7 隠したアリバイ
一つの机を挟み、一人と一人が互いの顔を向かい合わせて未来の話をする。漠然とした不安を吐露することもあれば明るい希望に笑顔を弾ませることもあるだろう。生徒一人一人に対し、教師が真剣に向き合って、彼らの背中を押す。本来ならば、このシンプルな小部屋はそのように活用されるはずだ。
しかし今、生徒と向かい合う大人の顔は柔らかなようで険しい。
見事に取り繕われた尊厳の仮面をかぶった男は、目の前にいるえらく落ち着いた生徒に微笑みかける。
「それでは、またお話ししましょう」
机の中央に置かれたミントグリーンのキーケースに右手を被せ、スーツを着た彼は前のめりになりながら立ち上がる。
「はい」
滑らかに高い位置に上がっていく彼の顔を目で追いながら、透は両手を膝の上に乗せたままこくりと頷く。
「校長先生。ありがとうございました。先日もお訪ねした件で少しよろしいでしょうか?」
「ええ。さぁ、こちらへどうぞ。目白くん、今日のところはもう帰りなさい。疲れただろう」
「はい。失礼します」
扉の前に置いた椅子に座っていた校長は、スーツの警察官が近づくなりいそいそと立ち上がって透に目配せした。透明な袋に入れたキーケースを片手に携えた警察官とともに部屋を出ていく校長を見やり、透も席を立つ。
「目白。妙に冷静だったな」
さっきまで校長の隣で仁王立ちになって腕を組んでいた体育教師が透の背中をポンッと叩く。まるで労うような優しい力加減だった。両親の仕事を休ませることに引け目を感じた透の希望により、彼が保護者代わりとなってこの場に立ち会っていたのだ。
「知っていることを話したまでです。知らないことは話せませんから」
「おお。俺よりも落ち着いてるな、目白は。俺はあの警察官の蛇みたいなギラついた目が怖くてたまらなかったのによ」
「全然そうは見えませんでしたけど」
「威勢をはるのだけは得意だからな。この体格のおかげで」
体育教師は自らの胸筋を拳で叩き、不甲斐なさそうに笑った。
「とにかく。キーケースの指紋に何か出ればいいんだけどな……」
「そうですね」
進路指導室の電気を消す体育教師の声には明らかな気遣いが感じられた。廊下に出た透は、校長室へと歩いていく先ほどの警察官の背中を視界に入れる。
「どこで落としたのか覚えてないのか?」
「はい。警察に言った通りです。鞄に入れたまま、あの日は一度も外に出していないので」
「うーん。誰かに盗まれたとかかなぁ」
体育教師は顎に手を添えて頭を悩ませた。警察官が校長室に入っていくと、閉じられた扉の向こうから入れ替わるように一人の女子生徒が歩いてくる。艶のある長い黒髪、丁寧に切り揃えられた前髪を斜めに分け、瑞々しい表情をした彼女がスマートフォンに向けていた視線を不意にこちらに向ける。
「先生。それじゃあ俺は、そろそろ帰りますね」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「はい。お時間いただいてありがとうございました」
体育教師に向かって軽く頭を下げた透は、自分のことをじっと見つめてくる彼女のもとへ歩いていく。体育教師は踵を返して職員室に戻っていった。
「事情聴取、終わったの?」
スマートフォンを持った手を体側に下げ、女子生徒は目の前に来た透ににこりと笑いかける。事件当時透と一緒にいた彼女、
事件が起きるまで、新太と同じクラスの彼女は学校でも模範的な普通の生徒だった。大人しく控えめな性格で、穏やかな声も騒がしい教室の中ではかき消えてしまうほどだ。
目立つこともないが問題を起こすこともないため、妙な評判を背負うこともない。
だが事件が起きた今は、透と一緒にいたことが要因となり人の視線を浴びる機会が増えてしまった。当の彼女自身はそこまで気にしていない様子だが。
透はバックパックを背負い直した彼女の隣に並んで共に歩き出す。
「ああ。生天目も? ご両親は?」
「うん。さっき終わったよ。親は来れないから、わたしも先生が立ち会ってくれた。目白くんのとこには校長先生もいたんだねぇ」
芙美はくすくす笑いながら身を乗り出して透のことを上目遣いで見た。彼女がからかっていることはすぐに分かる。形容するのであれば綿に近い朗らかな声は、どこか泡沫を思わせた。
「今のところ、俺はかなり疑われてるから」
「鍵を落としたのは迂闊だったね。目白くん、もっとしっかりさんだと思ってたのに」
「それを言うなら生天目もだけど」
「ふふ。意地悪は禁止だよ? わたし、ちゃんと目白くんと一緒にいたことを言ったもん。目白くんのアリバイを証明できるのはわたしだけ」
「証拠なんかないけどな。あそこ、監視カメラないし」
ため息を吐く透を見て、芙美はまた花が揺れるように笑う。
「そうだけど。証人がいるのといないのとでは大違いだよ。ほんと、鍵のことがバレちゃったのは残念だったね」
「遅かれ早かれってところだろ。指紋採取するんだってさ」
「わぁ。結果が怖い?」
「いいや」
