく、将来のどのような職業に就きたいかもよくわからない。そんななかで、朔也からこの話だ。


「詳しいことはまだ決めてる最中なんだ。元希には報告だけしておこうと思って」


 元希と朔也は、いわゆる幼馴染というやつである。小学校から高校までずっと一緒で、おそらく今まで生きてきた短い人生において、一緒に過ごした時間はどの人物よりも長い。だからこそ、お互いのことを家族以上に理解していると思う。そんなことを口に出すのはひどく恥ずかしいが。


 しかし、朔也が元希と過ごした時間以上に長い時間をともにしているのはピアノだろう。

 朔也は元希が出会う前、ほんの小さな子供の頃からピアノを弾いていた。たぶん、生まれてからずっと弾いている。朔也の母親は、昔はプロのピアニストを目指していたそうで、今は自宅でピアノ教室を経営している。これがなかなか有名らしく、遠方からわざわざレッスンに通う生徒もいる。

 とどのつまり朔也は母親からピアノの英才教育を受けて育った。そして、その実力は相当のもので、去年の夏、朔也は国内のコンクールで優勝し、ドイツの音楽研修に招待されたのだ。そのとき訪れた大学に入学が決まったらしい。


「やっぱり朔はすげえな。どんだけ遠くに行くんだよって感じ」

「んー、九千キロぐらい?」

「そういう話じゃねぇよ! ほんとにドイツでやっていけんのか?」


 元希がしみじみと言った言葉にズレた返答をする朔也を小突く。朔也はなぜ小突かれたかわからないといった顔だ。元希は思わず笑いだす。


「ま、どこに行っても朔は朔って感じだな」

「それを言うなら元希もだろ。おれがいてもいなくても元希は元希」


 朔はいつもどおりの顔で笑って、だから元希もいつもどおりの笑顔を返す。

 二人だけの部屋に照れ臭い空気が流れる。元希はたまらなくなり、わざとらしく時計を見て、


「うおっ、こんな時間! 晩飯食いそびれるじゃん」

 と言って立ち上がった。


「じゃまた明日な」

「ん。また詳しいことが決まったら話すよ」


 朔也がいてもいなくても元希は元希。

 朔也はこう言ったが、本当かどうかわからない。

 なにせ小中高と同じ学校に通って、毎日のように顔を合わせてきたから、朔也が自分の生活からいなくなるのは初めてだ。去年の夏に朔也がドイツに行ったのは一か月ほどのことで、あっという間だった。夏休みを利用しての留学だったから、元希が朔也に宿題を手伝ってもらうことができず苦労した。変わったことといえばそのくらいだろうか。

 朔也は確かに音楽の才能があって、将来はその道に進むのだろうと元希は考えていた。それでも、こんなにも早く、大きなスケールだとは思っていなくて、急に朔也が遠くに感じられる。と同時に、将来のことを真剣に考えずに日々を過ごしている自分とは違って、目標に向かって前に進む朔也が羨ましくもある。


 あと一年、一緒に高校に通って一緒に卒業して、その先は一緒じゃなくなったとしても、たまに会ったときには今までのように喋って、なんとなくそんな未来に続くと思っていた。











 七月の最終週に出発する。

 元希のスマートフォンがその短いメッセージを受け取ったのは七月の初めだった。

 続けて詳しい日時と、近々学校で公表する旨のメッセージを受信する。元希は了解のスタンプを送信した。こういうときにスタンプは重宝する。自分の感情を上手に表しているようで、複雑な心中を上手く隠すことができる。


 一方元希はというと、部活を引退したからといって手持ち無沙汰になるわけでもなく、高校三年生はまた新たなスタートに向かわなければならない。

 元希は大学受験を控えているにも関わらず、成績は一向に振るわない。そもそも志望校が定まらない。その迷いは先日行われた期末考査の結果に如実に表れており、進路面談の空気は大変重いものとなった。

 長い長い話し合いの末、とにかく今は勉強に励むと同時に具体的な志望校についての調査を怠らないこと、という妥当なところに落ち着いた。そんな初めからわかりきった答えに深長な面持ちで頷く。将来について考えれば考えるほど、自分自身がわからなくなる。


 朔は、将来のことも自分のこともわかりやすそうだな。ピアニストになることはもう決まっているようなものだ。

 そんなことを考えてしまう自分を嫌悪する。朔也は朔也の悩みがあるだろうに。他人と自分を比べて、相手も自分も決めつけるのは良くない。そうわかっているのに、朔也なら、と考えることをやめられない。また自己嫌悪に陥る。


「元希」


 進路指導室から出るとすぐに声をかけられる。なんて絶妙なタイミング。今はあまり見たくない顔である。


「朔」

「面談? お疲れ」

「まあな」


 朔也も帰りがけだった様子で、そのまま二人で下校する流れになる。

 昇降口にはもう誰もいなくて、グラウンドからの部活動の様々な掛け声が混ざって元希の耳に届く。しんどい練習が嫌で仕方なかったのに、引退した今はあの声のなかに戻ることはないことに一抹の寂しさを感じる。

 朔也は中高と部活に入っていなかった。もちろん、音楽に専念するために。あの練習の苦しさと、部活終わりでへとへとなのに仲間とバカ騒ぎする楽しさと、引退したあとの寂しさを、朔也は知らない。しかし、朔也は元希が想像できないほどの努力を一人で重ねてきた。スポーツも勉強も遊びも色んなことを我慢して、すべてを音楽に費やしてきた。


「元希は進路どうすんの?」


 唐突に聞かれて、元希は戸惑う。大した夢も目標もなく、十分な学力も、これといった才もない。才能を認められ、夢に向かって努力する朔也とは大違いだ。


「え、あー、まあ考え中」

「考え中って、もう夏だよ? 部活も引退したんだろ?」


 そんなこと言われなくてもわかってるよ。

 そう言いそうになって、また自分が嫌になる。自分は何に対して苛立っているのだ? ただ心配してくれている朔也に悪気がないことなんてわかりきっているのに、上から目線で言われているように感じた。はっきりと向かう場所がわかっているやつに、夢や目標が見つからずに悩む元希の気持ちがわかるはずがない。


「なんか、最近ぼーっとしてない? しっかり考えなきゃ。大学はなんとなく入れるもんじゃないんだから」

「わかってるよ」


 自分でもわかる不機嫌な声。すぐに口を噤んだが、朔也には元希の苛立ちが十分伝わってしまっただろう。


「無理に焦らなくてもいいけど、もう目標を決める時期だろ」

「わかってるって言ってるじゃん」


 さらに口調がきつくなった。


「ていうかなんで朔に言われなきゃなんねぇの? お前になにがわかんの? 朔はいいじゃん、才能が認められて、将来が期待されて、なにも考えずに自分のやりたいことができて。みんながみんなそうじゃないってことぐらいわかんだろ」


 自分の言葉にはっとして顔を上げる。その動きで自分がひどく俯いていたことに気づいた。


「元希、ごめん、そんなつもりじゃ」


 困った顔の朔也を見て、急激に頭が冷えていく。なのに、言葉は止まらない。


「お前がそんなつもりじゃなくても、そういうふうに聞こえるんだよ。悪気がないのが、一番質が悪いことわかんねぇの?」


 言いがかりだ。質が悪いのは元希だ。わかっている。こんなの八つ当たり以外のなんでもない。


「ごめん」


 もう、朔也の目を見られない。朔也は悪くないから、謝ることなんて一つもない。

 冷静になりつつある気持ちとは裏腹に口から出る声は刺々しい。


「別に謝ってほしいわけじゃない」


 元希はそう吐き捨てて、朔也に背を向け昇降口を出た。


 なにも考えられない。考えたくない。こんなにもひどい八つ当たりをしたことは初めてで、こんなにも自分の言動が制御できないことが怖くて仕方がない。一度声に出した言葉を引っ込めることはできない。わかっているつもりでも、言葉を止めることはできなかった。


