8 清き一票を?
警察が学校に入り浸るようになった週の金曜日。少しばかり景色が変わったとはいえ、生徒たちも徐々に落ち着きを見せてきた。一時休止していた部活動も再開し、すべてが元通りになりかけている。
事件に無関係だと自他ともに胸を張れる生徒たちには、次第に自分の日常を取り戻す意欲が芽生え始めていた。頼成を失ったことへの悲しみを過去のものにしたい彼らにしてみれば犯人など誰でも構わなかった。
誰でもいい。誰でもいいから捕まって欲しい。早く事件を乗り越えて学校全体に普通の青春を取り戻す。ただそれだけを望むようになっていく。学校内に犯人がいるのなら、一刻も早く名乗り出ればいい。声には出さなくとも、彼らの胸の奥に潜めた思いは同じだった。
いくら自分が潔白だろうと、学校名が報道されてしまった以上は完全な部外者ではいられないのだ。
そのことを不満に思った生徒たちの鬱憤が溜まる速度も、事件に関するありとあらゆる噂が広がるのと同じくらい早かった。警察でも探偵でもない彼らは、自分たちの日常すらぐちゃぐちゃにした犯人を心のどこかで侮蔑し、勝手な憶測をも無意識のうちに愉しみ始めた。好奇や軽蔑が恨みとなって、彼らの中に秘めた本心が悪意となって牙をむく。
「騒がしいな。なんかあったのか?」
一週間の最後の日となる学校に登校したばかりの新太は、校舎に入るなり生徒たちの浮ついた声がさざめいていることに顔をしかめる。
「さぁ? なんだろ」
校門前で合流したクラスメイトの一人も、行き交う生徒たちの表情に違和を覚えて首を捻る。こそこそ何かを話す者、控えめに笑い合う者、呆れ顔で颯爽と立ち去る者もいれば、迷惑そうな面持ちでため息を吐く者もいる。これまで学校で見てきた朝の光景にしてはどうにも異質だ。
校舎に入ってすぐ目の前に続く廊下を歩く新太は、数人の生徒が自分のことを見ては目を逸らしていくという奇妙な行動に気づく。見られることには慣れているが、これは何かが違う。新太の勘が嫌な予感を拾う。
一階には教室がなく、多くの生徒が教室に向かうために大階段を使わなければならない。階段の下には壁一面に広がる掲示板があり、文化祭前にはたくさんのチラシがひしめき合って貼られていた。
しかし文化祭も終わり、次なる行事まで期間が空く今は、進路に関する情報くらいしか掲示されていない。だからその前で立ち止まる生徒もこの頃は少なかった。
けれど今、階段の下に辿り着いた新太の目に映るのは、掲示板の前に群がる多くの生徒の姿だった。掲示されている紙を見ようと、背伸びしたりジャンプする生徒までいる。
「なんだ? これ」
文化祭前ですらあまり目にすることのなかった光景に、新太は唇を歪ませる。隣にいるクラスメイトもぽかんとしたまま目を丸くしていた。すると、群衆の後方にいた一年生の女子三人が背後にいる新太の存在に気づいて肩を寄せ合う。
「あ……っ。桜守先輩だ……」
「ほんとだ」
「先輩……大丈夫なのかな……」
ちらりと新太のことを見やり、彼女たちは不安そうな表情を浮かべたまま彼のことを気遣うようなことを言い始める。集う生徒たちのざわめきに入り混じる彼女たちの内緒話。新太の耳は鮮鋭にその音に反応し、彼女たちのことを見る。
「わ……っ!」
目が合った一人の女子が肩を跳ねさせて顔を赤らめた。続けて二人も新太のことを振り返る。新太に見られていることに気づいた三人は、恥ずかしそうにその場から立ち去っていく。
いそいそと逃げるように駆けて行った三人を訝しげに見る新太は、もしやと思い掲示板へと視線を戻す。
「悪い。ちょっと通してくれ」
生徒の塊を肩でかき分けながら、新太はズンズン前へ進む。新太が現れたことに気がついた生徒たちは、彼に言われるままに道を開けていった。新太のクラスメイトも急いで彼の後に続く。
掲示板の最前列まで辿り着いた新太は、目の前に仰々しく掲げられた新聞紙一枚ほどの大きさのポスターを見上げた。
殺人者は誰か⁉ 大選挙実施中!