二人は校舎の出口に着くまでの間、互いの状況を探り合いながら会話のキャッチボールを続けていく。
「生天目は何か言われたりしたの? 頼成先生とそこまで接点なかっただろ」
「うん。どうして目白くんと一緒にいたのか、何時くらいのことか、どれくらいの時間一緒にいたかってことくらいしか深掘っては聞かれなかったよ。だからちゃんと答えた。嘘はついてない」
「俺となんの話をしてたのかも言ったのか?」
「ううん。それは言う必要ないでしょ。スーパープライベートな話だよ。警察とはいえ知らない人に言うわけない」
芙美は振動を感じたスマートフォンの画面をちらりと見た後で制服のポケットに入れた。画面の内容は透にまでは見えなかった。彼女はセキュリティ意識が高いのか、頑丈なのぞき見防止フィルターがしっかりと画面に貼ってあるからだ。
「まさか、目白くん言ったの?」
芙美はハッと息をのみ込んでから彼のことを見上げる。目が合った透は首を横に振り「言ってない」とだけ答えた。
「良かった。目白くんのこと嫌いになるところだった」
「もう嫌いなんじゃないの? 話もぶった切ったまんまだし」
「ううん。まさか」
校舎を出て、今度は校門を目指す。芙美は二人の前を横切って駆けていった数人の生徒にぶつからないように一度立ち止まり、肩をすくめた。
「目白くんのこと嫌いになってる場合じゃないもん。それに、目白くんなら言わないだろうって信じてたし」
「そう」
一歩前を行く芙美の後ろで、透は小さく呟いた。直近で同じような言葉を聞いたような気がする。
「新太にも同じことを言われた。お前のことを信じてるって」
「桜守くんが?」
「うん」
驚いたのか、芙美は目を開いて振り返る。風になびく彼女の髪がさらさらと夕陽を浴びていた。
「ふふふ。流石は桜守くん。真っ直ぐなんだね」
「ああ。そうそう。ついでに言えば、生天目が俺に告白したと思ってる」
「あはははは! それ、いいね! 本当にそういうことにしちゃう?」
水をはじくフルーツの如く弾けるように笑う芙美は、名案だと言わんばかりに手を叩く。
「こら。過去を塗り替えるな」
「だめ? 目白くんはやっぱり女子に興味ない? わたしたちが付き合ってるってことにしたら、色々と楽になるかもよ?」
「話を逸らすなって」
校門を出た透は呆れた調子で肩の力を抜く。彼の反応を見た芙美は、少しだけ残念そうに眉尻を下げて笑った。
「ごめんね。でも、わたしにもメリットがありそうだなぁって、思ったの」
「俺にもメリットがあるって? アリバイ以外で?」
「ふふ。そんなことないよね。ごめんごめん」
そう言いながらも楽しそうに笑う芙美のことを横目で見やる透は、口から微かな息を吸い込んだ。
「偽装とか、そういうことしたら自分を否定するのと同じだ。それはできない」
「うん。そうだよね」
透の実直な声を見上げ、芙美は目を細めて緩やかに微笑んだ。並んで歩く二人の間を流れる空気にしばしの沈黙が訪れた。気まずさはない。むしろ、正面から照らしてくる強烈なオレンジの暖かさに緊張感はほどけていく。
歩道の隣に並ぶ家々の前を通り過ぎ、二人は大通りまでの道を淡々と歩いていった。
あと少しで大通りに出る。角を曲がれば車が通り過ぎていく街並みが広がり、透は肌寒くなってきた空をちらりと見上げた。
脳裏には没収されたキーケースが浮かび、去りゆく無機質な警官の顔が微笑みかけてくる。透の意識が今日を振り返り始め、心が疎かになりかけた頃、二人は電柱のすぐ傍を抜けた。
すると、気のせいかと思うほど微かな機械音が背後から聞こえてくる。透も聞き慣れたその音は、カメラのシャッター音に似ていた。人通りの少ない今の時間、違和感を覚えた透は後ろを振り返る。
つい先ほど通り過ぎた電柱の近くで飼い犬の写真を撮っている一人の婦人の姿が見えた。スマートフォンの画面を食い入るように見つめる彼女は頬を綻ばせて愛犬の写真を何枚も撮っている。
「なんだ……」
ありふれた光景に何の感情も沸かなかった透は、ふと隣にある小さな頭を見やる。
「生天目?」
「えっ……? なに?」
ぼんやりとした様子の彼女の瞳を窺うように身体を屈める透に気づき、芙美はびくりと肩を上げて透と目を合わせる。
「どうかした? 大丈夫?」
「うん……! 大丈夫だよ。なんでもない。宿題あること忘れてて、今、思い出したんだぁ。へへへ、焦っちゃった」
芙美の瞳に夕陽が宿る。あはは、と恥ずかしそうに頭を掻く芙美に対し、透は「そう」と相槌を打つ。
「じゃあ、わたしは宿題のためにちょっとカフェに寄るから、こっちに行くね。目白くん、話せて良かった。またね」
「あんまり遅くまで居座るなよ?」
「分かってるって。ふふ。じゃあねー、バイー!」
大通りに出た芙美は、駅がある方面とは逆の方向に身体を向けて透に手を振る。
大きな夕陽に溶けていく彼女の影をしばらく見送り、透は反対側へ足を進めた。
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