 ぽつり、と水滴が元希の頬を叩いた。

 それに元希が気づいた次の瞬間、ざあっと雨が降り出した。

 そういえば、今朝の天気予報で夕方から夜にかけて雨が降ると言っていた。だから傘を持ってきたはずだが、今元希の手元にはない。教室に忘れた。そんなに学校から離れたわけではないので取りに戻ることは可能だが、戻れば朔也と鉢合わせるのは目に見えている。学校に戻ることを断念し、そのまま歩き出す。

 傘を買おうとか、どこかで雨宿りをしようとか、なにかを考えることがひどく億劫で大雨のなかをただ歩いた。

 すれ違う人々はびしょ濡れの元希を見て怪訝そうな顔をするだけだった。











 翌朝、元希は熱を出した。

 あの大雨のなかをのこのこ歩いて帰ったのだから、当たり前と言えば当たり前だが、熱を出すのはずいぶん久しぶりだ。


「あんなずぶ濡れになって帰ってきたら、そりゃ風邪もひくでしょうよ。ま、テストも終わったんだし、誰かにうつしたらまずいから今日は休んだら」


 呆れ顔の母になにも言い返せず、言う通りに学校に欠席の連絡をした。

 母がパートタイムの仕事に行くと、元希は家に一人残される。熱のせいで頭はぼーっとしているが、動けないほどでもない。スマホを見ると同級生の数人からメッセージが届いていた。欠席を知り心配する言葉もあったが、大したことはないと返信する。朔也からのメッセージはない。トーク画面は数日前のログを表示している。

 家で一人、することがないから、昨日の朔也とのことばかり考える。体調はさほど悪くないのに、昨日のことを思い出すと気分は最悪だ。ぐちゃぐちゃの感情をまだ持て余している。

 何も考えたくなくて布団に潜るとだんだん眠気が襲ってきた。


 元希が目を覚ましたのは夕方で、だいぶ頭がすっきりとしていて熱も下がっていた。

 せっかく学校を休んだのだから一日中寝ていたのはもったいないな。そんなことを考えながら起き上がり、リビングに向かうと帰宅した母と大学生の姉がいた。


「あ、起きたの? 体調は?」

「だいぶ良くなった。熱も下がったし」

「そう。ずっと寝てたの?」

「ん」


 リビングと繋がっているキッチンに入り、コップに水を注ぐ。それを一気に飲み干し、濡れた口元をTシャツの袖で拭った。


「あ、そうだ。さっき朔也くん来たよ」


 突然の姉の言葉に驚く。朔也が来た。何をしに?


「あんたら喧嘩でもしたの? そんなに体調悪そうじゃないから呼んでこようかって聞いたら断られたよ。元希も昨日は機嫌悪かったし。あ、そんでこれ渡しといてだってさ。ドイツに行く前の最後の演奏なんだって」


