7月13日 ③

 道路は次第に甲府盆地を囲む山の方に進む坂道となっていく。何度か交差点を曲がり、広域農道に入った。周りのほとんどはブドウや桃の果樹園だ。この時期は桃の収穫期であり、時折、道路脇にトラックを停めて運び出している人達の姿が見えた。


 そしてその先のトンネルを抜けて、しばらく走った辺りだった。


(ここだ――)


 目の前に農道から脇道に入る下り坂が見えた。そちらにハンドルを切り、バイクのスピードを下げながら、その道を下っていく。小さな集落の中の細い道路を進み、しばらく進んでいくと、少し先の方にまだ比較的新しい一軒家が見えた。その少し手前で、バイクを停める。


(あの家だよな)


 そこからその家を臨む。それは結羽の自宅だ。前にも何度か来たことがあるので覚えている。そして、その姿は昨日見た夢で出てきた家と全く同じだ。夢では夜だったが、照明で明るく照らされた縁側の先には……。


(違う……。しっかりしろ)


 あれは単なる夢だ。そう思って首を振ると、その家の前を一気に通り過ぎた。するとその先に小さな墓地のような場所が目に入った。思わずバイクを再び停めてその場所の様子を遠くから窺ったが、ちょうど昼の暑い時間帯であり、誰の姿も見えない。大きく深呼吸すると、その墓地の方にハンドルを切った。


 墓地の隣にある砂利の駐車場にバイクを停めてヘルメットを脱ぐ。山の方から強い風が吹き下ろしてきた。蝉の声が響き渡っているが、その声さえも聞こえなくなるほど、清太はじっとその風景を見つめる。


(嘘だろ……)


 目の前にある風景。それは、昨日の夢に出てきた墓地の風景、そのものだった。ヘルメットをハンドルに掛けてバイクを降りたその時だった。


「清太……くん?」


 急に声を掛けられて辺りを見回す。すると、寺の小さなお堂の前に、白いTシャツに青いスカートを履いた人間が立っていた。


「ゆ、結羽――」


 思わず言葉を失ってしまった。ちょうど木の影になって駐車場からは見えにくい場所だったので、彼女がそこにいることに気づかなかった。彼女は不思議そうにこちらを見ている。後ろの方から吹いてきた風が、その長い髪を揺らしていく。


「どうしたの? こんな所で」


 尋ねられて答えに窮してしまった。ふと彼女から視線を逸らせると、墓地の向こうに甲府盆地の風景が綺麗に見えていた。その向こうには八ヶ岳の青々とした雄大な姿もある。


「あ、あのさ……部活が早く終わったんだけどさ。早く帰ると畑仕事の手伝いをさせられるし、少し時間を潰すつもりでバイクに乗ってたら、盆地の風景が綺麗に見えたから、ここに」


 盆地の風景を見るのであれば、もう少し山の方を通っている農道から見た方が絶対に綺麗に見えるはずだ。自分でも無理があるとは思ったが、結羽は「そう」とだけ言って黙ってしまった。慌てて話題を変えようと話しかける。


「それより、結羽はどうしてここに?」


「私は……ちょっとお墓参りに来ただけ」


「あっ……そ、そうなんだ」


 そう答えると、結羽は水道の近くにあるバケツに水を入れ始めた。それに柄杓を入れて墓地の方に歩き始める。慌てて彼女に近づき「持つよ」と声をかけてそのバケツを持った。その時、彼女の手に少しだけ触れた。


「……ありがとう」


 彼女が言うのに頷いて、その隣を歩いていく。再び強い風が後ろから吹いてきた。


(いや……俺は、ここに来たことは無いはずなんだ……)


 そう自分に言い聞かせる。しかし、この墓地の中を一人で歩いていた自分と、いま同じ場所を歩いていることをはっきりと自覚する。その自分が立ち止まった場所で、結羽が足を止めた。


