人類の希望である少女は不気味な世界で幸せに暮らしている

綿木絹

人類の希望の少女のとある『一日』

「高祖母のダダ様、曽祖母のヂヂ様、おばあちゃん、おはようございます。」


 黒髪の少女は、家族の写真に両手を合わせた。

 少女の日課ではなく、ミライ家の習慣である。  

 少女の記憶には残っていないのだから、単に父と母の真似をしているだけ。

 でも、彼女にはそれが何故か、大切なことに思えた。


「お母さん、おはよー!今日の朝ごはん、なーに?」

「シズ、おはよう。先に顔を洗っていらっしゃい。」


 少女は毎朝のルーティーントークを終わらせて、洗面台へ向かう。

 母の名はセイラ。

 とても美人なので少女の自慢である。

 その秘訣はこの洗面台に並べられたスキンケアの小瓶達にあるのではないかと、少女は考えている。


「うーん、でも今日もあんまり減っていない。お母さんはちょびっと塗るだけでいい、みたいなことを言ってたけど。元がいいんだから、ちょっとくらい肌荒れしてもいいと思うんだけどな。」

 

 喉で留めておこうと思っていた言葉が、無意識に口に出ていた。

 さらには洗面台の鏡に、にやけた顔の母が反射している。


「その絶え間ない努力が必要なのよ。外は紫外線に排気ガスに——」


 母のご高説を賜りたいのは山々だが、今日こそは遅刻せずに学校に行きたい。

 完全放任主義も困りものである。

 先日、母の美容トークを聞いていたら、いつの間にかお昼だった。


「お母さん、お肌の大切さは分かったから、今日こそ早めに登校するから!お父さんはもう出勤しているんでしょ?」

「ええ。でも、今日は帰りが早くなるそうだから、一緒に夕ごはん食べられるって」


 何不自由ない暮らし、少女自身もそう思っている。

 欲しいものを突き詰めればキリがないけれど。

 ただ、父親という言葉に少女の顔が少しだけ引き攣った。


「……あ、そうなんだ。えと——」

「大丈夫よ。先に私から説明しておくから……ね。学校、いってらっしゃい」

「う、うん。いって……きます」


 生返事をして、彼女は家の戸を開けた。

 ご近所さんが暮らす住宅区を二ブロック歩けば、大きな歩道のある通学路へと出る。

 歩道沿いには底が見える程に澄んだ川があり、光をキラキラと反射している。


「ふぁぁぁ、今日も良い青空。良い天気!」


 モヤモヤした心を吹き飛ばすように、少女は大きく伸びをした。

 あの日、雨が降っていたから悪いのだ。

 そして偶々たまたま相合い傘していたところを目撃する父も悪い。

 その後、何度か家で父とすれ違ったが、そのことを聞かない父はやっぱり悪い。


 少女がうろんな眼差しを青空に向けていると、一人の少年が話しかけてきた。


「なんだ、シズ。寝不足か?」


 聞き覚えのある声、聞き心地の良い声、——そして、あの日、傘をさしてくれた少年。


「ふぁぁ。おはよ、マヒト。寝不足じゃないわよ。ちょっと気が重いだけ。」

「気が重い?……お前、調子悪いのか?今から病院行くか?俺もついていくし。」

「バカね。そういうんじゃないって。体の方は健康体そのものよ。」


 本当に心配した様子の少年は、はぁと息を吐いて半眼を彼女に向ける。


「心配して損した。ま、お前は風邪引きそうにないからな。」

「ちょっと、それはどういう意味よ、マヒト。私だって風邪くらい引いたことあるんだから……?えっと、えっと。」


 マヒトという鳶色とびいろの髪、鳶色の目の少年はこの近所に住んでいる彼女の幼馴染である。

 そして、友人以上、恋人……未満未満未満くらいの関係。


「ま、シズが元気なら俺も嬉しいよ。ほら、学校遅刻するぞ。遅刻癖のせいで、テストの点は熱でもあるんじゃないかってほど、真っ赤だったからな。」

「ちょっと!?結局、バカは風邪ひかないって意味と同じじゃん!」


 そんなどうでも良い会話をしながら、二人でのんびりと学校に向かう。

 二度と戻ってこない、青春の一日。


「あれ?この会話、前にもしたような……」

「してねぇよ。デジャビュだ。デジャビュ。もしくは正夢」

「デジャビュかぁ。それもそうね。マヒトと相合い傘はあの時が……、あぁ、また気分が重く……って、なんでもない!」


 少年が怪訝な顔をしていたので少女は頑張って取り繕った。

