第12話 リスターター
「あの……その、ね。君も辛いだろうけれど、今日こそリハビリを……」
「うるさい! どうせそんな事やっても無駄なんだろ! もう放っといてくれよ!」
病院の、ある一室。白く清潔なその部屋に、似つかわしくない怒声が反響する。白衣の天使であるはずの看護師も困りきった顔をしていた。
その元凶――ベッドの上で駄々をこねる厄介者は、俺だ。
自分勝手で迷惑極まりない、醜悪な行動。そうと分かっていても、胸で暴れる衝動は抑えられなかった。
俺が受けた心の傷は、それほどに大きいのだった。
ある日突然降りかかった交通事故。それが俺の両足を動かないポンコツに変えたのだ。
この怪我は陸上の短距離選手だった俺にとって、夢が潰える事と同じだった。
全国大会に行ける実力はあった。その中で勝てる見込みもあった。更に大きな舞台へ挑戦する未来もあった。
なのに、全て台無しになってしまった。
深い喪失に打ちのめされ、絶望に沈む。脱け殻には理不尽に対する苛立ちだけが残っていた。
だから俺は多くのものを失った。
看護師だけでなく、お見舞いに来た家族や陸上仲間にさえ当たり散らしたからだ。最低な対応。そのせいで皆の態度はよそよそしく、腫れ物に触るようなものになっていった。
今や俺は孤独。絆は断ち切れてしまった。
ただ、それも辛いが、自業自得なのだから仕方ないと思う。むしろ優しくされたくなくて、無駄な希望を与えられたくなくて、望んでそうしていたのだ。
やっぱり足が動かない現実が、どうしようもなく辛い。
キツいリハビリをしても、また歩けるようになるかは分からないという話だ。いつまで経っても歩けなければ、やるだけ無意味。むしろ辛いだけマイナスですらある。
未来を閉ざされた俺には、陸上の代わりを見つける気力も湧かない。何もせず、ただ生きているだけの、下らない日々を消化していた。
そんなある日の夜だった。
ふざけた内容の癖して妙に現実感のある、ヘンテコな「夢」を見たのは。
「は? え? なんだここ?」
朝のまだ早い時間。ベッドで寝ていたはずの俺は、気づくと病室ではない場所にいた。
まず目に飛び込んできたのは、絵の具をグチャグチャに混ぜて失敗したような色。空も薄気味悪く、濁ったドブにすら見える。その辺に生える木も奇怪な形でおぞましい。
まるで人の心を壊す為にあるような、暗い空間だった。
次に見たのは、いつの間にか変わっていた俺自身の服装。
黒くて動きやすい和風の衣装に、腰には小刀がさしてある。いかにもな忍者らしい見た目になっていた。
そして前方には、見た事もない影。
大型バイクぐらいの大きさをしたデカいネズミがいた。毛を逆立て、狂暴そうな唸りをあげている。
あまりに非現実的な状況だが、五感が訴えてくる感覚は現実そのもの。
こんな意味不明の事態で思い出されるのは、今見えるものに似た景色とおかしな単語が登場した、あの「夢」。
まさかあの「夢」は本当の事だったのだろうか。
ありえない。でも、まさか。
真剣に悩み、考える。現実逃避の一種なのか、現実と向き合う為なのか、それも分からないまま頭を働かせる。
ここが魔界?
あのネズミが魔物?
それを倒す?
俺が?
この小刀で?