 差し出されたのは一枚のカードだった。来週末に朔也のピアノ教室で行われる定期演奏会の招待状。


「なんで?」


 朔也が、おれを招待? 昨日あんなにひどいことを言ったのに。

 動揺する元希に構わず、姉は喋り続けている。


「そういえば、ずっと前も朔也くんと喧嘩したときに元希熱出してなかったっけ。ねえお母さん覚えてない?」

「覚えてるわよ。元希が熱を出すくらい体調を崩したのなんて数えるほどしかないもの。あのときも朔也くんはお見舞いに来たけど元希には会っていかなかったのよね」

「そうそう。すっごく心配そうな顔してたのに会いませんって。大した喧嘩じゃないだろうにね」


 姉と母が笑い合う。元希は気恥ずかしい。

 そうだっただろうか。よく覚えていないのが不思議だ。なぜなら元希が熱を出すことも、元希と朔也が喧嘩をすることも滅多にないからだ。

 思わず問うた。


「いつの話?」

「あー、いつだったかな。まだ小学校の低学年くらいじゃない?」

「二年生だったかな。元希は覚えてないの?」

「全然」

「じゃあ、なんで喧嘩したのかもわかんないのかぁ」

「ふーん、あんたらが喧嘩なんて珍しいのにね。で? 今回はなんの喧嘩?」


 お節介な姉がにやりと笑う。

 げ。めんどくさい方向に話が転がりそうだ。早々に退散したほうが良いだろう。

 コップを軽く洗ってから、リビングを出ようとする。


「喧嘩もいいけど、朔也くんが日本にいるのはあとちょっとの間なんだから、早く仲直りしなさいね」

「わかってるよ。そんなんじゃねぇし」


 母は呆れたような心配しているような顔で、姉はなぜかずっとにやにやしている。二人の視線を感じながらリビングを出て、自室に戻る。


 机に教科書と参考書を広げて勉強を始めた。ほとんど一日中寝ていたからか、妙に頭が冴えている。

 ふと、さっき姉から受け取った招待状を取り出して眺める。

 行くか、行かないか。

 正直、朔也に顔を合わせるのは気まずい。しかし、謝らなければならない。まるで、朔也がピアニストを目指すことで楽をしているような言い方をしたのだ。元希の言葉は朔也を多少なりとも傷つけただろう。


「あーあ、今日休まなきゃよかった……」


 時間が経てば経つほど、謝りにくくなるのは目に見えている。今日学校を欠席したのは元希の逃げだ。朔也には拒絶として伝わってしまったかもしれない。

 もし、朔也が元希を嫌いになっていたら? このまま朔也と喧嘩別れになるのは嫌だという元希の気持ちがひどく身勝手なものに思えてくる。

 いやいや、わざわざ招待状を渡すくらいなのだから朔也もおれと仲直りしたいのかも、という考えは元希の自惚れだろうか。











 元希は、朔也のピアノ教室の定期演奏会に来ていた。

 姉伝いにもらった朔也からの招待状。悩んだ末、元希は行かないという決断をする勇気もなく気持ちの整理もつかないまま来てしまった。演奏だけ聴いて帰るつもりだが、あわよくば仲直りができたらいいな、なんて。

 小さい頃は季節ごとに催されるこの定期演奏会によく訪れていた。母に連れられて、というのもあるが、元希は朔也がピアノを弾いているところを見るのが好きだったし、朔也も元希が見に来てくれることを心から喜んでくれていた。が、小学校高学年になると、元希はじっと座ってピアノの演奏を聴くよりも、友達をサッカーや草野球をするほうが楽しいと思うようになり、朔也も毎度のように演奏を見られることを気恥ずかしく感じて元希を招待することは少なくなった。中学、高校に進学すると、元希は部活で忙しくなり、ますますこの演奏会からは足が遠のいていた。


「元希くん?」


 小さなホールのロビーで会場を待っていると、誰かに声をかけられた。元希がこんなところで声をかけられる覚えはない。スマホに落としていた視線を上げる。


「元希くんでしょ? あ、覚えてない? 私、昔朔也くんのレッスンを見てた町田です」


 気さくに話しかけてくる女性は、確かに以前朔也のピアノ教室の先生だった。元希もよく覚えている。小さい頃、朔也と早く遊びたくてレッスンに乱入するという迷惑極まりない行為をするガキだった元希を叱ることなく、おやつを出してくれたり、朔也と一緒に少しピアノを触らせてくれたり、幼い元希としてはなかなか良い先生という印象だった。いつだったか、朔也が通うピアノ教室を辞め、別の教室に移ったはずだった。


「お久しぶりです」

「ほんと、久しぶりね。どこかで見たことあるなーって思ったんだけど、すっごくおっきくなってて間近で見るまで誰かわからなかった」


 そう言って快活に笑うところは昔の印象のままだ。

 自分がレッスンを担当していた生徒ならともかく、その友人の顔まで覚えているとは。普段から多くの生徒を相手にしていると自然とそうなるのだろうか。

 高校生の元希から見た彼女は、一見そんなに老けているようではないが、よく見るそれ相応の年を重ねているようにも思える。老けたという印象よりも、あの頃はとても若かったのだと実感した。


