営業四課

樋田矢はにわ

第1話 「足音」

 闇だった。


 なにも見えない、塗り込められたような黒。目を閉じるよりも深い闇。


 男はその闇の中、重い足を引きずりながら走っていた。その後ろからヒタヒタという音が追いかけてくる。一定の距離を保ったまま。

 もうどのくらい走っただろう。男の身体は疲労の極致に達していた。


 いやだ、助けてくれ。


 男は叫ぼうとしたが、声にはならなかった。その叫びは心の中で空しく響いただけだ。


 だめだ、息が苦しい。


 しかし立ち止まることは許されない。


 どこに向かっているのか、それもわからない。が、とにかく逃げなければいけないことだけは本能的にわかっていた。


 「あっ」


 足元のなにかにつまずいて、男は前のめりに倒れ、膝をしたたかに打った。痛みのあまり立ち上がることができない。ひたひたという音はすぐ近くまで迫っていた。


 まずい…まずい…逃げなければ…。


 男は動かない脚をあきらめ両腕で這い進んだ。しかしそれでどれだけのスピードが出るというのか。音はすぐ追いついてくるだろう。


 ―絶望。その言葉が男の脳裏に浮かぶ。


 しかしその瞬間、あの音が男の耳から消えた。闇のなか、聞こえるのは自分の荒い息音だけ。


 ―静寂。


 男は心の底で安堵の吐息を漏らした。その直後。


 どさっ!


 背中になにかが飛び乗った。


 「ひっ!」


 あまりの恐怖に声も出ない。男には、無言のままジタバタと手足を振るのが精一杯の抵抗だった。


 「はぁぁぁぁ~」


 生臭い息を耳元に感じ、男はビクリとして首を回した。そこには、耳まで裂けた真っ赤な口を開き、嫌らしい笑顔を作った石田課長がいた。

 課長は念仏でも唱えるように同じ言葉を繰り返す。


 「きぃのしたぁ~ノォ~ルゥ~マァ~はぁ~」


 「うぁああぁっ!」


 木下は跳ね起きた。

 布団はベッドからずり落ち、シーツは乱れ、ひどいありさまだ。


 なんて夢をみちまったんだ。よりによって、課長だと。


 時計を見ると6時20分を指している。また目覚ましの鳴る前に起きちまった。眠りから覚めたばかりだというのに、木下はひどく疲れていた。


 会社に行く時間…か。


 「行きたくねえなぁ」


 声に出して言ってみる。それが唯一にして精一杯の抵抗だった。

 木下はシャワーを浴びると、出社の準備にとりかかった。

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