第2話 幻想架空のマナー講師2
〇
「すげぇほんとにマナー講師だ」
「嘘でしょ? だってマナー講師なんてほんとは居ないもん」
「でも、実際目の前に居る」
学校へ連れて行ったぼくの父改めマナー講師がその口からめんどくせぇマナーを生み出すのを目の当たりにしたクラスメイト達は、目を丸くして驚いていた。その飼い主であるぼくは、大変とても気分が良い。
「おいおいおいおい、ランドセル背負ったまま目上の人の前に立つなんてマナー違反だろ? 最近のガキはそんなことも教わってないのか?」
子供相手に偉そうな講釈を垂れるマナー講師を皆に自慢しながら、ぼくはチラチラと教室の隅、あの子がいる席を窺う。
「ねぇ、ねぇねぇあれ見て! ほんとにマナー作ってる!」
クラスのマドンナ花巻さんは珍しく興奮した面持ちで、指なんかさしちゃったりしてる。普段真っ白な顔がピンク色に染まってる様は、ありえんくらい可愛らしい。
もしかするとぼくはこれを機に花巻さんに話しかけに行くべきなのだろうか。もしマナー講師を触らせてあげるって言ったら、彼女どんな顔をするだろう。……でも変な生き物連れて来ただけで調子に乗ってる馬鹿なんて思われたらすごくやだな。
なんて事をうじうじもじもじと考えるぼくの指先に、不意に温かい何かが触れた。
「ねぇとしお君。それ、さわって良い?」
ぼくの手をそっと握りながら、花巻さんがそう言った。
おいおいそりゃ恋のマナー違反だろ? ぼくに惚れられたって知らないぜ?
なんてマナー講師みいたな事を言える訳もなく、ぼくはただ無言でうなずく。気の利いた言葉なんて何も思いつかなかった。そんな冴えない自分のことが、ちょっとだけ嫌になる。でもそれ以上に幸せだ。架空生物様様だ。
「すごぉ、ほんとに居たんだ、マナー講師って」
花巻さんの小さな手がそっとマナー講師の頬に触れる。まるで子犬に触れるみたいな優しい目を見て、ぼくはやっぱりこの子が好きだと、改めてそう思った。
「おいおいおいおい、異性の肌に直接触れる時は恋愛対象として見られても良い時だけだろ? 君は俺に惚れられても良いのか? そうじゃなきゃとんでもねぇマナー違反だぞ?」
マナー講師の口から不意に吐き出された捏造マナーを聞いて、花巻さんが驚きに目を見開いた。ぼくは思わず手を伸ばし、マナー講師の頭を叩く。
「コラッ! そんなマナーはないだろ!」
子供に怒られて驚くマナー講師の滑稽さに、教室がどっと沸いた。
花巻さんも笑ってる。それを見たぼくもほっとして、思わずちょっと笑ってしまう。
教室の扉が開いたのはそんな和気藹々としたタイミングで、先生が入ってきたことなんかには誰も気づいてなかったんじゃないかと思う。
「皆どうしたのかなあ、そんなに笑っちゃって~」
歳の割りに髪の薄い平先生が教卓からそう言って、ぼくらはやっとその存在に気がついた。
「先生! マナー講師です! とっしーが捕まえて来たんです!」
「ははは、マナー講師は架空の存在だよね。そんなの低学年の子だって知ってるよねぇ」
「でも、本当にここに居るんです」
平先生が眼鏡をかけて、教室の隅に置いたマナー講師を見る。
「どれどれ。……なんだあ、それはとしお君のお父さんじゃないか」
この教室で唯一大人の平先生はやっぱり簡単には信じられないみたいで、暫くそれをぼくの父親だと思い込んでいた。がしかし、これはもうぼくの父なんかじゃなく、本物のマナー講師なのである。
「おいおいおいおい。子供らに礼儀を教える立場の先生が随分不作法じゃないか。生徒の保護者を呼ぶときはお父様、複数形なら父兄の方々が正しいだろ? お父さんなんてのはちょっと礼節に欠けるんじゃないのか~? あと『それ』扱いってのも論外だねー、テストだったら0点だぜ?」
「わっ! まためんどくさいこと言い出した!」
「ねっ、先生これでわかったでしょ?」
「ほんとにマナー講師なんだよ!」
教室の皆がけらけらと笑って、ぼくだってほら見たかという気分だった。
しかし平先生は一体どうしたのか、普段にこにこしてる顔を苦しそうに歪めて、汗まみれに震え出す。その後は暫く「うあああ」「あっ、あぁ」なんて呻き声を上げてたと思ったら、先生は突然ポケットからスマホを取り出した。
「ケーサツ、自衛隊、……いや先に校長に連絡しなきゃいけないよねぇっ!」
すぐに繋がったらしい電話先と会話を始めた平先生の顔は深刻そのもので、緊張はすぐに教室全体へ広がった。
さっきまで撫でたり叩いたりして可愛がってたマナー講師の方からじりじりと離れ始めたクラスメイトは、しまいに皆が席を立って逃げ出して、平先生の居る黒板前へ移動した。
「としお君! 君も早くそれから離れてっ!」
教室の真ん中に一人取り残されたぼくがどうすべきか迷っていると、閉じてた扉が蹴破られる。クラスメイトの上げる驚きの悲鳴が、教室へ押し入ってきた男の怒号にかき消される。
「マナー講師だああああああああッ! 殺せええええええええええええッ!」
鼻息荒く教室へ入って来たのは、別のクラスの担任をしてる黒田先生だった。これって一体どういうこと?
