10 先生のひみつ
週末の深夜。読書を終え、ベッドで眠ろうとしていた透のことを微かな振動が起こす。
身体を倒したばかりで起き上がるのが少し億劫だった。けれど無視をしてもスマートフォンの画面がもう一度明るく浮かび上がってきたので、透は観念して上半身を起こした。大きな枕をクッション代わりに立て、電気はつけないまま画面の明かりで顔を照らす。
〔頼成先生の話だけどさ〕
〔考えてあげてもいいよ〕
視界に飛び込んできた二つのメッセージに透は目を細める。
〔代わりに、なんか特ダネを教えてよ〕
透がメッセージを読んだことに気がついたのか、続けて新たな文章が送られてきた。
〔もちろん桜守の話に限るけど〕
透が文字を読み込む前に、念を押すような言葉が添えられていく。
透は少しの間メッセージを見つめてから指を動かしだす。その動きに迷いはなかった。
〔悪いけど、なにもない。交渉決裂?〕
透がメッセージを送ると、相手はすぐに返事を返してきた。
〔ざんねんだなぁ〕
返信を確認し、透はスマートフォンの画面を消す。
立てていた枕を元に戻し、布団を頭からかぶった透はそのまま眠りに落ちていった。
週が明けると、登校したばかりの透のもとにサシャが急ぎ足で駆けてくる。
「透くん! 大ニュースだよ」
金曜日に見た時とは大違いの彼女の溌溂とした表情に、透はほっと胸を撫で下ろす。これこそ彼女がいつも学校で見せていた笑顔だ。
「ニュースって?」
透も普段通りの調子で返事をすると、サシャは廊下を歩く透と歩幅を合わせて彼の耳に向かって囁いた。
「頼成先生のご友人がね、今日、学校に来てるの」
「え?」
透の目が微かに見開き、サシャは得意気に笑う。
「親しかったらしくてね。先生の軌跡を追うことで気持ちにけじめをつけたいんですって」
「なんでそんなこと知ってるんだ?」
「さっき職員室の前で見たから。校長先生と話してたのが聞こえたんだ。女の人だよ。眼鏡をかけてて、優しそうな人だった」
「へぇ」
「それともう一つ。金曜日の事情聴取の時、警察の人が蜘蛛について話してるのが聞こえたんだけど……」
サシャは傍を通り過ぎていった生徒とぶつかりそうになり、咄嗟に透に身を寄せる。生徒が遠くに行くと、サシャは止まっていた言葉を続けた。
「先生の顔に、蜘蛛の毛の成分が残っていたんだって」
「蜘蛛は見せつけの道具じゃないのか?」
「そう思われてたんだけど……」
サシャはピタリと立ち止まり、透に廊下の端に寄るように指示をする。指示に従った透に隠れる形になったサシャは、息を潜めて辺りの様子を窺う。入念な彼女の眼差しに、透まで神経が尖っていく。
「あのね──」
誰もいなくなったことを確認したサシャは、意を決したように言葉を紡ぐ。
透よりも少し遅れて家を出る。それが新太の日常だった。
特に意図してそうなったわけではない。ただ単純に、透の方が新太よりも支度が早いだけだ。
事件の後もその習慣は変わらなかった。家を出るのは大体の場合で新太が三番目。まず透が一番に家を出て、次に彼の母親が続き、最後に父親が出ていく。新太はちょうど両親が家を出る間を縫うタイミングで支度が終わる。透よりも時間がかかる理由も簡単だった。身嗜みを整えるのは、圧倒的に透の方がこなれているからだ。
学校に着く頃には、透はとっくに教室に入ってしまっている。だから朝の時間に二人が校内で顔を合わせる機会は少なかった。
そのことを気にしたことなど一度たりともない。だがこの日に限っては、新太は自分の支度が遅いことを恨んだ。
〔頼成先生の友人が学校に来てるらしいよ〕
透からのメッセージを受け取った新太は慌てて道を駆け出した。
走ることは得意だった。折角整えた髪型が風であっけなく崩れていくが、気に留めている暇もない。
「くそっ。間に合え……! 間に合え……ッ!」
先生の友人ということは、恐らく用事を終えたらすぐに帰ってしまうだろう。
何をしに来たのかなどの詳しい情報はないが、午前の授業が終わる時間まで学校にいる保証などどこにもない。
そう思った新太は、どんなにみっともない格好になろうとこの機会を逃したくはなかった。新たな情報を得る手段が何もない今、自分の知らない先生のことを知っている人と話すことができたら、何かが進展するかもしれない。
「──だぁッ! くそっ。もっと早く起きるんだった……!」
つい数十分前の自分の怠慢を憎み、新太はがむしゃらに学校を目指す。道を歩く周りの人たちにぶつからぬように細心の注意を払いながらも、新太は着実に学校に近づいていく。
