第11話 曇り時々晴れ

9月1日午前九時。鯉川は起床した。

薄い白色のカーテンから差し込む朝日が顔の右側だけを異様に熱くしていく。つけっぱなしだった冷房は朝方の計画停電により止まっていた。汗でびしゃびしゃになった白シャツを脱ぐと、男はカーテンを引きはがす。路上に誰も居ないことを確認した彼は布団の横に捨てられていたヨレヨレの服に着替えると、朝食の準備に取り掛かった。


冒険者になって2週間以上が経っているが、早くも男の食生活には変化が見られた。

彼がよく食べていた一食50円の格安カップラーメン――30歳未満の国民は半額切符を政府から支給される――から彼の両手より大きいどんぶりには山盛りの白米が乗せられていた。


この時代において白米5キロは1グラムの金に等しい。なにせ10年前の世界特殊紛争と、その2年後に起きた第三次朝鮮戦争、第二次台湾統一戦争、そして沖縄と対馬を占領された第二次日中戦争――ほぼ同時的に起きたこれらの総称としてアジア大戦とも呼ぶ――によって大小合わせて30の戦略小型核ミサイルと4000発の中・短距離ミサイルが降り注いだ日本では都市部のインフラに限らず多くの農地が汚染され、また農業従事者の多くを占めていた高齢者が餓死、殺害されたことにより食糧自給率は20%に減少していたからだ。日本の食糧生産力は壊滅レベルの状態であった。


一袋20000円もした白米が山盛りに盛られたどんぶりを彼は大事そうに抱えて、既におかずが乗せられたちゃぶ台の前に座った。


おかずは相変わらずのトマト、そしてインスタントの味噌汁にヨーグルト味のプロテインであった。当然のことながら鯉川にも味覚はある。おいしいとか不味いとかの概念も当然知っている。しかし極たまに行く外食を除いて、日ごろの自炊による食事は彼にとって栄養摂取という意味しか持っていなかった。食材をおいしく調理するのは金をとるためにやることであり、生きるためには不必要な事であると言うのが彼の考えであった。そして同時に今の彼にそのような料理をする時間的、精神的余裕も興味も持ち合わせていなかったのだ。


彼は先に味噌汁をおかずに山盛りの白米を口の中に放り込んでいく。目を瞑ると秘かな甘みが口の中を刺激し、唾液があふれ出した。


それを白米に混ぜ合わせながら彼は咀嚼を楽しんでいく。その後はビタミンと食物繊維を含んだトマトを食し、最後に少々の粘り気があるプロテインを一気に流し込む。


そして彼は立ち上がりアパートの扉を開けた。外のまぶしさに目を細めながら彼はいましがた摂取した食事のカロリーとタンパク質をおおよそ計算つつ階段を下りていく。


そしていつも通りの住宅街を抜け、電車に乗り、赤茶色の住宅街を眺めて、最後の機械音と共に彼は電車から東京の駅のホームへ足を踏み出した。


時刻は11時を少し過ぎたあたり。冒険者ギルドに保管されている自身の武具を装備すると、小さなポーション片手に彼は今日も今日とて迷宮に潜り始めた。



うす暗い通路を彼は音がすれないようゆっくりと踵を踏みしめて歩いて行く。彼が今着ている政府から支給された初心者用装備の一つである強化プラスチックで補強された靴は、同時に靴底に靴音対策としてのクッションが敷き詰められている。だがそれでも完璧に音が消える訳ではない。


この2週間の内にすでに以前の冒険者と接敵したと思われるゴブリン――相手がゴブリンであることから、油断した初心者が、逆に殺されたのだろう――との戦闘にも遭遇した彼にしてみれば油断はゆるされない。


それが例え1階層のホップしたての、つまりは人間と接敵した可能性が低いモンスターを相手にしていても、生存の確率を高めるためにはできるだけ不安要素は消した方がよい。この地味で無駄に自分の命がかかった歩き方は、人間の最大で50分ほどしか続かない、それも15分毎に段階的に落ち込んでいく集中力をゴリゴリと削っていった。


といっても一階層なのだ。しかし彼は本気であった。自分は一人。頼れる仲間は存在せず、迷宮の性質上、偶然同じ迷宮に入り込んだ冒険者と出会える可能性は百分の一よりも低い。そして安心安全とうたわれていようと、何の特殊な素材も使われていない強化プラスチックの装備と量産化された剣と盾、気休め程度のポーションが彼の持つ全てであるのだから。


候補生時代に鍛え抜かれた70キロの筋肉の塊をもってしも同レベルのゴブリン――モンスターのレベルは階層と比例していることが鑑定というスキルで判明している――とやっとタイマンを張れる程度なのだ。


彼はたまにニュースでみる、未発見のダンジョンに不法侵入した元高校生の死体とは異なり、自分の能力を過信していなかった。


その中でもっとも恐ろしいのが不意打ち、そして人間との戦闘経験のあるモンスターである。なにせ冒険者の多くが、しっかりと戦闘訓練の積んだ人間との死闘を繰り広げた経験などないのだから。もちろん犯罪を犯してなければの話しだが、多くの冒険者にとっては候補生時代の教官や同期との『模擬戦』しか経験はない。そのため冒険者との死闘を繰り広げ、それに打ち勝ったモンスター、そのなかでも人型のモンスターの中には二足歩行特有の戦闘スタイルや癖を見抜き、また学習してその技術を取り入れる存在も確認されている。