俺の体にあるのは、こんな動かない足なのに――
と、ここで俺は、最後に遅ればせながら重要な事実に気づく。
「あれ、立ててる!?」
俺は動かないはずの両足でしっかりと直立していたのだ。何の違和感もなく、ごく自然に立てていたので気づかなかった。
今現在進行している異変の中でも、一番の驚き。魔界や魔物の衝撃は軽く吹っ飛んでいった。
足首を曲げ、その場で足踏みをし、動作を確かめる。忍装束に包まれた足は、しっかり俺の意思通りに動いた。
「ああ……おぉ……おぉっしゃあぁっ!」
足を動かせる現実を実感すると、俺の感情が爆発した。
高らかな歓喜の雄叫びも、口元がにやけるのも抑えきれない。溢れる衝動にそのまま身を任せていた。
こうなったらやる事は一つ。
俺はネズミに背を向けると、全速力で走り出した。大胆過ぎる敵前逃亡。
恐らく魔物なのだろうネズミも追いかけてくるが、全く追いついてこれない。背後でみるみる内に小さくなっていき、やがて見えなくなった。
俺はノロマな生き物を置き去りにして、爽快な気分で駆けていく。
どうせ元の場所に戻っても、不貞腐れて寝ているだけ。
だったら戻れなくてもいい。
「夢」が本当だとしても、魔物は倒せなくていい。完全に無視してやる。
そんな事より、再び走れる事実をひたすらに謳歌したかった。
空間を突っ切って風を生み出し、大地を踏みしめて足跡を残す。目の前に人参をぶら下げられた馬のように足を動かし、幼い子供のように声をあげて笑う。
ただ純粋に、走るだけの行為が楽しかった。
久しぶりの全身が跳ねる感覚が気持ちいい。退屈な入院生活が、こんな単純な行動にも新鮮な感動をもたらしてくれた。
このまま、ずっと走っていたい。
そんな欲望が命じる通りに、俺はただただ真っ直ぐ走る。目的地もないのに、おかしな色の走りにくい大地を。
ひたすら走って。
がむしゃらに走って。
とにかく走って、走って走って走って――
「……違う」
不意に、立ち止まった。
違う。そうは言ったが、これは無意識の独り言だった。
だから、何がどう「違う」のかは自分でも分からない。
棒立ちになったまま、違和感の正体を探す。理解不能かつ危険な場所にも関わらず、無防備なまま考える。
わざわざそんな事をしたのは、それが大事なものだと直感したからだ。
時間が経ち、ネズミが大分追いついてきた。それでも俺は考える。さっきまで動かしていた足の代わりに、頭をフル回転させて考える。
そして魔物の影がハッキリと見えてきた頃、ようやく違和感の正体に気づいた俺はポツリと呟く。
「そうか。俺……」
気づいてしまった。
気づいてしまったのだ。
いくら走れても、ここにはあらゆるものが無いのだと。
照りつける日射しがない。爽やかな風がない。トラックの感触がない。汗の臭いがない。観客の姿も声援もない。
それになにより、
あんなノロマをぶっちぎったところで、嬉しくともなんともない。
思い出した。陸上を始めた理由を。
思い出してしまった。陸上を続け、固執していた理由を。
そして、あの快感をまた味わいたいと、そう思ってしまった。
ここで走るだけじゃ満足できない。元の場所でも同じだ。
強く強く。何が何でも。何を犠牲にしてでも、どんな形であっても、もう一度「あの場所」に立ちたい。
これが、ずっと燻っていた俺の本心だった。
だったら、俺のいるべき場所はここじゃない。本当に目指すべき場所は――。
俺は振り返ると前を――巨大ネズミを見据えた。
それから自分一人だけに向けて、俺自ら聞き慣れた合図を出す。
「位置に着いて」
両手を地面に着き、足を前後にずらしておく。
クラウチングスタートの姿勢。
ずっとやっていなかったのに、体が覚えていたのかスムーズに出来ていた。懐かしくて、思わず笑みが溢れてしまう。
「用意」
次の合図で腰を上げ、静止。
集中力を高め、スタートに備えた。久しぶりの感覚に全身が震える。
「ドン!」
そして最後の合図で、逃げるのを止めた俺はゴールへ向けて走っていったのだった。
「おお……よく頑張ったね!」
病院の、ある一室。リハビリ室というその部屋に、称賛の声が生まれた。
それを浴びるのは、ずっと足の動かなかった患者。
俺は二本の足で立っていた。危なげではあるが、偽りの体ではない現実の体で立てていた。
あの日逃げる事を止めて始めた、リハビリの成果だった。
「うん。この調子なら、補助も無しで歩けるようになる日もそう遠くないよ!」
「本当ですか! それなら俺、今まで以上に頑張ります!」
リハビリ担当の先生に、俺は明るく快活な声で答えた。声が大きすぎて咎められる程の元気な返答だった。
以前とは別人のような積極的な態度。というより、事故以前に戻ったのか。今では陸上仲間とも関係を修復しているし、皆も俺の挑戦を応援してくれている。
俺の中に再び着火した炎は、目前に広がる道の先を輝かしく照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます