遺跡発掘師は笑わない ほうらいの海翡翠

桑原水菜/角川文庫 キャラクター文芸

第一章 右手に鬼を持つ男①

 そもそもが、甘かった。

 転職して職場が近くなったら、優雅な朝が送れるなんて。

 ながくらにとって、朝の一分一秒は、死活問題だ。

 転職で通勤時間が劇的に減ったというのに、朝の忙しさが変わらないのは、どういうわけだ。余裕が生まれた分、ウォーキングしようとか英検の勉強にあてようとか、しよせん、絵に描いたもちなのだ。時間ができたらできた分、寝てしまうに決まっている。分かり切ったことだった。

 その分かり切ったことが、全然、身にみていない。

 あと五分早く起きれば、と毎日思うのも。

「ぐは! 信号変わっちゃう……! 待って!」

 しかし、これだけ毎朝、心臓破りのダッシュを続けているのに、全体的には運動不足で体重が三キロ増とは、どういうことだ。なんだかんだで、地獄の通勤ラッシュは、日々のカロリー消費を促してくれていたのだ。

 八時五十分。それが死活の分かれ目だ。一秒でも過ぎたら給料から一万円さっぴかれるという非情な職場ルールがある。言い訳無用。そもそも通勤手段は徒歩だけなので、交通機関の遅れが言い訳にならない。何としても、それまでにタイムレコーダーを押さねばならない。

 萌絵の職場は、アーケードを抜けたところにある古いマンションの二階。

 かめいし発掘派遣事務所。通称カメケン。

 それが、彼女の職場の名称だ。

 通勤中で最大の難関が、目の前にある十五段のやたらげの高く狭いコンクリート階段だった。萌絵が気合いを入れて、うおりゃああ、と叫びながら一息に駆け上がると、事務所の扉をふさぐように、大きな薄汚いリュックが置かれている。

「なにこれ」

 この事務所にこんな大きな荷を背負って登山するような根性のある人間はいない。が、八時五十分にはタイムレコーダーを押さねばならない萌絵にとっては障害物でしかないので、ただちに撤去にかかったが、驚くほど重くて、びくともしない。

「ちょっと。誰こんなとこに置いてったの! 入れないよ。うーん……うーん……」

「朝っぱらから、なに、そんなとこで相撲とってんだ」

 短いあごひげでながら、中年男がひとり、眠そうに階段をあがってきた。男の名は、亀石ひろ。当事務所の所長である。すそのよれたジャケットに、だらしなく開いたシャツの襟。いつもながら見るからに起き抜けだ。

「所長。うっ、酒臭い。また朝までんでたんでしょう」

「四時は朝とは言わん。夜だ」

「朝です」

「不毛な抵抗だな。なんだその荷物は。おまえのか」

「なんで自分の荷物にゴールを塞がれなきゃなんないんですか。手伝ってくださいよ」

 お? と亀石がリュックのタグを見て、何かを察した。

「ああ、こりゃウチんだ。よいしょっと」

「所長の? いつから山男に?」

「俺は筋金入りの街男だが?」

 かぎを開けると、萌絵はすかさず亀石を押しやって、倒れ込むようにタイムレコーダーを押した。危なかった。今日も安月給から一万円を死守した。

 雑然とした事務所は、築ウン十年の古マンションを改装したもので、十畳ほどのリビングが事務所スペースだ。いかにも昭和風のサッシと低い天井、向かい合わせの机が四つと、壁際には所長机が鎮座する。手前が応接室、左扉が資料室。プラスキッチン。2LDKのアットホームな職場だ。

「誰も来てない。今日もしかして、私と所長だけですか」

「他は皆、出張中」

「げっ」

 つまり「雑務」はみんな萌絵に集中するということだ。これはもうさっさと片づけるに限る、と思い、すぐさまパソコンに向かった。今日もたくさんのメールが待っている。

「うわ、池田組から催促だ。やぶいし古墳の派遣メンバーは決まってましたよね、所長」

 出勤と共に大量メールを処理しなければならない萌絵をしりに、亀石はのん珈琲コーヒーメーカーの前に立っている。

「それならK大の学生を割り当てといたぞ。小川研究室の」

「えっ。でもこれ来週ですよ。大学は試験期間じゃ」

「試験? やべ。そんなもん忘れてた」

「所長!?」

 そう、ここは派遣事務所。依頼主クライアントの求めに応じて、働き手を派遣するのが業務だ。

 だがハケンはハケンでも、ちょっと特殊な「派遣」を扱っている。そう、ここは亀石「発掘」派遣事務所。人材発掘という意味ではない。発掘するのは遺跡。

 つまり、遺跡発掘のための派遣事務所だった。

 遺跡の発掘現場に作業員を派遣することが本分だが、業務内容は手広い。発掘のみならず、遺跡修復にかかわる専門家エキスパートのコーディネートや測量会社の仲介、埋蔵文化財の整理調査委託から調査報告書の編集委託なども業務のひとつだ。しかも国内だけでなく、海外からの依頼も請け負う。小さな事務所だが、業務内容はグローバルなのだ。所長の亀石は頼りなげな外見とは裏腹に、この業界では顔が広く、文部科学省などのお役所から、その管下の独立行政法人、地方自治体の教育委員会、各大学の研究室、博物館、遺跡発掘業者、有志の考古学会、海外の修復チーム、果てはユネスコに至るまで……。考古学業界にただならぬ人脈を持つ男なのだ。