以前話題になった100人切りの異名をもつホブゴブリンはその典型例であった。話題になった時点で既に分かっているだけでも100人が犠牲になっており、ニュースに取り上げられてからはその特異的なモンスターと戦うため、人切りが出現するダンジョンに多くの冒険者が入り込むようになったことで、さらに被害は増え続けた。そして被害が出るたびに冒険者、人間という存在を学習していくゴブリンは階層以上のレベルを積みあげ、知識を蓄えてさらなる被害を広げていった。


最終的には当時日本最強とうたわれたトップ冒険者と自衛隊の対特殊生物対策部隊の臨時パーティーが討伐に成功したが、このようなヒトを知ったモンスターはとりわけ人間の足音や臭い、息遣いに異様なほど敏感になると言う特性を兼ね備えていた。


それを一階層で危惧する彼はまさに病的な心配性なのかもしれない。しかし既に彼はヒトを知ったゴブリンと遭遇しているのだ。かの存在は既に40体以上のゴブリンを殺害した彼にとって、ゴブリンがいかに恐ろしい化け物かを――消えつつあった古傷を思い出させるきっかけとなった。


隠しきれなかった小さな小さな靴底と地面が擦れる音、その瞬間壁の曲がり角からいっきに飛び出してきたゴブリンの鉤づめ、皮肉な事に初めての戦闘と真逆の立場に彼はなすすべもなく攻撃を受けるほかなかった。バイクに衝突したような強い衝撃が胸に沈み、地面に膝をつけた彼の頭をゴブリンは上から殴りつけた。恐らくはもっと前から自分の存在に気づき、奇襲するため曲がり角で待ち伏せをしていたのだろう。そして自らの計画があまりにもうまくいったことに油断したのか、攻撃を止めたゴブリンの隙をついて、彼は地面にあおむけに倒れたまま自身のフィジカルにモノを言わせ、両足でゴブリンのか細い片足を絡めとり転ばせた。そしてシールドを上げてポーションを一気に飲み干した彼はなんとか出口までの100メートルを走り切ったのだ。


つまるところ彼が今も冒険者を続けていられるのは、単にあの時ゴブリンが油断し、獲物を殺し損ねたからである。これは彼にとって自身の生死をだれかの気まぐれに依存しているに等しかった。それが母を目の前で殺したゴブリンとなれば許せるはずない。


やはりヒトを知ったモンスターは油断ならない。そいつ自身が油断したことを除いて、人間の弱点を的確に狙ったうえで攻撃に一切の迷いがなかった。しかもこれまで戦ってきたゴブリンと違い攻撃も早く、重かった。機関銃にも耐えるヘルメットの強化シールドと胸鎧がなければ絶命していた可能性もある。


奴はおそらく以前にあった冒険者との戦いでレベルが上がっているのだろう。鑑定スキルの無い彼にとって確証はなかったものの、自らの経験をもとに彼はそう結論付けた。


だから彼はより慎重に、足音を立てず最弱とうたわれるモンスターしか出現しない一階層で敵とのエンカウントを待ち続けた。







「guabaae⁉」


鯉川は曲がり角からの奇襲攻撃でゴブリンの心臓を突き刺す。

敵の心臓を手首と前腕の筋力を持ってひねり、えぐるとそのまま足で押し倒した。

彼のヘルメットのシールドの右半分をゴブリンの血反吐が汚している。

しかし彼はそんなのは些細な事かのようにもう左半分の視界でもがき苦しむゴブリンの姿をとらえると、手慣れた素振りで胸を足で押さえつけ、淡々とその首に両刃の剣を差し込んだ。


これまでに多くのゴブリンを殺してきたというのに、相変わらずレベルが上がる事はない。レベルの上昇――必要な経験値の量は個人差があるようで、中には周りの冒険者より早くレベルを上げることが出来る者もいるようだが、総じてレベルは簡単に上がるモノではなかった。


「そろそろいいか…」


鯉川は手についた返り血をポーチから取り出した手ぬぐいでふき取ると、スマホを手に取り電源を付けた。画面の移り出された時刻は午後2時を少し過ぎたあたり。1時間ごとの休憩を挟んで、今日手に入れた魔石の数は今回のも合わせれば6つ。そしてこれまでの全ての魔石が黄色で小指ほど大きさしかなかった。


彼は内心悪態をつきながら光の粒となって消えていくゴブリンの死体を眺める。そして残された魔石の色を見て一瞬だけ目を見開いた。



紫色、それも大きさは卵より少し小さい程度。



鯉川がそれを見た時真っ先に脳裏に映ったのは、この魔石を見せた時の佐々木ゆりなの顔であった。


初日に手に入れたものより遥かに大きい紫色の魔石を拾い上げると、鯉川は自身が鳴らす靴音を気にもせず、早々と外へつながる階段の方へと歩き始めた。

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