43 自分を証明するもの

 千歳の家庭の話が少しずつ校内に広まっていく中、仲間たちはすっかりお坊ちゃんキャラが板についた千歳をからかって遊びの一環として動画を撮った。家庭内での立場が弱いことが露見され、こいつはいじってもいい、と判断されたのかもしれない。千歳も半ばやけを起こしていたので彼らの調子にすぐに同調した。


 未来の億万長者です。今からでもこいつに媚びを売っておくと得をします。ほら、頭が高いぞ。


 薄々思っていた皆の本心が、冗談を装って露わになる。鼻持ちならない金持ち坊ちゃん。最近、なんだか調子づいてるよな。同級生たちの笑顔の裏に潜んだ本音は、千歳には丸見えだった。

 これまでそう思っていても、千歳が家のことを口にすることがなかったせいで、踏み込むことはできなかったのだろう。が、メディア部で頼成が口にしたことがきっかけとなり、皆も勘違いを始めた。


 気づけば千歳は金持ちのいじられ役に徹するようになり、彼自身もなんと呼ばれようとどうでもよくなっていた。卒業すれば、彼らとも縁が切れる。搾取は終わるはずだ。あとはゆっくり、養父母とともに穏やかな生活を送ればいい。自分に言い聞かせ、千歳は現状を割り切ることにした。

 頼成は口が滑って千歳の家庭事情を話してしまったことを反省し、後々謝ってはくれた。もうどうでもよかったが、千歳は一応の許しを彼に与えた。


 頼成は勝手に個人の事情を広めてしまったことを引きずっていたのか、卒業まで彼のことを気にかけ続けた。メディア室の鍵係に抜擢された千歳が鍵を失くした時も、頼成は自分の分の鍵を失くしたのだと学校に説明し、彼のことを庇った。

 千歳は頭を下げる頼成を横目に、鞄の底で見つかった鍵を手に取る。校長と話し終えた頼成がこちらに歩いてくる。返すべきか。迷う必要などなかったはず。だが頼成と目が合った瞬間、千歳は鍵を鞄に戻した。


 どうせもう校長に頭を下げた後なのだ。今更返す必要もない。

 千歳は鍵をしまった鞄のチャックを閉め、ぼんやりとそんなことを思った。

 高校を卒業後、千歳は予定通り親戚の鹿島夫妻のもとへ養子に出された。最後まで父親からの愛情は感じられなかったが、彼が別れ際に大学を卒業したらまた会おうと言ったことは印象的だった。後に兄から聞いたことだが、父は千歳のことを会社に迎え入れ、ゆくゆくは役職を与えようと考えていたようだ。


 まさか父に限ってそんなことを思うはずがない。兄の話を信じられなかった千歳だったが、大学生として初めて迎えた春休みに、父の意思が本物だったと思い知らされる事件が起きた。

 突然姉に呼び出され久しぶりに訪れた実家の玄関で、父は火山が噴火するかのような激憤の表情を浮かべて千歳を待ち構えていた。

 何事かと目を丸くすると、父の隣にいた姉が申し訳なさそうにスマートフォンを差し出す。

 画面に映っていたのは高校の制服を着た自分だった。同級生たちがふざけて撮影し、SNSに投稿していた動画がいつの間にか父の目に入ったらしい。


 柳楽の事業を継ぎ、億万長者になる。こいつの未来は酒池肉林。皆、崇めろ、崇めろ。


 目を塞ぎたくなるほど醜く稚拙な動画だった。中央でふんぞり返っているのは千歳本人に間違いない。同級生に言われた演出に協力し、感情のないままに彼らの礼賛を受け取っている。自ら進んで撮ったものではない。が、彼らの遊びを無視せず、撮影を止めなかったのも自分だ。

 動画はただの高校生の悪ふざけにすぎず、特に犯罪行為が映っているわけでも、裸の女が映っているわけでもない。例えて言えば、キャンプファイヤーで羽目を外して騒ぎ回る子どもそのままだ。


 しかし父の目にはそう映らなかった。

 こんな動画が出回っては、事業の今後に影響が出る。馬鹿な息子を持った父だと軽んじられる。お前に少しでも期待した自分が情けない。兄と姉がいれば後継者は事足りる。もっと思慮深いと思っていたのに。どうして彼女は、こんな奴を……。

 そこで父は言葉を止めた。

 もはや焦点の定まらない千歳の瞳に向かって、父親は言い放つ。


「もうここを、お前の家だとは思うなよ」


 清々しいまでの勘当を言い渡された。父の両脇に構える美しい姉と、勇ましい兄がこちらを見ていた。

 二人と自分の圧倒的な差に、目の前には大きな溝が彫られているように感じる。この二人がいれば十分だ。お前は余計な存在だった。父からの暗黙の圧が広がっていく。


 ああ、そうか、自分は必要ない。必要なくなった。どうして、どうしてだ。一時は希望が見えていたのに。なぁ、どうしてだ。何が起きて、こうなったのだ。

 将来が閉ざされた絶望感に、千歳の脳は勝手に記憶を漁り始める。

 そして見つけたのは、教室で頼成がメディア部の面々に向き合って座る姿だ。

 そうだ。あのせいだ。

 彼が、裏切らなければ。

 今度は明確に、身体中から希望が奪われていく感覚を味わうことができた。

 あの時に体内で崩れたものの正体が、今にしてようやく分かったのだ。



 矢嵜造園で実績と信頼を積んだ千歳は定期的な校内の植栽整備の仕事に自ら手を挙げた。ちょうど他の社員の手も空いていなかったから好都合だった。これで、計画通りに頼成に接触できる。千歳は歓喜にも似た血管の躍動を感じた。