「先生はどうしてここに?」


 別に元希の先生だったわけではないが、他の呼び方が見つからないので先生と呼んでおく。


「それはもちろん、朔也くんの留学前の最後の演奏を聴きに来たに決まってるじゃない。ちゃんと招待状ももらったのよ」


 じゃーんと言いながら元希がもらったものと同じ招待状を掲げる。以前の先生にもわざわざ招待状を寄越すなんて、朔也はマメだな。


「ああ、やっぱりそうですよね」

「元希くんもでしょう?」

「まあ、そうっすね。こういうところに来て朔也の演奏を聴くのは久しぶりなんすけど」

「あら、そうなの? じゃあ朔也くんの演奏にびっくりするわね、きっと」

「え?」

「私は最近のコンクールにも行ってるからね。朔也くんすごいのよ」


 先生はうふふ、と笑う。元希が首を傾げていると、開場のアナウンスがホールに響いて、そのまま別れてしまった。

 指定の席につく。やや下手のほうではあるが舞台全体がよく見える。

 会場のアナウンスもざわめきも座席の感触も懐かしい。

 客席が暗くなり、舞台の照明がいっそう明るくなった。もうすぐ始まる。その気配に胸が高鳴った。





「元希くん! どうだった?」


 さっきと同じ状況で、さっきよりも興奮した声で話しかけられる。


「すごかったです。朔、あんなにすごくなってたんですね」

「でしょ!」


 演奏会が終わり、ロビーは観客でごった返している。元希と町田先生は自然と端に寄った。

 朔也の演奏は一言で言うとすごかった。人を感動させる音楽というものに初めて出会った。元希は何もかも忘れて、ただピアニストとしての朔也の演奏に圧倒され、魅了された。


「誇り高いなあ、あんなすごい演奏をする子を教えていたなんて」

「そうですね」


 二人で余韻に浸っているところに、声をかけられる。


「町田先生? と元希?」

「朔也くん! すごかったよ、感動した!」

「ありがとうございます」


 しばらく二人は話していると、町田先生が他の人に声をかけられた。


「じゃあ、私はこれで。朔也くんも元希くんも今日はありがとうね」

「こちらこそ」


 町田先生が去ると、二人きりになる。今、言ってしまうしかない。


「朔、こないだはごめん」


 突然、元希が頭を下げると、朔也は驚いた様子で、


「元希? そんな謝るなよ」

「ひどいこと言ったから、おれが謝りたいんだ。ほんと、ごめん」


 今日の演奏を聴いてわかった。朔也は以前よりもずっと上達していた。元希は決して難しいことがわかるわけではない。それでも朔也の並大抵ではない努力が感じられたのだ。なにが羨ましい? なにが妬ましい? 自分は大した努力もしていないくせになにを偉そうに『朔になにがわかる』だ。なにもわかっていなかったのは元希のほうだ。


「いいよ、元希。今日聞きに来てくれただけで十分。元希が悩んでみるみたいだったから励ましたかっただけなんだけど、逆に機嫌を損ねちゃって申し訳ない」

「朔也は悪くない」

「おれ励ますの苦手だから、だったらピアノで伝えようって思って招待したんだけど、伝わった?」


 そんなの言うまでもない。あんなに心が震えたんだ。


「うん。ありがとう、朔」

「なら良かった」


 自信ありげに笑う朔也の顔を見て、元希もやっと笑顔になれた。


「あのさ、あとでうちに来れる?」

「別にいいけど、なに?」

「んー、ちょっと」


 自分から誘っておいて朔也は歯切れが悪い。


「あ、おれもう行かなきゃ。じゃ、あとでな」










 その日の夕方、朔也がピアノの練習をするために造られた防音室に二人はいた。元希が朔也の家に遊びに来ても、たいていは朔也の部屋で喋ったりゲームをしたりすることが多い。朔也がピアノの練習をしているところを元希が見ることはそうない。朔也がより多くの、より大きなコンクールで賞を取るにつれ、元希から朔也のピアノが聴きたいとは簡単に言えなくなった。

 朔也が慣れた様子でピアノの前に座る。


「たまにはおれの演奏を聴いてよ」

「おう。今日聴いたけどな」


 やっと元希もピアノに近づいた。

 朔也が鍵盤に指を置く。

 その自然な動きは確かに今日の演奏会で客席から見たものと同じで、あのとき観客たちの心を一瞬でつかんだピアニストと、目の前の幼馴染が同一人物なのだということを否応なく意識させられた。