 そして、学校へと向かう。

 なんの変哲もない中学校に少女は通っている。

 というより、こんな田舎ではここしか学校がない。


「ねぇ、マヒト。中学卒業したらどうするの?」


 将来の夢を少女は持っていない。

 でも、この年齢の少年少女は皆、こんなものかもしれない。

 叶えられそうもない夢なら抱いているかもしれないが、現実的な話になると、まるで思いつかない。


 ——そして彼はこう答えた。


「思いつかねぇかな。強いて言うなら、人類平和のため?」

「何、それ。ヒーローにでもなるつもり?そういう夢の話をしているんじゃないんだけど。ほんと、男子って子供よねぇ」

「同じ年だ」

「そういう意味じゃないーって、マヒトもしかして傷ついた?……バカね、別におかしな——。マヒト、どうしたの?」


 少女は一瞬、少年が本当に傷ついたのかと思った。

 でも、彼は目を剥いて何かを見つめていた。

 ただ、彼の目を追ったとしても、そこには何も見当たらない。

 見当たらないことが不気味に思える。

 でも、少女はそれを笑い飛ばした。


「何もないじゃない。……っていうか、またお化け?」


 実は、彼は自称「見える人」である。

 同じようなことを何度も経験したし、最初の頃なんて少女は怖がっていたくらい。

 ただ、流石に同じようなことが5回も6回も、10回以上続けば慣れる。

 そして彼はいつも、


「あぁ、お化けが見えた気がしたが、気のせいだった」


 と言う。


 ただ、今回は別パターンを用意してきたのか、少年の口からは別の言葉が紡がれた。

 一点を見つめながら彼は言う。


「嘘……だろ。第5区画まで侵攻され……タ?」


 次のパターンは宇宙戦争ごっこかもしれない。

 でもこの国はこの世界はとても平和で、そんなことは起きっこない。

 それは小学校の社会の授業でも、中学から始まった歴史の授業でも教わったこと。


「おーい、マヒト。流石に幼馴染の私でも引くわよ。ってか侵攻って何?もしかして宇宙じ——」


 その瞬間、青空が突然夕方に変わった。

 けれども少年は目を剥いたまま動かない。

 ただ、少女の顔も少年の顔も赤い空に照らされて、赤色に染まる。

 そして少女のみが口を開く。


「あ!ゲリラ夕方だ。今朝の予報じゃ、そんなこと言ってなかったのに。」


 時々、夕方警報というものが出る。

 その時は休校になるので、外でしっかりと夕方を見たのは初めてかもしれない。


「シズ!夕方警報だ。急いで逃ゲ……、いや、帰宅するぞ。」


 呆然とする少女に少年は険しい顔の笑顔をくれた。

 けれど少女には意味が分からない。


 だが


 ボンッ!!ゴゴゴゴゴゴ…………


 どこかで耳をつんざく音がして、少女は風圧で吹き飛ばされた。

 ただ、吹き飛ばされたのに、痛みはない。

 そして地鳴りのような音がして、東にある少女の家と川向かいにある商業施設から煙が上がった。


「一体、何?事故……か、何か?」


 少女は未だに呆然としている。

 彼女が記憶している限り、こんなことは人生で初めてである。

 だから、彼女が今、何に乗っているのかさえ、考えつかない。

 ただ、起きようとした時に手に妙な感触がある。

 ねっとりとした暖かい液体。


「ひっ……」


 ただ、その乗り物はちゃんと動いてくれた。


「ダ、大丈夫。シズ、怪我はない?」

「マヒト、貴方こそ大丈夫!?って、すごい怪我じゃない!私を庇って……こんな……」


 先の爆発の衝撃波は彼女を襲っていた。

 だが、少年が爆発とほぼ同時に彼女を抱えて吹き飛ばされたことで、少女に怪我はなかった。

 その代わり、彼が壁に地面にと激突したため、あちこち擦り剥いている。

 それよりも甚大だったのが衝撃波そのものである。

 少年は少女の盾になるために、動かなかったのだ。

 そして少女よりも大きかったから、衝撃を全て受け切ることができた。


 ——それでも少年は冷静な声で言う。


「俺ハ……大丈夫。シズ、走れる?もうすぐ侵略者が来ル。急イデ逃ゲテ。」

「何言ってるの!マヒトを病院に連れていく方が先でしょ!私は全然————」


 だが……


「見つけた!」


 対岸からそんな声が聞こえた。

 拡声器を用いたと思われる独特の声色。

 そして少女は見てしまった。