 彼が蜘蛛嫌いということは高校時代に聞いた記憶があった。千歳は大蜘蛛を作業着に忍ばせて頼成のいるメディア室へと向かった。監視カメラの死角など、彼はとっくに把握している。カメラの向きを変えていないなんて、なんて無防備なのだろう。千歳は薄い笑みを堪えることができなかった。


 久しぶりに対面した頼成は、卒業した時とまったく変わらない様子で部活の準備を進めていた。千歳が顔を出したことに驚いてはいたが、喜んでいるのか、そこまでは分からなかった。

 千歳はまず、頼成にお礼を言った。彼のおかげで自分は今、鹿島千歳として、彼らしく生きることができている。最初から定められていた道に戻れた。柳楽家に自分は求められない。兄や姉のいる華やかな場所ではなく、自分がいるべき本来の場所はこちらだったのだと気づけたのだと。


 頼成は千歳が何を言っているのか完全に理解はできていなかったはずだ。頼成が首を傾げ、不穏な空気を察したところで千歳がタランチュラを手に取ったからだ。

 突如として現れた天敵に、頼成は泡を吹いた。本当に苦手なのだろう。声にならない悲鳴を上げ、後ずさりして近くにあった椅子に後ろ脚をひっかけた。


 笑うこともなく近づいてくるタランチュラと千歳に追い詰められ、頼成はそのまま椅子に崩れるようにして倒れ込む。恐怖に震える頼成の顔面に、千歳は躊躇いもなくタランチュラを乗せた。すると彼は面白いくらいにあっけなく力を失う。掌に乗るくらいの蜘蛛でここまで大騒ぎするとは、あまりにも滑稽だ。

 千歳は気を失った頼成の顔からタランチュラを剥がして床へ下ろす。代わりに取り出したのは用意していたナイフだった。


 タランチュラだけでも本当に息の根を止められるかもしれない。半信半疑ではあったが、さほど冗談でもなさそうな現状に思わず鼻が笑う。が、まだ彼の呼吸音は聞こえる。虫の息だ。ちろちろと視界を抜けていくタランチュラと同じ。

 千歳はナイフを構え、上から一直線に頼成の胸を刺した。狙ったのは心臓だった。感触だけではそこが心臓なのか分からない。

 腕を伸ばしてナイフを抜くと、血が噴水のごとく吹き上げた。あらかじめ彼から距離を取っていた千歳に返り血はそこまでかからなかった。

 ネイビーの作業着のおかげか、多少の血も水か染みか判別できないくらいだ。


 さっきまで怯えていた男が、今やくったりとした人形のようになっている。

 反対に、千歳の体内を滞っていた血液が、どっと濁流となって流れていく。妙な感覚だ。気分がいいのか、気味が悪いのか、とにかく体験したことのない温度だった。

 もうこれで、頼成の顔を見るのも最後だろう。千歳は彼の顔をじっと見下ろす。


「信じてたのに」


 口を突いて出た言葉に、千歳自身は気づかなかった。

 身体を反転させると、床をタランチュラが優雅に歩いている。突然解放され、目指す場所も分からないようだ。大蜘蛛の脚は狭い室内を滑稽に彷徨っていた。

 千歳は行き先を決めかねているタランチュラに向かってナイフを投げ捨てた。見事にナイフの刃先はタランチュラの中心を捉え、黒い塊も動きを止める。

 ポケットに入れたメディア室の鍵を手に取り、扉に鍵をかけた。この部屋の戸締りなど、何年振りか。


 感慨に浸る暇もなく、千歳は極力生徒たちと会わないように気をつけながら来た時と同じようにカメラの死角を歩き、持ち場に戻った。鍵は駅のゴミ箱に捨てて帰った。

 事件が明るみになり、矢嵜造園にも警察の調査が入る。一時は身構えたが、思ったよりも彼らの調査は生温いものだった。彼が柳楽千歳だと突き止めることもなく、ちょっとの嘘ですぐに鹿島千歳を捜査線から外したのだ。ハナから外部に犯人を求めていなかったのかもしれない。

 警察たちはこそこそと声を顰め、「やはりあの生徒が……」などと話している。


 そこで千歳も思い出す。そういえば、叶山高校とは仕事以外でも接点を作ってしまっていた。

 “風鈴”と名乗るませた女も、叶山高校に通う生徒なのだ。何らかの拍子で自分たちの関係が露見したら、次は逃れられないかもしれない。

 彼女の存在が厄介になった千歳はアルバイトとして雇った大学生に彼女を追跡するように命じた。お金なら持ち合わせている。兄と姉が父に勘当された弟を憐れみ、こっそり渡してくれた手切れ金だ。さっさと手放したいほどに忌まわしい。報酬には糸目をつけなかった。


 彼女のことも処分して、自分の痕跡を一切消し去る。ただそれだけ。ほかの者に危害を加えるつもりもなかった。どうしようかと思案していたところで彼女に呼び出され、神は自分に味方をしてくれると思い上がったものだ。

 大学生から聞いていた彼女の彼氏らしき後輩と、鬱陶しいくらいに正義感に満ちた後輩が出てくるまでは、自分の計画は完璧だと疑わなかった。


 だからヒーローもどきの後輩の腕から血が噴き出た時、千歳の頭は真っ白になった。

 教室で、メディア部の仲間たちが自分に向けた憐情の色が蘇る。やめろ。そんな目で見るな。俺に構うな。当時の感情が鮮やかに喉を熱くした。堪え切れずに無我夢中で逃げたところで、横から飛んできた強固な衝撃に意識が飛んだ。

 気づけば千歳は、手足の自由が奪われたまま警察に囲まれていたのだ。

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