 人脈はまことに素晴らしいのだが、事務処理能力がとことん無い男で、萌絵たち所員は日々、派遣業務のみならず、所長のフォローに追われている。

 もちろん、電話取りは萌絵の仕事だ。

「はい、亀石発掘派遣事務所でございます。お世話になっております。いま替わりますので少々お待ちください。──所長、駿河するが埋蔵文化財センターのよこ先生からです」

「おう。応接室でとるわ」

 実に殺風景な事務所だ。

 棚に置かれた縄文土器のレプリカには、誰かが百円均一で買ってきた造花が、芸もなく挿してある。それが見るからに安っぽい雰囲気を醸している。資料室の段ボールには、廃棄処分になった土器片が雑然と詰め込まれているが、ガラクタ同然で、有り難みが少しも感じられない。

 この洗練の欠片かけらもない職場で、萌絵は気づけば、半年近くも働いている。

 所員は萌絵含め、三名。一人は去年子供が産まれたばかりの新米パパ・かねがきひろ、もう一人は萌絵が相方と呼んでいるあいかわキャサリン。しかし生憎あいにく、今日は二人とも出張で出払っている。

「キャサリンがいないってことは、海外からの電話も、あたしが受けるってこと?」

 いつもなら、受話器の向こうから英語が聞こえてきただけで、帰国子女の「相方」に押しつけているところだ。

 しかも、変にグローバルなので、一日二、三度は確実にかかってくるから、面倒だ。

「やばい。どうしよう」

 萌絵は英語はからきしできない。中国語なら多少、話せる。

 というのも、学生時代に中国留学経験があったためだ。

 ここに就職できた理由も「中国語OK」とうっかりアピールしてしまったからなのだが、萌絵の場合、留学の動機もかなり「個人的趣味」のはんちゆうだったので、正直、ペラペラというわけではない。

 そんなこんなで電話を取りたくないので、なんとかして席を立つ口実を作りたいのだが……。

 メールをのぞき込むと、新たな派遣登録エントリーの申し込みがあった。

「うっ。これだ。所長、面接に行ってきてもいいですか!」

 亀石は隣室で、電話相手とゴルフ話に花を咲かせている。

「うわ、朝から長電話だ……。行っちゃいますよ、所長!」

 も、いいや。アポの時間にはちょっと早いけど、ホワイトボードに書いて出ちゃえ、と萌絵は出かける用意を始めた。

 派遣発掘員の面接も、れっきとした業務のひとつだ。

 カメケンが誇る派遣リストの面々は、キャリアも様々で、史学科の学生、珍し物好きのフリーター、発掘パート歴何十年というベテラン作業員から、有名大学の客員教授まで……。この中から現場ごとにふさわしい適合者を選び出して、送り込む。作業員のアルバイト派遣、発掘立会人の選定、国の支援を受けた遺跡修復チームのコーディネート……、案件によって人集めも全く違ってくるから、大変だ。

 ちなみに遺跡発掘の作業は、国内だけでも年間一万件。中でも、行政発掘や緊急発掘と呼ばれる地方自治体によるものは、大勢のアルバイトやパートの手によって行われる。よく建物を建てたり道路を造ったりしようとする時に行われる発掘だ。

 その場合、作業は発掘業者が入札で請け負う。実は、亀石の実家が昔からの発掘業者で、今は兄が継いでいるその会社の「作業員集め業務」を独立させたのが、この事務所の始まり。いわば子会社みたいなものだ。

 そうして派遣される人々は、亀石自らがキャリアを吟味した者ばかりだから、適材適所で手際もよく、現場監督としての派遣も多い。これが遺跡修復ともなると、考古学から地質学、建築学……と様々なジャンルの人材を集めねばならず、時には、遺跡とは全く関わりないような業界の手も借りねばならない。人選が物を言う世界なのである。

 とはいえ、萌絵も、業務内容を完全に把握できているかといえば、そうではない。事務所にもりきりで現場に行ったことがない上に、目の前にいる亀石が、そこまでたいそうな人脈王には見えない……ということもある。

 正直、給料も少ないし……。

 もうかるかというと、そこはごめんなさいよ、的な。

 依頼主も大体が財政事情の厳しいところばかりなので、仲介手数料も申し訳程度だ。

 経営は、はっきり言って、じり貧だ。

「所長、私、今日面接にー……」

「あっ、モエっち。珈琲れたら持ってきてくんない?」

「誰がモエっちです。忙しくて手が離せません。自分でやってくださいよ」

「いま大事な打ち合わせ中なんだわ」

「ゴルフ話でしょ。聞こえてますよ」

 毎日この調子で所長のペースに振り回されている。でも文句は言えない。前の職場をリストラされて途方に暮れていた萌絵を拾ってくれたのは他でもない、亀石所長なのだ。

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