 その指が音を奏でる。

 ふと、あることに気づいた。


「……朔の、曲?」


 演奏が終わると、少しの逡巡ののち、元希が口を開いた。


「やっぱり、わかった?」

「うん」


 なんとなく、わかる。聞いたことがない曲だからではない。この曲は朔也が作った音楽だ。


「どう、かな。人に聞いてもらうのは初めてだから、おれ自身もよくわからなくて」


 朔也が不安そうな表情で聞くから、元希は正直な気持ちを答えた。


「おれは好きだよ。っていうか初公開⁉」

「うん、元希が正真正銘、最初の観客」


 聞いている最中はそんな大事な役割を果たしていると思わず、軽い気持ちで聞いてしまった。とにかくなにか言わなければ。


「えっと、うまく言えないけど、朔の大事なところ全部が詰まってるって感じた」

「おれの全部、か」

「専門的なことはわかんないから、ざっくりしたことしか言えなくてごめん」

「いや、素直な感想がいちばん嬉しいし、いちばん堪える」

「そうなのか? 昼間の演奏会では難しそうな講評があったから、おれみたいな素人が口出しできることじゃないと思ったんだけど」

「そんなことないって。音楽を聴くのは、プロも素人も関係ないだろ。元希にこの曲が好きって言ってもらえてよかった」


 さっきよりも数段明るい顔の朔也は笑う。そして、譜面に目を落とすと、真剣な表情でなにかを考え始めた。

 その横顔に元希は目を細める。

 この部屋は防音だから、外の音も聞こえない。かさりと朔也が楽譜を繰る音だけが響いて、かえって部屋の静かさが際立つ。黙っている時間が気にならないのは、朔也といるときだけだ。他の友達といるときは喋っていないと一緒にいる意味がないのではないかと考えてしまって落ち着かないのだ。


 しばらくしたのち、朔也が顔を上げた。覚悟を決めた面持ちに見えたのは元希の気のせいだろうか。


「おれさ、ピアニストになるのが夢なんだ」


 おだやかな口調だった。


「知ってる」


 ずっと前から。その一言は余計に思えて、口に出さない。


「それはこれからもずっと変わらない。おれ、ピアノを弾くことはもちろんだけど、なにより音楽が好きなんだ」

「うん」

「だから、音楽を作る人間になりたい」


 覚悟と希望と、少しの不安が入り混じった声。大きな決意が元希の心になだれ込んでくる。

 朔也の音楽は、いつだって聞く者を包み込むように優しくて、ときに力強く皆を翻弄する。

 穏やかそうに見えて、強い自分の芯をしっかり持っている朔也そのものみたいだ。


「おれは、この曲が好きだよ。一番に聞けて誇りに思うくらい」

「元希に一番に聞いてほしかったんだ。元希は一番におれを応援してくれているから」

「一番かどうかはわかんないけど、もちろん応援してるよ」

「一番だ」

「なんでそこ食い下がるんだよ」


 なんだか恥ずかしくて、混ぜっ返そうとする。朔也はいたって真剣な顔を崩さない。


「去年留学したとき、国内のコンクールで優勝して、おれはそこそこピアノ上手いんだと思ってた。けど、むこうにはもっと上手いやつがごろごろいて、技術も表現も到底敵わないんじゃないかってくらい。挫折っていうほどでもないけど、それに加えて言葉は通じないし、文化も違うし、一人だし、なんか全部がおれの心を折りに来てるような気がして怖かった。おれってこんなに弱かったんだって突き付けられたんだ。たった一か月の間に何回も日本に帰りたいって思って、実際に帰ってきたときはめっちゃ安心したし」


 朔也は少し恥ずかしそうに笑った。

 初めて聞く話だった。そんな不安を抱えていたなんて知らなかった。だって帰国後の朔也は普段通りだったじゃないか。


「ピアノやめたいって結構本気で思った。今までも『やめたら』って考えることはあったけど、『やめたい』って考えたのは初めてだったな。でもさ、出発前に元希が『帰ったらすげーパワーアップした朔のピアノ聞かせろよな!』なんて笑顔で言っておれも約束しちゃったから帰ろうにも帰れないし」