「としお君! 早く! 巻き込まれないようにそれから離れるんだよねぇっ!」
廊下側の窓ガラスがけたたましい音を立ててぶち壊されて、次々と大人達が入ってくる。
新任の中山先生に、つるっぱげの教頭先生、それに保険医のおばちゃんまで。彼らが口々につぶやく「マナー講師を殺せ」の号令がこわすぎて、ぼくはほんと言うとちょっとだけ、しょんべんを漏らしてしまった。
「……なんで? 架空の生物だよ、すごいんだよ、マナー講師」
「としお君。マナー講師なんて現実に存在しちゃいけないものなんだよね。重箱の隅をつついて他人にマナーを押し付ける、ただただ不快なだけの存在。……それはSNSやTVの中にしか存在しないから、ボク達も手が出せなかったんだ」
教室の隅で生徒達を守るように立っていた平先生は、おもむろに胸ポケットから赤ペンを取り出す。
「……マナー講師は、この世にあっちゃならない存在なんだよね」
不意に振り上げられたペンの先が、マナー講師の右目に突き刺さった。痛みにのたうつマナー講師の絶叫が教室中に、……響き渡らない。
「おいおいおいおいおい! ペンを持つ時は人の目に刺さらないように蓋をするかペン先を握り込むべきだろ? 教師がそんな事も知らないなんてよぉ、どうなってんだこの学校は!」
喚き立てるマナー講師を取り囲む狂気の輪が少しづつ小さくなって、ぼくはもうどうして良いかわからずにただ泣いていると、ゴンと鈍い音がした。赤ペンを握る平先生が崩れるように倒れていく。
かと思うと真っ白な煙が教室に充満して、小さな手に掴まれた。
「逃げるぞ、としお」
煙幕から響く妹の声に促されるまま、ぼくはマナー講師の首につないだリードを引っ掴み、教室から逃げ出した。
〇
「……教室にはもう戻れそうにないな」
なんとか裏庭まで辿り着いてから、妹の朱莉はそう言った。その小さな両手には、大きな消火器が抱えられてる。
「朱莉、これ、どういうことなんだよ」
「わたしの見通しが甘かった。マナー講師はネット上にだけ存在する架空の存在で、だからこそ思う存分叩くことが出来る。それが現実に存在する人物となった場合にはその限りではないだろうと思っていたんだが、大人たちの正義感・長く募っていたマナー講師への暴力衝動は、私の予想をはるかに凌駕していた」
「おいおいおいおい。首輪を使ったプレイをする場合には呼吸困難にならないよう自力で外せる物を使うべきって、そんなのSM界隈じゃ常識だろ?」
「殺されちゃうの? ぼくのマナー講師」
「このままだとそうなる」
「おいおいおいおい、私刑なんてのは法治国家における最大のマナー違反だろ?」
「ぼくそんなのやだよ、せっかく空想の生き物と友達になれると思ってたのにっ」
「だが状況は思ったより深刻だ。……見ろ」
ぼくたちの隠れる裏庭の木陰に、低い音が響き始めていた。ぼくは朱莉の指さすまま、曇った灰色の空を眺める。
「……あれはぼくらを探してるの?」
轟音を奏でる十数台のヘリコプターが、ぼくたちの居る学校を取り囲むよう旋回していた。
「自衛隊と警察だ。あの分じゃ町の中はもっと警戒されてるだろう。……子供二人がマナー講師を連れて逃げ切れるわけがない」
「おいおいおいおい、緊急スクランブルは周辺住民へのマナー違反だろ?」
「じゃあ朱莉はマナー講師を見捨てろって言うの!? 自分で創り出しておいて!?」
そんなのってあんまりにも無責任だ。マナー講師を作る為に死んだ父さんだって、そんな結末じゃ浮かばれない。
……いやでも、ぼくだってほんとは分かってる。きっと朱莉が言う通り、小学生がクソうるさいマナー講師を連れて自衛隊や警察から逃げ切るなんて不可能だってことくらいは。
