容疑者は俺の弟らしいって

冠つらら

1 ステンドグラスの下で

 屋上へ続く階段を行けば、そこは別世界のようだった。背の高い壁の上部からはたおやかな色彩が差し込み、穏やかな昼下がりの時を伝えてくれる。来る者が誰であろうと、必ずや郷愁の時に思いを馳せる空間だ。

 光に包まれた刹那、行き先すら忘れてしまう。くるりと身体を回し、あと数十段足を上げれば無機質な分厚い扉に辿り着く。が、普段は閉ざされたその頑丈な扉は、鍵を持つ者以外を厳重に拒絶する。

 つまりは、屋上に出る権利など多くの者にはないということだ。安全のための規則が染みついた生徒たちは、この階段に来ても無駄だと分かりきっている。実際にこの場所を訪れる機会も少なかった。


 一方で、敢えて静けさを求めて足を運ぶ者たちもいた。理由など単純で、何の変哲もない校内の景色の中で唯一、ここでは瀟洒な趣を感じられるからだ。

 一階から六階までの長い道のりを息を切らして登った先で顔を上げれば、太陽を模したステンドグラスが目に入る。感情の読めない三日月型の瞳が放つ芸術的な自然光は、見る者の疲労を感じさせる暇もなく心を奪っていく。

 ここが学校だということを忘れてしまうほどに耽美なさま。

 心を浮つかせる幻想の雰囲気は、意を決した勇者たちの絶好の味方となる。ちょうど太陽が地上に近づいてくるこの時間は特に都合がいい。緊張で身を震わせる彼らのことを、太陽が温かく包み込んでくれるのだから。

 陽日に背中を押され、目の前にいる人に素直な想いを告げることができるのだ。


 また、二人の生徒が踊り場に姿を現した。

 時は放課後を迎えており、校庭からは運動部の掛け声が聞こえてくる。手入れの日なのか、植栽を刈る豪快な機械の音がそこに混ざっていく。階下から響き渡るのは吹奏楽部の楽器たち。校内に満ちた雑多な音など耳にも入れず、彼女は身体の前で結んだ指先に力を入れた。


「だから……っ! お願いします……!」


 愛らしく膨らんだ頬を染めるほのかな色をステンドグラスの明かりが強調する。なだらかに上がった睫の下で、彼女の黒い瞳が切なく揺らぐ。

 ぐらぐらとした瞳に真っ直ぐに映るのは彼女よりも背の高い男子生徒だった。

 陶器を連想させるすっとした端正な顔立ちで、多少崩しているのに清潔感のある制服の着こなし。くっきりとした二重瞼にかかる長さの前髪は、後ろからも持ってきているのか少し重い。が、暗さは感じさせない。頭頂部の丸みに沿いながら段をとって流れていく後ろ髪は無造作のようにも見えた。しかし計算外の癖のないスマートな仕上がりは、恐らく自身で意図した形に髪を整えているのだと推測させる。


 自分を見つめる女子生徒に視線を返す薄茶色の瞳には、微かな困惑が見てとれた。彼が黙ったままでいると、彼女はこみ上げてくる感情を抑えるようにごくりとつばを飲み込んだ。

 彼女の表情に恐れが広がっていくさまを目の当たりにし、彼はついに堪えていた言葉を発しようと鼻先に息を通す。


「……生天目なばため、俺────」


 耳触りの良い声が踊り場に響く──と、まさに同時。

 すぐ近くの廊下から、けたたましく扉を叩く音が校舎を二つに割りそうな勢いで轟いてくる。


「せんせー! 開けてくださーい! 先生ー‼」


 威勢よく扉を叩く音に続き、一人の生徒の声が聞こえてきた。周りの迷惑などものともしない無邪気な彼の声の周りでは、何人かの生徒の声がざわついているのが分かる。


「何事だ?」


 踊り場に佇む二人の間に割って入ってきた突然の喧騒に、口を開きかけていた男子生徒の視線が階下へ向かう。


「ちょ、ちょっと目白めじろくんっ! まだ話の途中……!」


 今にも声のする方向へと足が動き出しそうな彼に対し、女子生徒はすかさず身を乗り出して通せんぼしようとする。


「悪い。生天目。あれ、多分メディア部の連中だから」

「そんなこと言ったって」

「ほんと悪い。続きはまた今度」

「はぁああっ⁉」


 彼女の懇願に両手を合わせて中断の断りを入れた彼は、流れるような動きで階段を下りて声のする方へ駆けて行った。一人残された女子生徒は当然納得など出来ず、素早く彼のことを追いかける。


