第10話 「引き金」
「返事もできねーのか、このキチガイ野郎が!」
石田課長がそう言った瞬間、木下は心のなかで、時が来たことを確信した。
ふふ、キチガイ、そう、俺はキチガイ。罪を犯しても罰せられない、人間の作った法を超越した存在。そう、俺は狂っている。会社の誰もがそう思っている。ふふ、ふふふ、ふふふふ…。
木下は心の奥底から込み上げてくる笑いを抑えることができなかった。石田のデスクの前に立ち、じっと見つめる。
ふと、石田が顔を上げる。
目があった。
石田は驚いたような、困ったような、そんな表情を浮かべていた。木下の笑いに拍車がかかる。
「クッ、クックックックックッ…」
堪え切れず、声が漏れる。
「な、なに笑ってんだよ」
石田の声から、いつもの尊大さが消えている。より切迫した、追い詰められた人間の声だ。
「石田課長ぉ!」
木下はわざと大声で石田を呼んだ。ビクリと体を震わせる石田。もはや声もない。
「あなたも、あなたも僕が狂っていると思っているんですか」
石田の口元がワナワナと震えている。なにか言おうとしているが、声にならないといった感じだ。
「俺は狂ってないっ!」
どんっ! 木下は両こぶしで、石田のデスクを思いきり叩いた。
「ヒッ」
石田が情けない声を出す。自慢のオールバックも、冷や汗で台無しだ。
「わ、わかった、わかったから。お、俺が悪かった」
石田はのけぞりながら、やっとそれだけを言った。その姿を見た木下の背中を、ゾクゾクとした感覚が駆け上った。いつか、女子社員を想像で犯したとき感じたのと、同種の快感だ。
「何がわかったんだ、あぁ!」
木下は石田のネクタイをつかむと、思いきり絞めあげた。
「ヒグッ!」
石田が悲鳴をあげる。
ああああああ、これだ! この感覚だ!
木下は快感に飲みこまれていく自分を自覚した。そしてあえて、その快感に身を任せることにした。
「があああああああ!」
いつしか木下は、自分が雄叫びをあげていることにさえ気付かないほど、その快感に我を忘れていった。
「…い、やめろ!なにやってんだ!」
我に帰ると、木下は両腕を羽交い締めにされていた。
目の前には口と鼻から血を流し、目のまわりをドス黒く腫らした石田が、ぐったりと椅子の上に倒れていた。その四肢はだらりと垂れ下がり、意識がないことは一目瞭然だった。
木下は羽交い締めされた腕を無理やり引き剥がすと、その場にへたり込んだ。
こ、これは俺が?
自分の両こぶしに、べったりと大量の血が付いていることに気付く。この手で殴ったことは間違いないようだ。
ふと見上げると、呆然と立ちつくす篠田の顔があった。
ああ、コイツか。
どうやら自分を羽交い締めにしていたのが篠田であったらしい、ということがようやく理解できた。が、なかなか頭の中がはっきりしてこない。篠田がなにか言っているようだったが、まったく頭に入ってこなかった。
ああ、帰るか…。疲れた…。木下は立ち上がると、重い体を引きずるように事務所のドアに向かった。背後でなにやら声がするが、もはや木下には関係のないことであった。
疲れた…。眠い…。
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