『望月家』


 墓石にはそう書かれている。結羽はその前に立って墓石を見つめていた。しかし清太は、そしてその脇にある小さな墓誌に恐る恐る顔を向ける。


「ない――」


「えっ?」


 結羽が急に振り返った。


「い、いや……何でもない」


 ドキッとしながら結羽の前で首を振った。すると彼女は再び墓石の方を向いて体を屈めると、その両端の花瓶にある枯れた花を取り除いた。その間に清太はバケツを置いて、もう一度墓誌に顔を向ける。風雨にさらされたその墓誌には、享年にして40代の男女の名前が刻まれているだけだ。確か、彼女の父の両親は、事故で早くに亡くなったと聞いたことがあるので、おそらくその二人なのだろう。


(ある訳ないじゃないか。だって、彼女は現にここに……)


 そう思いながらハッとした。この墓誌に彼女の名前とともに刻まれていた年月日はいつだっただろう。彼女の名前があったことは記憶にあるのだが、その日付がどうしても思い出せない。確か、7月の何日かだったと思うのだが……。


「この時期は暑いから、なかなか綺麗にできないのよね」


「えっ……ああ」


 彼女の言葉に我に返り、曖昧な返事をした。すると、彼女はバケツから柄杓で墓石の周りに水をかけ始め、お墓の前に座って手を合わせた。清太も彼女の後ろで座って手を合わせる。しばらくして清太は立ち上がったが、結羽は立ち上がったもののそのままお墓の方を見つめていた。思わず、その後ろから声を掛ける。


「どうしたの?」


「……ううん。何でもない」


 彼女はそう言って振り返り、真っ直ぐに清太の顔を見つめた。久々に彼女の私服を見たからなのか、それとも彼女が普段かけている紺色の太い縁の眼鏡を掛けていないためなのか、別人のような大人っぽい感じがしてドキッとする。すると彼女もハッとしたように、空になったバケツを手にした。


「ごめんね……行きましょう」


「うん」


 そう答えてから、二人は駐車場に向かって並んで歩き始めた。黙って歩くことに耐えられなくなり、清太が口を開く。


「あのさ……」


「何?」


「ええと……結羽は、明日の組合のイベントに行くの?」


 すると結羽はこちらを向いた。


「イベント? ……ああ、直売のやつね。明日だっけ?」


「そう。俺、手伝うように言われててさ。4月はサボったから」


「そうなの……」


 そう言って彼女は甲府盆地のほうに顔を向けた。風が彼女の長い髪を再び揺らしていく。


「じゃあ、私も行こうかな」


 えっ、と思わず口に出た。彼女の「じゃあ」という言葉が頭の中で何度も響いていく。


「そ、そう……分かった」


「うん――」


 結羽は僅かに笑顔を向けた。それにドキッとしたが、結羽は清太に背を向けて、バケツと柄杓を元あった場所に戻していく。そして、再びこちらを向いた。


「ねえ、清太くん……」


 結羽が口を開く。真正面から見つめられて、思わずドキッとする。


 結羽はそのまま黙っていた。風が吹いて、彼女の長い髪がサラサラと揺れ、痩せ細った顔をその髪が隠していく。彼女のその真っすぐな視線で、清太の胸の鼓動が早くなる。するとしばらくして彼女は、自分で首を振った。


「ごめん……。何でもない。じゃあ、またね」


 そう言って軽く手を振り、彼女は背中を向けて先に歩き出した。


「結羽! 待って」


 思わず声を掛けると、彼女は立ち止まって振り返った。


「今年の花火大会なんだけど……」


「えっ……」


 結羽はじっとこちらを見つめる。清太はその視線を少し避けたが、すぐに彼女の方に視線を戻した。


「俺……どうしようか迷ってるんだ」


「えっ? どういうこと? だって、昨日、チケットを……」


「あのさ。その……花火大会に行きたい?」


 カラカラに渇き切った口でそう尋ねる。すると、彼女は不思議そうな顔をした。


「それって……?」


 彼女がそこで終えた言葉に、清太はゆっくりと頷く。すると彼女は少し俯いて首を振ってから、笑顔で答えた。


「大丈夫よ、私は」


 えっ、と尋ね返したが、彼女は「じゃあ、また明日」と言って、再びこちらに手を振って先に駆け出した。その後ろ姿はその先の角を曲がった所で見えなくなってしまった。

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