「せっ……先生ェ……!」
校舎に入ってすぐに職員室に向かった新太は、近くにいた数学教師に声をかける。息を切らして髪を乱した新太の姿を見た彼は、ぎょっとした顔で新太のもとへ向かう。
「桜守、どうしたそんなに慌てて。まさかまた事件でも起きたのか⁉」
みるみるうちに青ざめていく教師の悍ましいものを見るような目に、新太は急いで首を横に振る。
「いいえっ! 事件なんか起きてません!」
「ふぅ。そうか。それはよかった」
数学教師は安堵の息を吐き、胸に手を当てて仄かに微笑む。彼の反応を見た新太は、頼成の事件が生徒だけでなく教師にも多大な衝撃を与えたことを改めて思い知った。
「あの、頼成先生のご友人の方がいらしたと聞いたのですが」
数学教師がほのぼのとした表情に戻ったので、新太は呼吸を整えながら本題に入る。
「ああ。さっきまで来ていたよ」
「ええっ⁉ ってことは、もう帰られた……?」
「ううん。たぶん、まだ校舎内にいるんじゃないかな。仕事までまだ時間があるから、頼成先生の職場を見て回りたいですって言ってたから」
「そうですかっ! 先生、ありがとうございます!」
新太は深くお辞儀をしてから数学教師に明るい笑顔を見せる。早速友人を探そうと踵を返した新太の俊敏さに数学教師はぽかんと首を捻った。
大股で歩き出した新太。だが五歩も歩かないうちに、すぐに教師のもとへと引き返す。
「そうだ。先生、その方のお名前って?」
「鈴巻さんだよ。頼成先生の高校時代のご友人らしい。桜守、先生の話を聞きたいのは分かるが、失礼のないようにな」
「はいっ!」
新太はびしっと背筋を伸ばしてしっかりとした返事をする。数学教師は、頼成を失ったことが契機となり、生徒たちが彼に対する興味を深めていることに何の疑問も抱いていないようだった。
何よりも彼自身がそうだったからだ。同僚だった頼成を亡くし、彼の話に耳を傾けることで少しずつ傷が癒えていくような気がしていた。だからこそ、頼成の友人のもとへ向かう新太の姿を見ても違和感も覚えなかったのだ。
あと少しでチャイムが鳴ってしまう。
そんな焦燥感に襲われながら新太は六階に向かう階段を上がる。
六階は閉鎖されていて、警察以外の立ち入りが禁じられていた。幸いにも六階を使うのは選択授業の時だけだ。事件後の授業では、教師たちは代わりの教室を探してやりくりを続けていた。
立ち入り禁止は今も解けていない。六階に続く階段を上がったところには規制線となるテープが張られ、さらに先にあるステンドグラスの踊場へも行くことが出来なかった。
それでも新太は真っ先に六階を目指した。
もし自分が友人の立場だったら。
必ず見ておきたいと興味をそそられるのが、事件が起きた場所だからだ。
「
規制線の外側に佇む私服の女性の姿を見つけ、新太は五階との間にある踊り場から声をかける。新太に気づいた彼女は、予想外の声に驚き振り返る。ゆるいウェーブのかかった短い髪はこげ茶色に染められていた。丸みのあるフチが特徴的な眼鏡をかけた彼女と目が合い、新太は改めて頭を下げる。
「君、ここの生徒さん?」
朗らかな中に凛とした張りのある声だった。新太はこくりと頷き、真摯な眼差しを彼女に向けた。
「桜守新太と申します。頼成先生には、授業でお世話になっていました。俺、日本史が苦手で……結構先生にも手間をかけさせちゃったんですけどね。先生は諦めずに、特別講義を開いてくれたりしたんです。そのおかげで、テストでそれなりの点数が取れるようになったんです」
「ふふ。英紀らしいねぇ」
鈴巻は頼成のことを懐かしむようににこりと微笑んだ。
「私、
新太がいる踊り場まで下りてきた鈴巻は恥ずかしそうに肩をすくめる。
「それで、現場を見れば少しくらい前に進めるかなって思って。でもやっぱり、非現実的な光景すぎて……あんまり心は動かないものなんだね」
鈴巻は六階を見上げて寂しそうに笑う。
「校長先生に無理言って強引に押しかけちゃったけど。現役の生徒さんたちにしてみればいい迷惑だったよね。ごめんなさい」
「いいえ! そんなことありません!」
新太は必死で否定する。すると鈴巻は、新太の顔に滲む焦りに気づいて首を傾げた。
「そう?」
「はい!」
威勢よく返事をする新太。鈴巻はもう一度規制線の向こう側を見やり、再び新太の方を見る。
「もしかして、英紀を殺した犯人探しでもしてるの? それで、旧友から情報を聞きたいと思った、とか?」
