第5話 あいつと私

 単語帳のページを繰っていると、小林樹が視界の隅のドアから車内へ入ってきた。

 なるべくそちらに目をやらないようにしながら、彼が目の前の長椅子の角に座るのを、それとなく見守る。


 野球部の小林樹は、校内一の努力家だ。

 この時間の電車に乗っていたのは、彼の方が先だから。

 私の方が先だったら、大手を振って私が一番だと言えたけど。


 毎日同じ時間の電車に乗って、毎日二人だけのグラウンドで汗を流すうちに。

 私はなんとなく、彼を目で追うようになってしまった。


 別にイケメンではないし派手さもない。

 同じクラスの野球部のやつに聞いた限りでは、特別野球のセンスがあるわけでもない。それなのに、なぜか気になってしまう。

 その「気になる」感じは、日が経つにつれてますます強くなっていった。

 

 2年の時、大きな大会を目前にして、怪我をしたことがあった。

 正直、心が折れそうになった。泣きそうにもなった。

 でも、泣かなかった。

 泣いたら今の悔しさが全部、晴れてしまいそうな気がしたから。


 当時の私は、同じクラスの畑中から、小林のことをそれとなく聞き出していた。

 彼との接触が増えたせいで、一時期あらぬ噂が立てられたらしいことは、最近亜美から聞いたけど。


 ともかくその畑中の見立てだと、小林はベンチ入りメンバーの当落線上にいるらしい。そう聞いた時、私はなんとなくこう思った。


 1年近く、スタンドから他の部員を応援していた小林がもしベンチ入りできたのなら、私にだって、やれないことはない。私だって、この怪我から復活できるはずだ、と。


 だから、心の中でこっそり彼を応援した。

 奇妙な話だけど、彼のベンチ入りにこれからの私がかかっていると、半分本気で信じていたから。

 まあ、願掛けのようなものだ。

 当時はメンタルがおかしかったので、そのくらいは許して欲しい。


 毎日、私のいなくなったグラウンドに一人出て、一人汗を流す小林。

 その光景を教室からずっと見てて、その後彼がベンチ入りを果たしたと聞いた時。


 私は初めて気付いた。

 自分の中に、願掛けとは最早関係ないところで、純粋に彼の勝利を喜ぶ自分がいたことに。


 でも、ベンチ入りしたらしたで。

 今度は小林が試合で活躍できるのかとか、そもそも試合に出られるのかとか、そんな不安が湧いてきた。

 おかしな話だ。彼本人とは、一度も喋ったことがないのに。


 それで、お守りを作った。

 試合で活躍できますように、試合に出られますように。

 そんな思いを込めて、作った。


 できたお守りは、畑中経由で渡してもらった。

 私本人から彼に渡すなんて、とてもじゃないけど無理だったから。


「私の名前は、出さないで。畑中が作ったってことにして」


 とも条件を付けた。

 だって、たぶん彼は、私のことなどそんなに気にしていないはず。

 話したこともない女子から急に手作りのものを貰ったところで、重いと思われるだけだろう。


 畑中は気にし過ぎだと思うけどな、と言ってくれたけど、そこだけは頑として譲らなかった。

 結局、彼は折れてくれた。目立つところに結んどけって言っとくよ、と笑っていた。


 翌日、電車に乗ってくる彼の鞄に、私の作ったお守りが結ばれているのを見つけた時。言いようもない幸福感を覚えた。

 にやけが止まらず、英単語帳で必死に口元を隠した。

 でも、もしかしたら小林には、バレていたかもしれない。


 迎えた最終学年。

 昨年の反省を踏まえ、私は怪我しない程度に自分を追い込むよう、細心の注意を払って練習した。記録会ではいつになく良いタイムを出すなど、調子は最高。

 今年こそインターハイに行ける、いや、行くんだと心の底から思い込んでいた、そんな矢先。


 隣のクラスの小林と亜美が、付き合っているという噂を耳にした。

 亜美と小林は席が前後で、二人がよく話しているところを見かけるらしい。


 まあ、亜美は誰とでも「よく話す」から、それだけじゃ根拠としては弱い。

 私と畑中の間に立てられた噂だって外れてたんだから、そもそも噂なんて当てにならない。そんな風に必死に言い聞かせてみても、不安は拭えない。


 そこまできてようやく私は、ある一つの事実にはたと気が付いた。

 話したこともない男の子に、私は恋をしているのだと。


* * *


 朝練を終え、授業を終え、放課後の部活を終えた後の帰り道。

 亜美と二人すっかり暗くなった道を歩いていると、彼女が不意に、


「そういや、スズにあげたいものがあるんだった」


 と鞄をごそごそし始めた。

 急に何? と思いつつも、私は彼女を無言で見守った。

 しばらくして、亜美が取り出したものを右手に掲げる。


「じゃじゃーん! こちらのキーホルダーです!」

「……猫」

「そう、猫! ちょっとスズに似てるような気がして、買っちゃいましたァ」

「……私に?」


 亜美の掲げたそれをしげしげと眺めた。

 確かに、こういうのは嫌いじゃないけど……。


「この猫、ちょっとブサイクじゃない?」

「ええ!? そんなことないでしょ! カワイイよ、だってスズに似てるんだよ!?」

「私に似てるからって、カワイイとは限らないと思うけど」


 言いながら受け取って、もう一度じっと見つめる。

 やっぱり、ちょっとだけブサイクだ。

 でも、妙にクセになるような形をしているのも事実。


——そうか、あいつに似てるのか。


 そこに思い至ると、急にその猫が愛おしく思えてきた。

 もちろん、あいつは別にブサイクじゃないし、なんならこの2年で随分凛々しくなったような気がするけど、そういうことじゃなくて、このクセになってしまう感じがちょっと似ている。


「……ありがと。嬉しい」


 自然と顔が綻ぶ私を優しげな目で見つめていた亜美は、


「ちゃんと、鞄の目立つところに付けとくんだぞー。親友の愛は重いからなー?」


 と冗談っぽく私を肘で突いてきた。

 やめてよ、と笑いながら、言われた通り、そのキーホルダーを鞄の持ち手に付ける。


 噂を聞いた時の不安が晴れたわけではないけれど、心はどこかスッキリしていた。


 亜美相手なら仕方がないか。そう思えた。

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