第22話 厭世家(前編)

 汚い泥みたいな雲を背景に、細長い影が浮かぶ。

 私が見上げる先では、羽の生えた蛇が空中を飛んでいた。

 いかにも毒がありそうな色彩の、まだら模様の蛇だ。コウモリから引きちぎって無理矢理くっつけたような羽からは、奇妙な不自然さを感じる。まさに異常性の塊だった。

 それは宙を軽やかに旋回し、獲物の隙を窺っていた。狙われるのは当然、私である。


 分かっているのでしっかりと見る。撹乱にも惑わされず、目を離さない。

 やがて隙を狙うのは諦めたのか、蛇が突然急降下。瞳をギラリと獰猛に輝かせ、牙を見せて迫る。


「…………」


 放たれた矢のような蛇に、私は落ち着いて冷静に対処する。

 まずはよく狙い、右手の短剣を投げた。

 途端に魔物は軌道を修正。速度をさほど落とさずに投げナイフを避けてしまう。

 そして、私の腕に噛みついた。

 そのまま噛みついていたなら左手の短剣を突き刺してやろうと思っていたけど、蛇はもうそこにいなかった。牙を刺すだけでなく、肉を抉って飛んでいったから。

 痛みが駆け抜け、この体独特の傷跡ができる。右手は上手く動かせなくなった。


 まあ、ただ――

 その程度なら、今更どうという事はない。


 再び上空へ飛び上がる為だろうか、魔物の飛ぶスピードは緩んでいる。その機会を逃さず、短剣を振り払った。小さな挙動の、速さを優先した攻撃。

 細い胴体は外してしまったけど、面積の広い羽をなんとか切り裂く。

 その影響でふらつき、上手く飛べなくなった魔物。

 もう脅威ではない。

 短剣の柄で地面に叩き落とし、それから頭部へと容赦なく短剣を突き立てた。

 硬い物を砕く音と感触。覚えてしまった嫌な手応えから、勝利を知った。

 倒した魔物から目を外し、私は顔を上げる。


 視界に広がるのは魔界の景色だ。

 暗く、光の差さない場所。荒廃した空と大地には不快なものだらけ。警戒させる色も空気の匂いも肌に当たる感触も奇怪な鳴き声も、ここにある全てが心を蝕んで狂わせる。

 絶望的なこの景色は世界の未来そのものだ。




 あの日以来起こるようになった現象、エンカウント。

 魔界で魔物と戦い、勝てなければ死ぬ。人類はこんな、単純だけど意味の分からないルールを強制された。

 おかげで一時期世界は混乱し、人類滅亡の予測まで立てられた。

 だけど今は違う。エンカウントへの様々な対策がされ、人々は順応し、変化はあっても以前通りの生活に戻りつつある。


 それが、私には現実逃避にしか思えない。


 異変の当初からすれば、最近は確かに被害者は減っている。

 それが何の保証になるというか。

 今のところは戦えているけど、それは危険なギャンブルに辛うじて勝てているだけ。いつかは全員負けて死んでしまうだろう。それが決められた未来だ。

 今の世界は辛く苦しい事ばかりで楽しい事なんて存在しない。浅い人生経験しかない女子高生の私にだって分かる道理。

 未来には絶望だけが待っている。


 とはいえ、絶望は恐れるべきものじゃない。

 単に「希望が無い」という、ただそれだけの話なのだから。淡々と、夢を見ずに生きていればいい。

 明るく生きようと言う人間は、世間というものを知らないか、自分に言い聞かせているだけか、だ。

 この世界に希望は無い。

 目に見えなくても空気がそこにあるように、「1+1=」の答えが「2」であるように、これは疑いようのない純然たる事実としてそこにある。


 だから、

 希望が無いからといって、進んで死のうと思う理由にはならない。

 それは生きたいからじゃなくて、死にたくないから。死にたくないのも、特に理由はなかった。あるとすれば、それは生物としての生存本能みたいなもの。