「そうです。実を言うと、俺の弟……友だち、が疑われてるんです。でも、絶対にそれは違うって、俺は信じてるので。だから真犯人を見つけるヒントならなんだって知りたいんです。こんなこと、ご友人のあなたに聞くのは酷ですが」
新太の声の勢いがだんだん控えめになっていく。気まずさから少し居心地が悪くなってきた。しかし鈴巻は、そんな微妙な表情をする新太に向かってぴしっと人差し指を向ける。
「絶対に絶対はない」
「え?」
「織田信長の言葉だよ。絶対に不可能と思えることでも突破口はある。そんな意味も含んでいるんだって、英紀が言ってた。容疑者の話は、私もなんとなく聞いてる。諦めちゃだめだよ」
鈴巻の力強い言葉に、新太は呆気にとられたまま頷く。
「私もね、犯人には早く捕まって欲しいと思う。でも、間違った人は巻き込んじゃだめだって思ってるの。真犯人を見つけなければ意味がないって。だから、君の想いには賛同するよ」
「ありがとうございます……!」
新太の表情が、照明に照らされたように明るくなる。鈴巻はその変化を見てにこりと笑った。
「英紀の友人として、私も警察の聴取を受けた。えっと、知ってるよね? 英紀の傍で蜘蛛が死んでたことも」
「はい。ナイフで刺されてたとか」
「そう。そのことについて、私も聞かれたの。何か心当たりはないかって」
「あるんですか?」
新太の問いに、鈴巻は六階を見上げて呟く。
「言ってもいいよね? 英紀」
返事のない問いかけに、彼女の瞳が切なく揺れたような気がした。新太も思わず六階を見上げる。
「あのね。英紀は蜘蛛が大の苦手なの。それはもう、本当に気絶するくらいに」
「気絶、ですか?」
「ええ。高校の時も、教室に小さな蜘蛛が歩いてただけで英紀はえらく狼狽えてた。そんなんじゃ、一人暮らしで蜘蛛が出た時はおしまいだねってからかったりもしたよ。英紀は将来はタワマンに住むから蜘蛛なんて出ないって強がってたけど。結局、タワマンにも住んではいないけど、幸い蜘蛛では死なずにこれたみたい。あの日までは」
鈴巻の声に哀愁が滲んだ。
「たぶん、なんだけど。蜘蛛を見せられた英紀は気を失って、その間に刺されたんじゃないかと思うの。蜘蛛まで殺した理由は分からない。でも、ある意味で見せつけなのかもしれない。大嫌いな蜘蛛と、死後も一緒にいればいいって嫌がらせの」
「先生が蜘蛛嫌いって、知ってる人は多いんですか?」
少なくとも新太は初耳だった。透は知っていたのだろうか。新太のこめかみがじんわりと痛む。
「ううん。ほとんどいないと思う。仲が良かった高校までの友人くらいしか。あとは家族かな。教師になった時に、生徒に舐められてはいけないって言って、自分の弱点は学校側にも一切言わないって決意してたから」
微かに息を吐き、鈴巻は瞼を伏せた。
「ほんと、死ぬほど嫌いだってのは、皮肉だよね」
「……そうですね」
「だから、犯人は英紀より小柄でもやろうと思えばできてしまったはず。性別も体格も関係ない。余計に混乱しちゃうかな? 警察には、勘弁してくれよって顔をされたんだけど」
申し訳なさそうな顔をする鈴巻に対し、新太は静かに首を横に振る。
「いいえ。とても有力な情報です。助かります。ありがとうございます」
「ふふ。警察はなかなか教えてくれないもんねぇ」
腕時計を見やり、鈴巻は一歩ずつ歩き出す。そろそろ本当にチャイムが鳴りそうな時間だった。
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるがよし」
新太を通り過ぎて五階に下りていく鈴巻の背中を朝日が照らした。新太は彼女が言っている意味が分からず首を傾げる。
「伊達政宗の言葉。重大な選択をするとき、いろんな情報を調べたり、人に相談することは大事。だけど、最後に判断するのは自分じゃなきゃ意味がない。そうじゃないと、いくらでも何かを責めることが出来てしまう。そんな後悔、するべきじゃない。って、英紀が言ってたことがある。生徒には、そんな心を持っていて欲しいって」
新太がぽかんとしていることを察したのか、鈴巻はゆるやかに彼の方を振り返った。
「私に協力できることがあったら、何でも聞いて? 私と君の想いは同じなんだから」
新太が階段を下りてくるのを待つ鈴巻は、トンッと胸を叩いてニヤリと笑った。
「はい……! ありがとうございます……!」
新太の笑顔が開いていくと同時にチャイムが鳴る。
もう遅刻扱いは確定だ。それでも新太は、この道草を怠慢だとは決して思わなかった。
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