第2話 生きることは不幸なことだと誰かが言った

10畳ほどの一室。




その中央に置かれた小さなちゃぶ台の前でインスタントラーメンをすする男の名は鯉川 青龍せいりゅう。旧名は鯉川青龍ギャラドスである。




電気もつけず、ベランダの窓から差し込む日光だけが、部屋の中をグラデーションのように明るくしていく。鯉川はセミの鳴き声をよそに、無機質な冷房の音に耳をすませながら麺をすすった。




そして数分も経たずに男は立ちあがった。冷房を消して、小さなキッチンコンロの横にある冷蔵庫を遠慮なしに開けた。中にあった調味料や飲料水が強くぶつかる音をよそに、男は中からトマトを取り出す。




健康的で、ぷっくりと赤く張れたその実を無造作にかぶりつくと、口元から袖にかかるトマトの果汁も気にせずに、そのまま玄関のドアノブに手をかけた。 




無気力で、自堕落な、そしてほんの少しだけ心配性な彼は大きなトマトを片手にアパートの階段を下りていく。青色の塗料が剥がれ、赤茶色にさび付いた手すりを、彼は無表情で眺めた。




東京の都心から離れた、密集する住宅街の細い道を鯉川は歩いて行く。




二人仲慎ましく並ぶ、赤と黒のランドセル。




照る汗を周囲に飛ばしながらペダルをこぐ学生。




脂ののった額にしわを寄せる会社員。




衣服を干すため、朝日に照らされたベランダに立つ、色白の女。




彼は意味もなく音の鳴る方へ、次から次へと忙しそうに視線を移動させていく。


そして住宅街の中心にある小さな駅から彼は電車に乗ると、南東へと向かった。




視界が線のように駆けていくのを眺めながら一時間ほど、彼の眺める景色は赤茶色の住宅街からいきなり天をつらぬく高層ビル群へと移っていく。




無機質でモダンな背景に、忙しく移動する千人の革靴を上から眺めながら、彼は寂しそうに息を吐いた。




電車が止まり、ガラスの向こう側のサラリーマンと目があった。


そしてまた一時間前に聞いた無機質な機械音と共に扉が開く。




そして電車から駅のホームへと足を踏み出した時、彼は息を吸い、また吐いた。


今日もこの臭いを嗅がなくてならないのか、多くの人が行きかう駅のホームの臭い。これが社会の臭いだとするのであれば、彼は一生家の中に引きこもりたいと何度も思った。




しかし彼はまた駅のホームを歩いている。


階段を下りて、改札口に折れ曲がった切符を押し込み、まぶしい日の光に目を細めながらまた都会のど真ん中を通るアスファルトを歩いていた。




生きるためなのだ。死にたくない、だから仕方ない事なのだ。


酷い人生を送って来た。今もそうだが、随分とマシになったものだ。




だけどまだ足りない。これまでの元を取れないで惨めに死ぬなど、彼の頭の中には片隅にも存在していなかった。だからそんな彼が中央政府が直営している冒険者ギルドにて、回復ポーションを買ったのは、当然のことであった。




下級といえど、人間の再生能力を極端に引き出すことで浅い傷口であれば簡単に塞ぐことが出来る。未だその原理を解明できていないが、ダンジョンからしか取れない未知の道具。




財布の中身を代償に手に入れた、一個10万円もする下級ポーションを彼は丈夫なポーチにしまう。自分の命を預けるには若干の不安があれど、これが最善の策であることは明白であった。




ダンジョンがこの世に出現し早10年。


その間にポーションを初めとするダンジョン・アイテムの有能性と共に、人類がこれまで築いて来た文明の利器の無力さを露見し続けてきたのだから。




モンスターに銃火器は有効性がない。これが現在の日本政府と国民の見解である。世界もおおよそ変わりはない。




正確には冒険者ギルドから「下級」と称されるゴブリンやスライム、「中級」モンスターは殺傷する事が可能だ。




しかし「上級」に分類される凶暴なモンスターには豆鉄砲どころか、大口径の大砲やミサイルでは殺すことが出来ない。




また下級モンスターであっても何十発の銃弾を撃ち込んで死ぬほどに、生命力は高かった。そんなモンスターが大量に次から次へとやってくるのだ。いずれ弾は尽きる。そんな確実に負ける戦いに、部隊を投入するのは「割に合わない」というのが政府と自衛隊、生き残った国民の無責任な見解である。




そしてそのモンスターと文明の利器との「差」が最悪の形で人類に知らしめたのが10年前――ダンジョンと共に大量に現れたモンスターの襲撃――世界同時多発的特殊紛争であった。




推定で日本だけでも100万体近いモンスターが出現し、周囲の人々を襲い、建造物を破壊、占拠していった。人類にとって不幸だったのは一部のモンスターに戦車やミサイルなどの兵器や銃火器が通用しなかったことだろう。当然その上級種が多くの被害を出したのは言うまでもない。




しかし人類にも幸運があった。一部の識者はこれを「幸運」ではなくダンジョンによる脅しと挑発であり、ダンジョン自体が知性を持った母船的知的生命体であると主張しているが……少なくともダンジョンの研究がまだ始まったばかりの現状では、多くの国民からはトンデモ論として扱われているのが現状であった。




そしてその「幸運」とは第一に出現したモンスターの群勢が、各ダンジョンから半径10キロ圏内でとどまっていたこと。そして第二にモンスターの多くが24時間でダンジョンに自主的に撤退したことだ。




しかし圧倒的な戦力で瞬く間に拡大した占領地において、取り残された国民と自衛隊が、文字通り「殲滅」されるのには十分な時間であった。






ダンジョンによって殺され、ダンジョンによって生かされる。






死傷者200万人、行方不明600万人。国内避難民1000万人。




市内の徹底的破壊。皇居および各政庁の消滅。




撤退しなかった一部のモンスターによる不法占領。




朝鮮・中国から来た200万人の難民。


火事場泥棒てきに急増した40万件の略奪、殺人、強姦などの凶悪犯罪。




特殊紛争の隙をついた、政治・武力空白地域での在日外国人と極左団体による「東アジア人民共和国」の独立宣言。




自衛隊、米軍と結託した極右団体による日本暫定政府の樹立。




暫定政府による反乱勢力の鎮圧。


そして不法難民に対する組織的な大虐殺とレイプ事件。




日経平均株価3000円へ暴落。一ドル500円の急激なインフレ。




二次被害も含めたこの厄災による総被害額は最低でも2000兆円と推定されている。




かくして占領地の住民を見捨てて生き残れた暫定政府と自衛隊、日本国民はこれを


「幸運」と呼んだ。


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