第五章 化石なんかじゃない④

 部屋から出ていった無量に追いすがった萌絵は「待ってよ」と叫んで、やっと手をつかんだ。それが右手だった。途端にものすごい勢いで振り払われた。思わずしりもちをついてしまったほどだ。

「俺の右手に触るな!」

 げきりんに触れたような一喝だった。が、萌絵もひるんではいられなかった。

「相良さんに何か言われたんでしょ。会ったんでしょ? あれから」

「………。会ってねー」

「うそ! こっそり会ったんでしょ。様子がおかしいもん。確かめたの? なに話したの?」

「しつこいな。忍とは会ってねーっつってんだろ!」

 廊下でそんなやりとりをしたものだから、エレベーターから降りてきた宿泊客にじろじろと見られてしまった。痴話げんと勘違いされたらしい。無量は舌打ちすると、萌絵の手を引いて自分の部屋に入った。萌絵は負けていなかった。

「ずっと心配してたんだよ。いくら幼なじみでも相手は殺人犯かもしれないんだから」

「忍はってない。三村サンを殺ったのは別の人間だ」

「どうして言い切れるの?」

「忍はそんな奴じゃないから」

「そりゃ西さいばらくんが知ってる相良さんはそうだったかもしれないけど、あれから十二年も経ってるんでしょ。人間って十年もあれば充分変わっちゃうよ。私の友達だって、高校時代は地味で真面目で男っけも全然なかったけど、こないだ七年ぶりに会ったら、すっかりギャル系になっちゃって今じゃナンバーワン・キャバ嬢だよ」

「あんたの友達と一緒にすんな」

「西原くんは、幼なじみかもしれないけど、相良さんの十二年間を全然知らないわけでしょ。だって、ずっと会ってなかったんだもん。いい加減認めたら……ッ」

 いきなり無量が振り返り、萌絵を囲いこむように両手を強く壁についた。萌絵はすくみ上がった。

「あんたに何がわかんだよ……」

 無量が怒ったのは図星を指されたせいだ。萌絵の言う通りだったからだ。

 忍の十二年間。

 葬式でひつぎを担ぐ忍の写真を見た途端、無量は酔いがめた想いがした。

 子供の頃の一体感に、ただ酔っていただけだ。幼なじみというだけで忍の全てを理解している気でいた自分が恥ずかしい。鏡が出た時、見たこともない一面をあらわにした忍に、抵抗を感じたのも、そのせいだ。

 あの頃はよかった、あの頃に戻りたいなんて、甘ったれた気持ちがあったせいだ。思い出という安全地帯にしがみつきたい一心で、自分の知らない忍を受け入れる勇気がなかった。子供の頃の、甘ったるくて安心するあの空気を、忍に求めていた。勝手に隔たりを感じて、突き放されて、戸惑った自分が、情けない。

 彼が身を置いていたこくな状況を思えば、なおさらだ。

 忍にとって無量との記憶など多分、納戸の奥に忘れ去られた古ぼけたおもちゃ箱だ。忍の人生の地層は、すでにうずたかく、子供の頃の友達など、はるか下層に埋もれたアンモナイトの化石だ。過去の遺物ばかり掘っている自分は、いつまでも過去から離れられないが、忍は違う。

 懐かしい、という気持ち以上の慰めも、ない。

 忍が抱える現実に、化石は何も言えない。何もできない。何も?

 無力な自分に苛立っていた。失望してもいた。萌絵に当たったところで、何にもならないことは、無量自身がよく分かっている。苛立ちは徐々にむなしさに変わった。腕を下ろすと、上着のポケットから香の箱を取りだし、萌絵の鼻先に差し出した。

「なにこれ。お、お香……?」

「一瞬くから、いでみて」

 言うと、無量は皿に香を載せ、マッチで火をつけた。細く煙が立ち上り、ふんわりと部屋に広がった。奥ゆかしい甘みの底に、ほのかな辛みと苦みが立ち、何とも高貴な香りだ。ほんのわずかで幽幻の境地に誘われる。こんな香りはそうそうない。萌絵の鼻は一瞬で嗅ぎ分けた。

「これ、龍禅寺のお屋敷で焚いてた匂いだ」

 やはり、と無量は思った。萌絵のこの一言で、全ては確信に変わった。

 忍は、家族の死後、龍禅寺雅信に引き取られた。そののもとで教育を受け、おそらくは「りゆうの子供たち」のひとりとなった。そして、上秦古墳に現れた井奈波マテリアルの剣持昌史なる男。忍とつながりがあるその男も、あの古墳に関心を持っている。

 何のために。

 目的は、あの出土した鏡とはくと鉱石……?

「これ。どうしたの? 西原くん。どこで手に入れたの?」

「………。言えない」

 西原くん、と萌絵が無量の腕を摑んだ。

「お願いだから、私に何も言わず勝手に動くのはやめてよ。目撃したのは私だよ。そうでなくてもマークされてるんだから、ひとりで動かないで。ひとりで抱え込まないで。所長みたいな目に遭ってもいいの? それとも相良さんをかばってるの?」

「なに」

「犯人だって分かって庇ってるの? それとも脅された?」

「誰も庇ってないし、忍はやってないんだから、庇う必要もない」

「幼なじみが犯人かも、なんて思いたくない気持ちも分かるけど、だんさん殺された三村さんと家族の気持ちも考えてあげようよ。きっとすごく悔しい想いしてると思うよ。あんなにやつれてたの覚えてるでしょ」

 その言葉に胸を突かれた無量だ。その通りだった。どんな動機があったにせよ、家族として今日まで苦楽を共にしてきた夫を突然失った三村夫人の、喪失感と悔しさはいかばかりだろう。今すぐにでも犯人を見つけて逮捕させたいに決まっている。

「でも、なら忍の気持ちは?」

「え?」

「家族を誰かに焼き殺された忍の気持ちは?」

「西原くん……。やっぱり相良さんと会ったの? なに言われたの?」

 無量は打ちひしがれたような面もちになり、

「……役立たずは、俺だって分かった。いいから、もう出てけ。入る」

「ちょ、西原くん」

 萌絵は部屋から追い出されてしまった。

 目の前で閉まったドアを見て、萌絵は当惑してしまった。

 役立たずは俺? いったい何があったの?

 ここに来て無量のかたくなさに拍車がかかっている。

 どうして、私には何も打ち明けてくれないんだろう。

 殻に閉じこもっている感じは初めからあったが、こう頑なにされると、ますますどう接したら良いのか分からなくなる。友人のように打ち解けて欲しいわけではないが、もっとこう、壁を取り払って、色んなことを楽に開示してくれてもいいだろうに。ましてこんな状況なのだから。

「それとも……単に私がうざがられてるだけなのかな……」

 なんだろう、この身を焼くようなさびしさは。不安を一緒に背負ってくれたような気がしたけれど、あれは私のためでなく、相良さんを庇いたいだけだったのだろうか。いくらノックをしても反応のない扉の前に立たされた気分だ。途方に暮れる。

 そりゃ確かに、私は幼なじみでも何でもない派遣事務所の一所員ですけど……? といじけて肩を落としていると、ちょうどそこへ亀石の部屋から鶴谷が出てきた。「あっ」という顔をお互いにした。萌絵が口をひらく前に、鶴谷が言った。

「永倉さんだっけ。ちょっと話を聞きたいんだけど」

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