犯人候補は以下。この人だと思う人に投票してね
・目白透
・生天目芙美
・
・
見事当選された方は刑務所行き決定です。おめでとう‼
それぞれの名前の横には、正の字の投票がいくつか書き入れられている。
「なんだこれ……! おい……、ふざけんなよ……」
ポスターを目の当たりにした新太が声を震わせると、近くにいた生徒たちが一歩ずつ後退していった。
「桜守、こんなの気にすんなって」
唯一近くに残ったのは彼を追いかけてきたクラスメイトだった。新太の反応を窺う生徒たちが息をのむと同時に、彼は新太の肩に手を置いて、静かに目を見開いていく新太のことをなだめようとした。
「おい‼ 誰だ⁉ こんなの貼った奴……‼」
しかし新太の怒りを抑えられるはずもなく、クラスメイトの手は勢いよく振り返った新太によって払われてしまう。
「ふざけんな‼ お前ら事件のことを何だと思ってんだよ⁉」
新太の咆哮に、その場に居合わせた生徒たちは委縮したように肩をすぼめて目を伏せる。
「こんなことして、頼成先生の弔いにもなんねぇよ!」
生徒たちの方を向いたまま、片手でポスターを掴んだ新太は腕を下にさげて真っ二つに破く。紙が引き裂かれる音だけが吹き抜けの天井に響き渡った。
「誰の仕業か知らないが、事件を茶化すな。余計に捜査が混乱するだろ」
破ったポスターを握り潰して丸めた新太は、憤りを露わにしながら近くのゴミ箱に投げ捨てる。新太の睨みに、周りの生徒たちは顔を上げられなくなった。
「さっさと行くぞ。遅刻する」
「あ、ああ!」
沈黙が流れる廊下を、瞳孔が開いたままの新太は真っ直ぐに進む。クラスメイトも数秒遅れて彼の後を追った。残された群衆たちは、半分に破られたポスターを遠慮がちに横目で見た後で、それぞれの教室へ足を向ける。散り散りになった生徒たちの向こう側で、一人の生徒が掲示板を見つめて密かに唇を噛み締めていた。
午前中の授業は朝の出来事が原因であまり身が入らなかった。
悶々とした怒りを抱えたまま午前を終えた新太は登校中にコンビニで買った昼ご飯を片手に教室を出る。いつもは仲間たちとともに食べているが、今は一人になりたかったのだ。
掲示板のポスターのことを知っている仲間たちも、断りを入れて去って行った新太を同情の眼差しで見送ることしかできなかった。
できるだけ人のいないところへ。
それだけを考えていた新太が昼食の場を探して彷徨っていると、背後からトンッと背中を叩かれる。
朝の不快な出来事が消化しきれていない新太は、少し不満気な感情を瞳に滲ませたまま振り返った。
「なんだよ。随分と愛想がないな」
そこにいたのは透だった。片手には売店で買ったらしきパンを持ち、つまらなさそうにクスリと笑いかけてくる。
「いいんだよ。愛想なんてなくて」
「新太の数少ない取り柄の一つなのに?」
「透相手に愛想振りまいてどうするんだよ」
「それもそうか」
新太の回答が腑に落ちたのか、透はあっさりとした声で頷く。
「で? どうかしたの? 遠くからでも分かるくらい、曇天を背負ったみたいに落ち込んだように見えたけど」
透は新太の隣に並んであっけらかんとした様子で訊ねる。
「どうもこうも……お前、知らないのか?」
「なにが?」
「ポスターのことだよ。殺人者に投票を、ってやつ」
「ああ。あれか。随分と趣味が悪いよね。でも、ま、馬鹿なことする奴ってのはどこにでもいるし。皆もそろそろ鬱憤が溜まってきたってことかな。ガス抜きのつもりじゃない?」
「だからって、やっていいことと悪いことの分別くらいつくだろ」
「つかないから、事件が起きたんじゃないの? 人間って、そうでしょ」
「はぁ」
自らの名前が一番上に書かれていたにもかかわらず冷静な透の語調に新太は大きな息を吐いた。
「新太が破ったって聞いた」
「そうだよ。あんなの、さっさと撤去すべきだろ。学校は何やってんだよ」
「まぁまぁ。学校側も色々と手が回らないんだろうよ」
「お前はほんと、自分が容疑者だってのに落ち着いてるよなぁ」
「慌てたって何も変わらない」
「まったく……」
やれやれと頭を振る新太は、もう昼食の場所がどこでもよくなったのか、目の前に見えてきたベンチを目指し始める。二階に設けられたこの場所は、談話の場として提供されている空間だった。
自販機が並び、丸テーブルと椅子がいくつか置いてある。生徒の中では昼食の場としても定番のところだ。新太と透のほかに、何人かの生徒たちが昼食をとっている姿も見える。食事に夢中なのか、渦中の透が現れたところで騒ぐ者もいなかった。
「それで。他の候補者……芙美ちゃんのほかはサシャと瀬々倉先輩だったな。何か新しい情報でもあったのか?」
ベンチに座り込んだ新太はパンの袋を開けて透に訊いてみる。
