第12話 「再び、喫茶チロル」

 カラン、カラン。


 ドアをあけると、乾いた鐘の音とともに、さわやかな冷気を含んだ空気が迎えてくれる。木下は、ああ生き返る、と大げさな感想を抱いた。実際、五月の日差しは思いのほか強く、じっとりと汗ばむほどだった。


「あら、いらっしゃい」

 いつものように、ママが迎えてくれる。

 喫茶チロル。木下の行きつけの喫茶店だ。

 木下は、会社で異動を告げられた後すぐ、ここに足を運んだ。今回のことは、元はと言えばこのママの言葉から始まったのだ。


「ホットね」

 いつものようにオーダーし、いつものコーヒーが出てくる。そのコーヒーをかき混ぜながら、木下は思いを巡らせた。


 営業四課とは? 上司を殴って飛ばされる以上、閑職であることは間違いない。事実、木下はそんな課の存在を今まで知らなかったのだ。しかしまあ、嫌になれば辞めればいい。

 最初からクビを覚悟していた木下にとって、会社を辞めることなど、どうということはない。

 異動の話を聞いてから、木下の心は晴れ渡っていた。もう石田課長の顔を見なくても済む。今までの復讐も果たした。あとは野となれ山となれ、成り行きに任せてもいい。その思いが、木下の心を軽くしていた。


「ずいぶん機嫌がいいのね」

 ふいに、ママが声をかけてきた。木下は我に帰り、この店に寄った目的を思い出した。


「そうそう、イヤな上司がいるっていつか話したろ?」


「あぁ、例のイヤミな課長さん?」


「そうそう。俺、ぶっとばしてやったんだよ」


 木下は子供のように、ぐいっと力こぶを作って見せた。ママの前では無邪気さが顔を覗かせる。


「あらあら。大丈夫なの?」

 ママが目を丸くして答える。

 その驚いた様子が、木下にはなんとも誇らしく感じられた。


「そうなんだ、おかげで異動だよ。でもまあ今の部署にいるより、よっぽどいいからさ」


「あら、よかったじゃない。普通ならクビどころか警察沙汰よ、そんなことしたら」


「そこをうまいことやったんだ。ママのおかげでね」

 ママは、なんのこと?といった表情で木下を見る。

 それがたまらなく可笑しくて、木下は思わず噴き出した。


「それじゃあ、もう来れないかもしれないわねぇ」

 ママが少し残念そうに言う。


「うん、今までみたいには、ね」

 そう答える木下に、ママは重ねて「残念ねぇ」と言いながら、困ったような、憐れむような、複雑な表情を見せる。


 その顔を見て木下は、微かな予感のようなものを感じていた。

 この店に来るのは今日で最後かもしれない…。


 ***


 会社に戻った木下は、再び応接室に呼ばれた。

 中には先ほどのダブルのスーツの男と、同期の篠田がいた。

 スーツの男は、先ほどと同じようにソファに深く腰をおろしていた。一方の篠田は、ドアの脇に無表情に突っ立っている。


 なんなんだ、いったい…。


 異様な気配を感じながら応接室のドアをくぐろうとした木下を、スーツの男は右手で制した。一瞬の間があって、スーツの男が言った。


「木下くんには、今から四課に行ってもらうよ」

 木下には、言葉の意味を考える間もなかった。

 スーツの男が言い終わらないうちに、篠田が木下の鼻と口をふさぐ。

 ツンとした刺激臭。


 ク、クスリ!?


 薄れゆく意識の中で、木下は篠田の憐れむような視線を感じていた。

 スーツの男が最後に言った「荷物はあとで送っておくよ」という声は、もはや木下の耳には届いていなかった。

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