「目白くん! 今度じゃ困る──」

「おい。どうしたんだ。何かあったのか?」


 階段を下りて廊下を真っ直ぐに行ったところに数人の生徒たちが群がっていた。彼らが囲う部屋の扉の前に躍り出た彼は、すぐに追いついた女子生徒に袖を引っ張られながらも事情を聞こうと彼らに声をかける。彼らの頭上には、”メディア室”と書かれた札が掲げられていた。


「あ。目白。今日さ、この前の投票の結果を記事にしようと思ったんだよ。先生にも今日やりますって言ってさ。で、メディア室を使っていいよって言われてたんだけど、鍵がかかってるみたいで開かないんだ」


 坊主に近い短髪の男子生徒がドアノブをがちゃがちゃと揺らす。


「職員室に行ったら、頼成らいじょう先生がもうメディア室にいるから鍵は開いてるよって言われたんだけどなぁ」


 短髪の彼は不思議そうに首を捻った。


「目白、鍵持ってるよな? かわりに開けてくれない?」


 短髪の生徒の隣にいた別の、髪色の明るい男子生徒がひょっこりと顔を覗かせる。


「いいけど。皆どれくらいここで待ってたの?」


 女子生徒の恨めしそうな視線をさらりとかわし、目白と呼ばれた男子生徒は肩にかけていたバックパックを下ろす。


「五分以上は待ったかな。扉叩いても全然反応ないし。先生、昨日も寝不足だって言ってたし寝てんのかな」

「文化祭が終わって疲労も溜まってるんじゃないの」


 バックパックの中をごそごそと漁る目白は、教師のことを同情するように笑う。


「授業中は寝るなよーってうるさいのになぁ。それを言う先生が昼寝かぁー。放課後とはいえ勤務中なのに。入ったらからかってやろ」


 短髪の生徒は両手で後頭部を支えて斜め上を見やる。けらけらと笑う彼の声には悪意は感じなかった。部屋から締め出されたことに対する単純な仕返しを考えているだけなのだろう。目白はそんなことを思いながら、バックパックの中にやった手に違和感を覚える。そんなはずはないとは思いつつ、疑問が頭をよぎった。

 いくらバックパックの中を探しても、指先に馴染みのある感覚が触れることがないからだ。


「……ん?」

「どうした目白?」

「いや……鍵が……」

「もしかして失くした?」


 短髪の生徒が目を丸めて目白を見る。


「おかしいな。確かにここに入れてたはずなんだけど」


 バックパックの口をがばっと大胆に開けた目白は首を傾げて中を探った。

 表情は冷静なままだった。しかし内心動揺している彼の様子に気づいた女子生徒は彼に向けていた冷たい視線を緩める。睨むことをやめ、バックパックの中を一緒に探そうと前のめりになった。

 一同が目白のバックパックに釘付けになる異様な光景となった。そんな彼らのもとに、涼やかな足音が近づいてくる。


「ねぇ。これ透くんのでしょ? 廊下に落ちてたよ」


 すらりとした脚の長い女子生徒が、手に持った革製のキーケースを目白に向けて伸ばす。


「どこに落ちてた?」

「三階の階段の近く。色が珍しいから覚えてた」

「ありがとう。秦野はだの

「いーえ。ところでなんの騒ぎ? みんなして集まっちゃって」


 ミントグリーンのキーケースを目白に渡し、彼女は長い腕を背中で組みながら扉の前に集う生徒たちを見回した。三つ編みにした髪はクリーム色を混ぜたようなブロンド。ヘーゼルの瞳の彼女と目が合った短髪の生徒は、閉ざされた扉を親指で指してみせる。


「先生が開けてくれないんだよ。たぶん寝てるから、サシャもなんか言ってやってくれよ」

「なんで私が」


 背の高い彼女はため息を吐き、呆れた眼差しで彼を見やり、肩の力を抜いた。

 目白は受け取ったキーケースの中からメディア室の鍵を取り出し、躊躇うこともなく鍵穴に入れる。口が開きっ放しになったバックパックをもう一度肩にかけ、そのまま彼は鍵を回す。


「目白くん、先生を起こしたら、さっきの続きを」

「生天目。分かったから服を引っ張るな」


 掴めなくなった袖の代わりに彼の皺ひとつない制服のシャツを引っ張りはじめた黒髪の彼女を目白は横目で窘める。折角いい具合にベルトで抑え込んだシャツがすぐにでも飛び出てきそうになっていた。


