二歩進んで四歩下がったら急ぎ足で七歩進めばいい②
鯉川が冒険者になって二週間と少し。それまで毎日のようにダンジョンに入ってきたが、その多くは出口から数百メートルの間を行き来する低層ループだけであった。それが低層ループを脱して初日で宝箱にありつけるなど――それもレアドロップの確率の低い1階層では滅多にない幸運である。自然と鼓動が早くなっているのに彼は気づく。そんなうまい話など存在しない、そう思いながらも彼は震える手で宝箱を開けた。
中身を見てとっさに息が漏れた。
決して金銀財宝なんかではない。だがそれは彼にとって――いや人類にとってあらゆる財貨に変えられぬほどの価値を持つものであった。
「……スクロール……はっ……」
いつのまにか彼は笑っていた。
自分が笑ったのなんていつぶりだろう。すでに衰えてしまっていた表情筋のせいでぎこちない苦笑いを浮かべた彼は、動物の毛皮で出来たスクロールを手にするとポーチの中にしまった。昨日の巨大な紫色の魔石も含め、まるでなにか自分に追い風が吹いているかのような気までしてくる。これまで感じていた疲れなどすべて吹き飛ばしてしまったかのようだ。
とうぜんそんなことはないのだが、依然として早まる鼓動を抑えようと彼は何度も深呼吸をする。だがやはり胸を浮かせる高揚感は消えることはなかった。
まずは一階層の探索を終わらせるべきだ。
そうむりやり納得した彼はすぐに進んでいった反対の方へ向かっていく。二つの分かれ道に戻った彼は、先程選ばなかった道に歩き出した。
そのままゴブリンに遭遇することなく数十分ほど。
ついに彼はたどり着く。
一階層の出口とおなじ銀色の時空の狭間。
二階層へと続く入り口の前で彼は足を止めた。
これでいちようは一階層の探索は終わったことになる。あとはそのまま来た道を反転して、ゴブリンの襲撃に耐えながら地上に帰還する。
これが彼の当初の計画であった。
だが彼は思い出す。昨日に続き今日にまで起きた幸運のことを。そして大和なる大男の背中を――つまるところこれは感情の問題であるのだが――彼に戻るという選択肢は存在しなかった。
レアドロップ率は階層が上がるごとに高くなる法則性から、三階層とまではいかなくとも、一階層よりは二階層のレアドロップ率は高い。といっても些細な違いしかないのだが、一階層であのような幸運が続いた彼としては、どこか期待を抱いてしまっていたのだ。
携帯食料はあと一つ。水も300mlは残ってる。大丈夫だ、そう自分に言い聞かせながら鯉川は銀色の狭間の中へ沈み込んだ。
冷たい水に全身が包まれる感覚がする。
そして銀色に染まった視界がだんだんともとに戻っていく――そんな彼のわき腹と背中に強い衝撃が走った。
「がっ⁉…は……ぐ……」
喉の奥から血がこみ上げてくる感触を覚えながら、彼は訓練所で習ったことを思い出した。狭間に入り込んで別の空間に移転するさい、体と意識の間でタイムラグが生じる現象が起こるという。つまりいま自分はさきに転移した肉体をだれかに鈍器で殴られ、壁に背中を打ち付けた――彼は今だ朦朧とする視界の中で今起きた現象をなんとか整理していく。
通称リスキルと呼ばれる――転移時に近くに居たモンスターの奇襲に、彼もあう羽目になったのだ。体験者が軒並み死んでいるため、これはあまり知られていないが、仲間との連携や相互補助がとれないソロ冒険者の死因の何割かはこのリスキルによるものである。
「……馬鹿め」
彼は壁を背にして、激痛に悶えながらなんとか立ち上がると、今だに訓練所で習うような初歩的なミスを犯す自分を、そして奇襲を成功させ慢心した愚かなゴブリンを罵倒した。
だが彼のミスはこれだけに続かなかった。
「……オーク…」
視界がはっきりとしない中で、相手が戦い慣れていたゴブリンであると思い込んでいた彼は、口から血を吹き出すほどの重症のなかでも、すぐにポーションを飲もうとしなかった。
なぜこんなところにオークがいるのか。
いま彼が潜っている世田谷区のダンジョンではオークが出てくるのは三階層からだ。二階層は武器もちゴブリンとスライムのはずであった。
彼が現実を受け入れるのに消費した数秒が有ればポーションを飲むこともできたかもしれない。だが彼はまたミスを犯してしまったのだ。
彼が二階層にオークが現れ、そしてリスキルを狙われたという現実を飲み込むのに浪費された数秒は、オークに生き延びた敵の追撃を決めさせるのには十分な時間であった。
迫りくるオークの巨大なハンマー。
視界がだんだんと武骨な影にのまれていく。
「……っ」
鼓膜に激痛が走るほどの甲高い金属音が、彼の後ろの方で鳴り響いた。
なんとか紙一重で避けれた彼はポーションを取り出すと同時に、オークの方を振り向く。
オークの振りかぶった巨大な金属のハンマーは通路の壁にひびを入れていた。
「puangoaaa!!」
再生されていく迷宮の壁をよそに、オークは雄たけびをあげながら突進してきた。
すでにポーションを飲み干したといっても所詮は低級である。内臓の損傷が和らぎ、多少痛みがひいた程度で骨折が治ったわけではない。
今彼が立ち上がれているのは、怒りとか恐怖、愛などといった漫画の主人公が発揮する火事場の馬鹿力ではなかった。単純に訓練生時代の中で身に着けて来た70㎏の筋肉によるものだ。
だが目の前でまたハンマーを振り上げたオークの推定体重は300㎏に相当するといわれている。人類最強の力士ですら平均体重は150㎏ほど。体重が二倍もある相手に対して戦うには道具を使う以外で勝つ方法は存在しない。
では体重が四倍、レベルは二倍、同じ武器もちのオークとなればどうであろう。
同じ人間同士であればともかくも、オークと人間ではそもそもの基礎的な身体能力が異なる。その中でレベル差が存在すれば勝つことは100%不可能だ。
極端な例を出せば、レベル100のネズミがレベル1のドラゴンに勝てないように、種の壁とはレベルによって簡単に超えられるものではない。いくつもの戦闘技術に、場の流れを読むセンス、類まれない集中力、そして強力な武器と防具に、信頼足りうる仲間たち、そして運にめぐまれて初めて勝つことができるのだ。
つまり今の彼では戦いにすらなれない。
低層ループをやめた初日で一階層を強行突破した疲れも重なり、彼の動きは少しずつ衰えていく。対してその巨体ゆえにオークは10㎏もある巨大な金属ハンマーを軽々しく振りかぶった。
避けきれない。
肩に強い衝撃を感じた。
痛みは感じなかった。ただ鎖骨が砕ける音と共に、左肩の感覚が消失していく。
このままでは…死ぬ。
死にたいの人間にオークはあざ笑うかのように顔をゆがめた。
油断するオークをよそに彼はとっさに武器をしまうと、ポーチから先程のスクロールを取り出した。
くそ…これなら最初にやっておけばよかった。
後悔先に立たずとはよく言ったものだ。彼はいま数えきれないほどの後悔を包まれていた。
彼はスクロールを開く。紫色の光を放つ魔法陣を見た瞬間――彼の頭の中にそのスキルの情報が入り込んでいった。
そして彼は右手をオークの前に突き出しちいさく呟いた。
「………アイテム収納」
その声と共に、オークの肩に担がれたハンマーが音もなく消え失せた。
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