 確かに言った。深く考えて言ったわけではなく、ただ純粋に留学で成長するだろう朔也の演奏が楽しみだったのだ。


「おれのせいかよ」


 と茶化すと、朔也も笑った。


「元希のせいで、元希のおかげ、かな。こんなにすげえピアニストがいっぱいいるんだったら下手くそな自分はいらないじゃんって思ったときに元希の言葉を思い出したよ。誰か一人でも自分の音楽を聴きたいと思ってくれる人がいるならそれだけでがんばれた」


 朔也がピアノに触れた。何を話すか悩んでいるようでもなくて、ただ一呼吸を置いただけのように見えた。


「元希がおれを応援してくれることを当たり前に思ってた自分が恥ずかしくてさ。そう思えば元希はいつもおれに勇気をくれたんだなって。小さい頃から、おれのピアノをすごいって言ってくれて、人見知りだったおれをみんなの輪に入れてくれて、いっつもがんばれ、朔ならできるって言ってくれる」


 全部、元希からしたら何気ないことばかりで、当たり前のことばかりだった。だから朔也も当たり前に思ってもいいのに、律儀なやつだ。


「元希がいたから、おれは自信をもつことができたんだ。だから、おれも誰かに勇気を与えられる人間になりたくて、おれにできることはなんだろうって考えたときに音楽しかなくてさ。だったら音楽でやってやろうって決めた。そんで自分の伝えたいことを伝えるにはやっぱり自分の曲が一番いいだろ?」


 元希がいたから。そんなふうに言われるのは初めてで、嬉しいような恥ずかしいような。胸のあたりがくすぐったい。


「ずっと応援するよ。幼馴染として、朔也の音楽のファンとして、おれにできるのはそのくらいしかないから」

「それが一番すごいんだって」


 朔也は高らかに笑った。その応援にどんだけ支えられるかわかってないでしょ、とちょっと拗ねている。


「だってこの曲が好きだもん。あとで音源くれよな、朔也の形見として持っておかないと」

「おれドイツ行くだけで、死ぬわけじゃないんだけど」

「遠すぎて同じようなもんだ」

「ひど」


 二人で顔を見合わせて笑う。


「もっと良い音楽を作る。最高のピアニストになる。どっちも叶えたい夢なんだ。そのために留学する。まわりの上手さに打ちひしがれてる場合じゃないんだ」


 そう言う朔也は悔しいけどかっこよくて、おれも負けられないという気持ちがなぜか湧いてきた。









「そういえばさ、小二ぐらいのときに喧嘩したの、覚えてる?」


 空港のロビーで、元希は朔也に聞いてみた。

 あと数時間で朔也は日本を発つ。


「喧嘩? うーん。どんなだっけ?」

「いや、おれも母親と姉貴に言われても思い出せなくて」


 あれから考えたが、まったく思い当たる節がない。朔也なら覚えているかもしれないと思ったのだが。


「あ、あれじゃない? きのこの山派かたけのこの里派かで揉めた」

「そんなことで? うそだろ?」

「うん」

「なんだよ、それ」


 結局、喧嘩の原因はわからず仕舞いなのか。もともと喧嘩なんてしたのか。


「じゃあ、次に会うときの宿題ってことで」

「朔は他にすることあんだろ」

「元希もな、ちゃんと進学しろよー」

「わかってる」


 今度は、素直に頷く。


「それと、これ」


 朔也から差し出されたのはMP3プレイヤーだった。


「なに?」

「今までおれが作った曲。聞いて感想教えて」

「おれでいいの?」

「いいって、元希はおれの音楽のファンなんだろ」

「じゃあ」


 そう言って受けとる。少し中を確認すると、前に聞いた一曲だけでなく他にも数曲も入っていて、元希は驚いた。


「去年の夏からちまちま作ってたんだ。元希に聞かせた曲は、一番自信あるやつ。あ、これも全部初公開」


 本当にそんな大事な初めてがおれなんかでいいのか。問いただしたいが、朔也からの信頼の証のような気がして、正直嬉しいから何も言わないでおく。


 フライトの時間が迫る。


「朔、不安?」


 こんなことを聞くのは野暮かもしれない。そう思いつつ、確かめたくなる。

 夢を叶えるために決意したこととはいえ、一度挫折を味わった場所にもう一度向かうことには大きな勇気が必要だろう。元希には到底無理だ。


「……不安、かな」


 沈黙ののち、朔也は言った。意外なような気もするし、やっぱりという気もする。


「おれも不安!」


 元希は高らかに宣言する。朔也は虚を突かれたという顔だ。


「おれも朔がいなくなるの不安。だって朔はいつもいるもん」

「なんだそれ」

「空は繋がってるっていうじゃん。くさいけどさ、本当だと思うんだよね」


 そう言いながら元希は窓の近くへと駆け寄った。朔也もついてくる。

 旅立ちの日にふさわしい晴天だ。なにも遮るものがない飛行場の空は、いつも見ている空よりも大きくて広い。


「だから大丈夫だよ。おれは朔とおんなじ世界にいる。おんなじ世界で朔を応援してる。おれはこれがあるから大丈夫だし、なにも怖いことなんかない!」


 これ、と言いながらMP3プレイヤーを差し出す。朔也がいなくても朔也の音楽をいつでも聞ける。


「わけわかんないけど、元希が言うなら大丈夫に思えてくるのが不思議だよな」


 朔也は少し笑いながら、窓越しの空を見上げる。


「ほんとに繋がってるのかな」

「じゃあ、見てきたらいいじゃん。飛行機に乗ってて空がどっかで切れてたら、おれが間違ってたってこと」

「めちゃくちゃ論」

「確かめて来いよ」


 二人とも言っていることがよくわからなくなってくる。それでも気持ちは伝わればいいと元希は思った。


「いつもおれの心の真ん中に元希をおくよ。しんどくなったとき、がんばれって言葉を思い出して踏ん張る」

「おう、そうしろ」

「じゃ行ってくる」


 離れていく朔也の背中にかける。


「応援してるぞ!」

「期待以上になって帰ってくるから期待しとけ!」

「覚悟しとけ、じゃないの」

「そう! それ!」


 元希は吹き出した。朔也の肩が揺れていて、朔也も笑ってることがわかった。







 その日の夜、元希のスマホが震えた。

 朔也から一枚の画像とメッセージ。


『空ちゃんと繋がってた! くそ眠い!』


 思わず笑みがこぼれた。

 きれいな青空の写真。今朝空港で見た空と同じくらいの晴天だ。

 元希はベランダに出る。当たり前だが眼前の空は黒くて、ひっそりと月が光っている。朔也から送られてきた写真を表示したスマホを空に掲げてみる。暗闇に青空が浮かんでいるみたいで、とても変だ。それが可笑しくて、元希も写真を撮って朔也に送ってやろうと思いついたが、スマホを一人でスマホのカメラで撮ることはできないとすぐに気づく。がっかりした自分がこれまた可笑しい。


『な? 言ったろ?』


 そう打ち込んで送信ボタンを押す。スマホを部屋着のポケットにしまいこんで、代わりに朔也にもらったMP3プレイヤーを取り出した。

 朔也が初めに聞かせてくれた曲を選んで、再生する。聞いていると、まるでここに朔也がいるような気がしてくる。もちろん朔也はいない。でも、朔也の音楽がここにある。自然とピアノを弾く朔也の姿を思い出す。言葉なんかなくたって、元希は励まされる。将来に対する漠然とした不安も恐怖もかき消して、明るい希望を教えてくれる。元希よりも一歩先を進む朔也だからこそ表現できること。

 朔也はきっとすごい音楽家になる。近い将来、朔也の音楽は皆のもとに届いて、誰かを励まし、誰かに寄り添い、どこかで誰かの心を震わせる。元希はその最初の一人だ。なんて誇らしい。


 離れていても、会えなくても、朔也の音楽で朔也を感じることができる。どんなときも朔也を応援している。

 ただそれだけで、二人は前へ進んでいける。



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君に捧ぐ 外瀬 @gyozasuki_

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