「ほら。開いたよ」


 目白は解錠した扉を開けて短髪の生徒に呼び掛ける。


「おっ。ありがとう目白!」


 彼は長身の女子生徒との会話を止め、タッと一歩前に飛び出す。


「頼成先生! ひどいじゃないっすか! 一人だけで楽しんで────」


 さっそくからかおうと陽気な声を出す彼の声が不自然に途切れた。

 バックパックの口を閉めようとしていた目白と、彼にぴったりくっつき逃がさないようにしていた女子生徒も、思わず部屋の中へと視線を向ける。


「おい。今度はどうした──」


 茫然と立ち尽くし固まってしまった短髪の生徒の肩を叩き、目白は彼が見ている視線の先をはっきりと瞳に映す。

 彼と同じものを認識した途端、目白の肩からバックパックが落ちていった。女子生徒も目白の隣から顔を覗かせ、数秒もしないうちにすぐに両手で顔を覆って声にならない悲鳴を上げた。

 短髪の彼が言った通り、先生が一人の空間を楽しんで昼寝をしているのならまだ良かった。しかし実際に彼らを迎えたのは目を疑う衝撃だった。

 生徒たちの瞳に映るのは瞼を閉じた教師の姿で、これは予想通りだ。天井を仰ぐ顔だけを見れば眠っているように見えたはず。


 彼は椅子に座り、項垂れるようにして背もたれに身体を預けたままだらりと腕をぶらさげている。見慣れたはずの教師の肌からは色が消えていた。脱力し、重たい肉の塊となって静かに皆を待ち受けていたのだ。

 彼に残った色は、左の胸元にべったりと染み出し滲んだ赤の浸食だけ。椅子のすぐ近くにはギラリと輝く鋭利なナイフが落ちている。ナイフにもまた血が滴っていた。だがその刃先は見えず、床を這う不気味な大蜘蛛の胴体を貫いて絨毯を刺している。この場に不釣り合いな肉厚のある蜘蛛もまた、その場から動く気配はない。


「な……なんだ……これは…………」


 短髪の生徒の口から声が漏れた。

 部屋の中は特に荒らされた様子もなく、ただ教師と蜘蛛の二つが時が止まったかのように留まっているだけ。彼らの身体には既に一切の動きがない。


「せっ……先生! 頼成先生! せんせい! せんせえぇっ!」


 変わり果てた教師の姿に息が止まった一同の静寂を切り裂いたのは短髪の生徒の叫び声だった。

 椅子でくったりと倒れている教師のもとへ駆け寄り、彼は反射的に流れ出てきた涙に構わないまま教師の力尽きた肩を揺らす。


「おい……っ! やめろ。そんなことしたら……!」


 ハッと意識を目覚めさせた目白は彼を止めようと慌てて教師の身体から短髪の生徒を引き剥がそうとする。これは明らかに何かがあった証拠だ。現場を荒らしてはいけない。目白の頭によぎった精一杯の判断だった。


「生天目! 早くこのことを学校に知らせろ!」


 どうにか短髪の生徒を引き離した目白は、続けて顔が青白くなっている黒髪の女子生徒へ指示を出す。


「う……っ、うん……っ!」


 気を失いそうな顔をしていた彼女は、長身の女子生徒とともに廊下を駆けて行った。


「一体、何があったんだ?」


 窓を見やればそこは確かに閉じられている。自分たちが入ってくるまで、この部屋の唯一の入り口自体にも鍵がかかっていた。つまり先生はしばらくの間ここに一人でいたはずだ。

 メディア室は六階。万が一窓から逃げるにしても忍者でもなければ逃避は至難の業となる。そもそも窓にも鍵がかかっているので、何者かがそこから逃げた線は薄い。彼が自らの手で胸を刺した可能性もあり得た。しかしそれにしては不可解な点が多い。この場所で命を絶ったのは彼だけではないのだ。見事に身体の中央をナイフで捕らえられた奇妙な大蜘蛛。まさか蜘蛛が彼を刺したわけでもあるまい。


 様々な憶測が一瞬のうちに目白の頭に流れ込んできた。何か手掛かりはないかと部屋を見回す。すると、目白の視界に鮮やかなミントグリーンが飛び込んでくる。扉の入り口に情けなく倒れているバックパックから落ちたキーケースが目白の思考を澱ませていく。外から鍵をかけられる人間も限られているのだ。不快な脈拍が血管を伝っていった。

 目白は眩暈で倒れそうな身体をどうにか堪え、泣き崩れる短髪の生徒を落ち着かせようと彼の肩を抱き寄せた。

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