「新しい情報がないから、あの顔ぶれになったんじゃないかと思うよ。俺と生天目は言わずもがな。秦野は不運にも俺の鍵を拾っちゃったし。彼女はアリバイがあるから大丈夫だと思うけどね。あと、瀬々倉先輩は……まぁ、評判通りというか」
透もパンの袋を開きながらそれぞれの顔を思い浮かべて答える。
「瀬々倉先輩って、頼成先生と確執でもあったの?」
新太はパンにかぶりついて頬をもぐもぐと動かした。
「詳しいことは知らない。事件の日、先輩が職員室にいたところを目撃した生徒がいるだけだ。職員室に行けば鍵の保管庫にも近づける。だから疑われてるってとこだろ。あ、でも、メディア部の活動中に先生が通りがかった瀬々倉先輩に声をかけに行くことは何度かあったな。まぁ、新太も知ってる通り、瀬々倉先輩は態度がいい生徒ってわけでもないし。変わらぬ調子って感じで確執も何も分からないよ」
「そうか」
「でも、メディア部の一人が言ってたんだけどさ。前に二人が喧嘩みたいなことをしてるところを見たらしい。そいつは簡単には情報を教えてくれないから、詳細までは教えてくれなかったんだけど」
「それ、誰だよ」
「
「やっぱり……」
名前を聞くなり、新太はがっくりと肩を落とす。
「とにかく、依然として有力なのは俺かな。指紋分析の結果も思った通りだったし」
透はパンをちぎって口に放り込む。
「そうだ。指紋の結果教えてくれてないよな。いつ連絡来たんだよ」
「一昨日」
「おい。聴取があったの火曜日だよな? 提出した次の日じゃねぇか」
「指紋分析にそんなに時間かからないでしょ」
紙パックの紅茶をストローで吸い込み、透は逆に不思議そうな顔を新太に向ける。
「結果も教えるほどじゃなかったよ。鍵自体についてたのは俺の指紋だけ。キーケースは、事件の日、床に落ちてたから汚れただろうなって思って拭いたから跡が消えちゃってたし」
「なんで拭き取るんだよ」
「だって汚いでしょ。廊下に落ちてたんだよ? うちの学校土足だし。そもそもトイレとか行く靴で皆歩き回ってるんだから」
「だとしても、証拠になるって分かってただろ?」
「そうかもしれない。でも」
透は紅茶を一気に飲み干してストローを口から外す。
「知りたくなかったのかも」
「え?」
新太は器用に片眉だけを上げて透を見やる。
「もし、俺が鍵を落としたせいで先生が殺されたなら。そう思うと、正気じゃいられない。だから、キーケースについた指紋を知るのが怖かった。結局、鍵に指紋がついてたら分かるし。まぁ実際にナイフには指紋が残ってなかったみたいに、犯人が手袋でもしてたら意味ないんだけど。せめてもの”逃げ”だったのかもな」
透は天井を見上げて電球のちらつきを一点に見つめた。
「そうか。ま、確かに鍵は拭いてないってんなら、あんまり変わらないか」
新太は右手で首筋を掻きながら納得したように繰り返す。彼なりの現実逃避というのなら、執拗に責める言葉も見つからない。
「そういや、保管庫にある鍵はどうなんだ? 生徒が自由に持ち出せたりするのか?」
「暗証番号が必要だから、どうだろうなぁ。一応、番号を知ってるのは教師だけってなってるけど。実際のところは分からないし」
「そっかぁ」
思考が行き詰った新太は、大きく口を開けてパンを思いきりかじる。
「警察は他に、どんな証拠を見つけてるんだろうなぁ」
「さぁ。それは分からない。新太のクラスに親戚に警察の知り合いがいるって人いなかった? そいつに聞いてみれば?」
「いいや駄目だ。あいつ、事件のこと怖がってるからあんま巻き込みたくない」
「はは。無駄に優しいな」
「お前とは違うんでな」
新太は嫌味っぽくニヤリと笑うと、残っていたパンを一気に食べ尽くす。
「タランチュラの件も結局分からずじまいか。透、何か知ってる?」
「ううん。知らない。警察もメッセージが隠されてるかもって疑ったらしい。でも結局、ただの見せつけじゃないかってことになってる」
「自分がやったってわざと跡を残したい奴とかもいるらしいしな。厄介な話だ」
新太の声が神妙に低くなる。透は静かな呼吸で新太に視線を向けた。
「新太」
「ん?」
「あんまのめり込むなよ? ポスターを破るくらいで済めばいいけど、もし、それ以上のことがあったら……」
「大丈夫だって!」
こちらを見てくる透の肩を豪快に掴み、新太は爽やかな笑顔を見せつける。
「こうしてないと、俺も落ち着けないってだけだ。冷静沈着なお前には分からないだろうが。もちろん、無茶はしないよ」
「そう」
透は言葉少なに相槌を打つと、食べ終えたパンの袋と紙パックをビニール袋に入れて口を縛った。
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