それでもぼくはやりきれなくて、でもどうしたら良いかも分からずに泣いていると、朱莉が何か思いついたように口を開いた。
「マナー講師を助ける方法が、一つだけあるかも知れない」
○
それから暫く走りまくった。
今までネット上でしか叩くことの出来なかった悪の権化・マナー講師が現実に現れたというニュースは一瞬で世界を駆け巡り、誰もが狂気に呑み込まれた。
見慣れた街には黒煙と殺意が立ち込めて、そこかしこから火の手が上がる。
『マナー講師を連れてきたのはうちの生徒なんだよね。最初はそんなことあるはず無いと思ってたんだけど、それは実際に腹立つマナーを押し付け始めて』
荒れ果てた街の片隅でスマホをチェックすると、動画サイトもSNSもマナー講師の話題で持ちきりだ。
『そもそもマナーってのは人を不快にしないために存在するものでだねぇ』
『現実に現れたマナー講師をどうすべきだと思いますか?』
『殺すべきです。当然でしょう』
投稿開始から5分で万RTに到達したニュースの切り抜きを眺め、ぼくは泣き言を言わずにはいられない。
世界はもうめちゃくちゃだ。誰もが架空生物じゃなくなったマナー講師を探し求め、それを殺そうとしてる。マナー講師に顔が似てるってだけで殺される人も増え始めた。収拾なんかつきそうにない。
「……もう無理だよ、ぼくらみたいな子供が逃げられるわけないよ」
情けない僕の手を握り、妹の朱莉はどこかを目指して歩き出す。
「お前の言う通り、あまり長くは逃げ切れない。ならこっちから捕まりに行くしかないだろう」
「マナー講師を大人達に渡すの?」
「マナー講師は罪そのもの、人の原罪とも言える存在だ。だからこそ、それを守ろうとする者も居る。……きっとそうだと信じてる」
黒煙に塗れ変わり果てた街の中、いくつかの人影が前を塞ぐように現れて、朱莉の体が強張った。
「マ、マナー講師だっ!」
「本当に居た……!」
「もしかしたら似てるだけじゃ」
「……おいおいおいおい。君達人の顔を指差すなんてマナー違反だろ? こんな風に町が滅茶苦茶になってる時こそ、日本らしい気遣いの文化に敬意を払わなきゃならんのじゃないか?」
「本物だあああああッ! 殺せえええええッ!」
銀行に行けばいくらでも居そうな真面目なサラリーマン風の男達が、血相を変えて迫り来る。ぼくと朱莉はマナー講師の体を引っ張って逃げようとする。だってのに、こんな状況ですらマナーを講釈しようとするマナー講師はその場に根を張ったように動かなくて、ぼくはもう涙を流すしかない。
本当にクソだ、マナー講師って。こんな生物死んだって仕方ないのかも知れない。
ぼくのきもちが悲しく揺れる。この生物を守りたい心と、もう何もかも投げ捨ててしまいたい気持ち。それが完全にあきらめの方へ傾こうとした。
その瞬間、銃声は響いた。
「それを連れて早くこちらへ」
綺麗に5発、……襲い来るサラリーマンの人数分発砲音を鳴らしたライフルを構えながら、軍服の女が手招きをしていた。
「……なんとか間に合ったか」
朱莉が額の冷や汗を拭いながら、女の居る建物を眺めた。状況を理解できないぼくは、アスファルトに寝転ぶスーツを着た遺体をまじまじと眺めてから、それからその巨大な建物を見た。
『アXゾン フルフィルメントセンター・園原支局』
近代的なデザインのその建物は、最近ぼくの街に出来たばかりの、アXゾンの物流拠点だ。
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