 その声を合図に、二足歩行の何かが、気持ちの悪い何かが動き始めた。

 遠くだからよく分からないが、色んな顔をした猿のような何か。

 それぞれ顔が全然違っているから、同じ生き物なのか疑わしい。

 そんな生き物が不可解にも奇妙な服を着ている。


「何、あれ……」

「ミュータントだ。シズ、早く自分の家に帰レ。」

「でも!」

「いいから!ここは俺がなんとかすル」


 少女がうかうかしているものだから、ミュータントとやらがどんどん近づいてくる。

 既に橋は渡り終え、後は大きな歩道を走ってくるだけ。


「な!ゲイル!この野郎!よくもゲイルを!」


 ミュータントの声が聞こえる。

 ミュータントを通りがかった老人が止めようとしてくれた。


 パーン


 そして別の種類の耳をつんざく破裂音。

 いつもシズに挨拶をしてくれる、おじいちゃんが殺された。

 それ以外にも近所の人たちが、一斉に道に出て……

 何度も何度も破裂音が聞こえた。


「気持ち悪い奴らめ!どんどん湧いてきやがる。レージ、ここは任せたぞ。ユーナ、俺と一緒に『姫』を助けるぞ!……って、なんだ、こいつ?こいつだけ、装甲が違うぞ。」

「シズ、急げ。逃げロ!」


 友人以上、恋人未満。更には幼馴染の声。

 少女は漸く立ち上がり、突然始まった惨劇から逃げようとした。

 自分が逃げることがマヒトの意志だから逃げるしかない。


「マヒトも逃げてね!」


 その言葉に少年は親指を立てて応えた。

 そしてその瞬間、少年の体が煙を上げて始めた。 

 

「なんだこいつ、気持ち悪ぃ!突然煙を吐き始めたぞ。レツ、こいつを頼む!————お前だろ!俺たちはお前を助けにきたんだ!」

「怖かったでしょう?こんな気持ち悪い連中に捕らえられてて。」


 ミュータントが少女に向かって叫んでいる。

 彼らにもオスとメスの区別があるのだろうか。


 ——え!?


 ただ、少女はその光景に立ち尽くした。

 アレらの後ろで、マヒトの頭が落ちた。

 そして何故か、手のひらを見せる気持ちの悪い二足歩行の何か。


「気持ち悪い、気持ち悪いってあんた達の方がよっぽど気持ち悪いじゃない!」


 少女は泣き叫んだ。

 すると気持ちの悪い、顔のパーツが全部違う、髪の色も目の色も耳も鼻も、全部が違うミュータントは立ち止まった。


「お前、何を言って——」

「お嬢ちゃん、こいつらは——」

「ギラン!こいつヤベェぞ!自爆するつもりだ!」


 その瞬間、少女の目と耳が塞がれ、体は何かに包まれた。

 目を塞がれても、目を瞑っていても、世界が真っ白に変わるのが分かった。

 耳を塞がれていても、轟音と何かが壊れる音は聞こえた。


 そして……


「——マヒト!」


 少女は薄暗い部屋のベッドの上、自分の部屋のベッドの上にいた。

 ただ、目が開けにくい。

 目脂のせいかもしれない。

 寝ながら泣いていたのかもしれない。

 

「あれ……、私……」


 少女はまだボヤッとする視界と思考の中で、聞き慣れた声を聞いた。


「高祖母のダダ様、曽祖母のヂヂ様、お母さん、おはようございます。」


 隣の部屋で母の声が聞こえた。

 だから少女は慌てて飛び起きて、彼女に抱きついた。

 そこで、自分でも聞き取れない嗚咽混じりの声で、少女は泣き喚いた。


「あらあら。シズは悪い夢を見たのね。本当に映画みたいな夢、もっと聞きたいけれど、その前に顔を洗っていらっしゃい。」


 少女は母に促されるまま、洗面台に向かう。

 だから、後ろから母の声が聞こえた。


「……あ、そうそう。お父さん、今日は早く帰ってくるみたいだから、マヒト君のこと、私から説明しておくわね。」


 その言葉に少女は踵を返して、家の戸へ向かった。


 そして


「よう、シズ。今日は早いな……、っていうか寝癖やべぇぞ。それに顔がぐしゃぐしゃだ。そんなんだと、お母さんに叱られるぞ。」


 少女は笑顔に戻り、もう一度戸を開けて洗面台に向かった。


 そして、少年は先ほど拾った、前の自分の親指をクイっと飲み込んだ。


「清掃しにくい。カッコつけるなよ、前の俺。」


 ——少女は人類の希望だ

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