 要するに意味もなく生きて、消極的に死を待っているだけだ。こんなのは終わりが来るまでの暇潰しに過ぎない。


 人生は、なんてつまらないものだろう。




「おい、殺し屋だぜ」

「やっぱ今日もこえーな」

「おい、止めとけ。聞こえるぞ」


 憂鬱な雨音に私への陰口が混ざる。

 私が通う高校の廊下。放課後部活へ行く為にそこを歩いていると、ヒソヒソ話が聞こえてきた。

 なんとなく視線を向けてみれば、彼らは一目散に去っていく。比較的よくある出来事の一つだった。


 私に「殺し屋」というあだ名が付けられている事や、他にも身に覚えのない事をしているという噂は知っている。

 どうやらエンカウントした時の戦い方から広まったらしい。淡々と作業するように魔物を倒すから。

 私は人生ノルマをこなしているだけなのに、どうも他人からは異常に写るようだ。


 だからといって訂正しようとも、自分を変えようとも思わない。

 全てはどうでもいい事だ。

 どうせ、人に好かれたところで無意味なのだから。


 ぶしつけな視線を無視しながら進み、私は目的の美術室に入った。所属している美術部の活動の為にだ。

 この学校では必ず部活には入らないといけない決まりだった。部活なんて無駄だと思うけど、駄々をこねて面倒な事態にはしたくはなかった。

 数ある部の中で美術部を選んだ理由は、絵が好きだからじゃない。単純に一番楽そうだったからだ。

 無駄に疲れる運動部は論外だし、合唱や吹奏楽も同様。どうせ無駄なのだから疲れない方がいいに決まってる。

 正直、学校という制度自体にも無駄が多すぎると思う。未来の無い世界で教育なんて、何の意味があるのか。


 この美術部は消去法で選んだとはいえ、なかなか良い選択だったと思う。

 この学校の美術部はかなり適当だった。顧問の先生は基本、自分の作品を製作しているので部活に顔を出さない。部員もそれぞれ好き勝手にやっている。

 中学では美術部ではなかったので私はほぼ素人なのだが、指導は最初に軽くあっただけ。それ以降は放置されていた。今は練習がてらスケッチブックに水彩絵の具で描いている。

 どうせ適当な暇潰しなので、口うるさく言われるよりはこれでよかった。


 私は今日も、無駄に絵を描いている。


「ねえねえ、マネーちゃん。なーんでそんなもん描いてんの?」


 窓の側の机に座って描きかけの絵の続きを描いていると、変なあだ名で呼ばれた。

 私の絵を覗きこみながら軽々しい口調で尋ねてきたのは、この美術部の部長だった。

 三つ編みお下げで眼鏡をかけた、三年生の女子だ。そんな大人しそうな外見なのに、その割りにノリが軽い。気まぐれに付き合わされる部員は可哀想だと常々思っていたし、今も面倒だと思う。


 だから私は絵に集中したまま、ぞんざいに答える。


「ただの風景画ですよ」

「いやただの、て。これ魔界じゃあん」


 下書きに水彩絵の具で色を塗っている私の絵は、暗い色ばかりの絵だった。

 部長の指摘通り、確かに魔界のよう。描いた私自身にもそう見える。

 だけど違う。私はわざわざあんな不愉快になるものを描いた訳じゃないのだ。


「いえ、私は窓から見えるグラウンドを描いてたつもりだったんですが」


 何日もかけて描いているので今日の風景とは違うけど、モチーフは現実の景色だった。気づけば自然と暗い色ばかり塗っていて、意図していないのに魔界のようになっていただけなのだ。


 私の答えを聞いた部長は呆れたような顔になっていた。


「それでこうなるって、マネーちゃんどんだけ病んでんの。もう、先輩心配。もっと青春しなってばー。ホラ、とりあえずこの部の男子とかどう? お試しでいいから付き合ってみれば? そうすれば私もおちょくって楽しめるんだからさー」

「興味ありません」


 部長の提案をバッサリと断った。先輩へのものとしては失礼な態度だろうが、そもそも相手の方も失礼だからこれで構わない。


「えー、興味持とうよー。……って、もしかして特殊な趣味をお持ちだった? なら言ってよー。大丈夫、私は偏見とかしないよ?」

「そんなのありませんから」


 部長の方も気にした風もなく失礼な話を続けてきたので、私は再び拒絶の意思を示す。

 それでも部長は下らない話で粘ってきたけど、しばらくすると唇を尖らせて不満そうながらも去っていった。どうやら諦めてくれたらしい。


 この人は多少鬱陶しいけど、それだけだ。ちょっかいはかけてきてもある程度で諦めるし、害は無い。

 他の部員も、大抵は避けるか自分の作品に集中しているか。どちらにせよ関わろうとはしてこない。

 面倒は少なく、無駄に疲れない。部活選択は正解だったと言えるだろう。


 そう、ここまでなら。


 だけど一つだけ、どうしても気に食わない問題があった。

 それは、たった一人の男の存在。


「すいません、日直で遅れました!」


 コイツだ。

 今入ってきて大声を出してきた、星川ほしかわ由空よしあきとかいう名前のお子様だ。


「ええい、声がデカい! もちっと落ち着かんか!」

「だって部長、今日はいい天気だから描きたくてウズウズしてるんですよ!」


 これだ。

 おちゃらけているだけの部長と違って、コイツのこういう所にはイライラさせられる。

 なにが「いい天気」なのか。

 今日は傘を差していても濡れてしまうような大雨が降っているというのに。

 流石の部長もそこは同意見だったようだ。


「ヘイヘイ、ソラ君よ。今日のこれは流石にいい天気と言えないんじゃあないかい?」

「え? だって視界一面の雫も、おっきな水溜まりの波紋も綺麗じゃないですか。雨雲も普通の雨の時とは違いますし。難しいですけどその分、描きがいのある題材ですよね!」


 今日の天気の良さについて語る星川の顔はキラキラと輝いていた。心底楽しそうであり、テンションが高い。

 冗談でもなんでもなく、本気で言っていると伝わってくるから反応に困る。星川は雨の日も絵を描く事も本気で好きなのだ。

 それどころかこの男にかかれば、雷が鳴っていようと嵐が吹き荒れていようと槍が降ってこようと「いい天気」になるに違いない。

 なんせ、「あの空」でさえも良いとほざくのだから。


「ふぅむ。やっぱりよく分からん。まあ、頑張りたまえよ」

「ハイ! ボク、準備したら手頃な所を探して外の風景を描いてきます!」


 部長との話が終わった星川は美術室に置いてある自分の道具を取りに急ぐ。

 その途中。私の描いている絵を見かけたコイツは、底抜けに明るい声をかけてきた。


「あ、天音あまねさん。この絵も大分完成してきたね。うん、あのドロドロした怖い雰囲気がよく出てる。ボク、こういうのも嫌いじゃないよ!」


 奴が口にしたのは、どこまでもポジティブでこの絵には似合わない感想。だけどこの、あらゆるものを肯定する純粋な笑顔で言われたら、どうにも反論がしにくかった。

 こんな暗くて不気味な絵、良い訳なんてないのに。


 この世に希望なんてない。

 人間は絶望に満ちた世界で、淡々と終わりを待つだけ。

 それは純然な事実であり常識だ。「1+1=」の答えが「2」であるのと同じくらいの真実だ。

 それはどう思い込もうとしても覆らない。


 だけど世の中には、「1+1=」に「田んぼの田」と答える、そんな子供だっているのだ。

 そんな人間とは、恐らく住んでいる世界が違うのだろう。変わってしまった、この世界においても。

 この男の脳内には、ありえないはずの希望もので満ち溢れていた。




 ああ、イライラする。

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