(8)

 結羽の家には、彼女の通夜以来、行ったことがなかった。隣町の事なので詳しくは分からなかったが、これだけの事件の犯人とされる人物の家というだけで、地元ではその家には誰も近づかなくなった。それだけでなく、この辺りでは比較的多い「望月」という同じ苗字の家でも、肩身の狭い思いをしており、「どうしてどこかに引っ越さないのか」という声もあると聞いた。そういう事情もあったのだろうが、当時中学生だった結羽の妹は不登校になり、いつの頃からか家を出てしまったらしい。


 また、清太の父は組合の理事であった上に、傷害事件の被害者側でもある。父は犯人に殴打される前、布の袋のようなものを頭に被せられて、花の鉢で頭を強く殴られたらしい。だから、犯人の顔は見ていない。ただ、父は警察の事情聴取に対して、「智治が自ら横領を白状した」「早く自首するよう促した自分を、智治が殴った」と断言した。警察もその証言に沿って捜査を進めてきたのだが、その後、父の記憶に違和感を覚えることがあった。清太も含めて、家族の名前や、モノの場所、最近の出来事などが思い出せなかったり、全く違う記憶になっていたりすることが度々起こった。


 病院の検査でも、記憶が曖昧になった事は後遺症の一つであるとされ、それだけでなく、「望月」の名前を聞くと頭痛が酷くなったり、怒りだしたりするという後遺症も残った。だから、ウチと結羽の家との交流が断絶したのはもちろん、父のいる前では「望月」の言葉を出すことさえ完全にタブーになった。ただ、安那は前から結羽を姉のように慕っていたこともあって、その後も結羽の母に会ったり、お墓参りに行ったりすることを止めなかった。そして、それが原因で安那は父と大喧嘩し、就職と同時に家を出てしまったのだ。


(もう、事件から8年か――)


 清太は自分の部屋のベッドに横になり、その事件の事を思い起こしていく。事件からしばらくして、組合に智治からの封書が届いた。中には横領の詳細を書いた紙が入っていて、清太の父への暴行も含めて自らの罪の重さに耐えられなくなり、自殺を仄めかす内容だったらしい。その封書の中身も宛名も差出人も全てパソコンで書かれたもので、信ぴょう性には欠けるものだったが、それでも、地元では父の証言とあわせて、「智治犯人説」が主流になってしまっていた。


 それ以降、智治からの音信は全く途絶え、その部下であった「松上」という男も、横領金の行方も、全てが見つからないまま時間だけが流れていた。一方で、横領金は総額で1億円を優に超えるとされ、地元でも長く話題となっていたため、組合としても組合員をはじめ他の預金者などへの対外的な説明責任を強く求められていた。事件当時の理事長はすぐに引責辞任したが、横領金が見つからない以上、それだけで幕引きすることはとてもできるような状況ではなく、犯人とされた智治と松上の二人の関係者から回収を図らざるを得なかったようだ。


 松上の方は両親が数年前から行方不明で親族もなく一人暮らしであったため、組合では横領金の回収に向けて、結羽の母と協議を進めていた。ただ、彼女は預貯金のほとんどを弁済に回すことは了解したものの、自宅だけはどうしても処分を拒否した。智治の両親も既に亡く、唯一の親族では彼の弟が県外で教師をしていたため、その責任からわずかに支払いを行ったものの、それ以上の追及は難しかったようだ。


 しかし、それらだけでは被害額に到底及ばないことから、仕方なく、組合は不足額の損害賠償請求訴訟を智治に対して行い、最近ようやくその判決が固まったらしい。母が言っていたのは、おそらくそれを受けて、あの望月家の自宅まで処分するということなのだろう。


 清太は今日会った結羽の母の姿を思い出した。おそらく、地元住民から「横領、傷害事件を起こした人の家」として冷たい視線を受けてきたであろう心労から、あのような年齢不相応な老け方をしているのだと思うと、その日はなかなか寝付くことができなかった。


 

 ******



 翌日の朝も、朝からよく晴れていた。


 居間に入ると、父と母は座って朝食を食べ始めていて、日課となっている朝のニュースがテレビから流れている。「おはよう」と言って、今日は自分でご飯と味噌汁を準備して持って行く。


「よく寝られたか」


 父が穏やかな声で尋ねてきたので、その様子にホッとする。母の方を見ると、彼女も頷いて笑顔を向けた。


「今日はしっかり手伝ってよ」


 母の声に頷いてから、座布団に座ってご飯を食べ始めた。しばらくして、何気なく窓の外を見ると、花壇の辺りには昨日と同じように白い猫が座ってこちらの方を見つめていた。何気なく、母の方を向いて尋ねる。


「あそこにいる猫って、この辺りにいる猫?」


「えっ? どの猫?」


 母が尋ねたので、清太は窓の外を指し示した。


「ほら。あの花壇のところ」


「花壇?」


「その女郎花の辺りに座っている白い猫」


 清太が言うと、母は窓の方をじっと見つめた。


「何言ってるのよ。何もいないじゃないの」


 母はそう言って、再びご飯を食べ始めた。清太はハッとして立ち上がり、窓に近づく。窓からほど近い花壇の前には、白い猫がさっきから同じように座ってこちらを見つめている。しかしよく見ると、その猫の瞳がキラキラと光っているような気がした。


(泣いている……のか)


 ふとそう思った。いや、猫が泣くなんてことがあるのだろうか。もう一度、母にその猫の事を伝えようとした時、テレビで地方ニュースが始まった。その冒頭でキャスターから隣町の名前が聞こえ、おや、と思ってその画面の方に顔を向ける。


『本日未明、五坂町の民家で火事があり、木造2階建ての住宅1軒が全焼し、中から1人が遺体で発見されました。この民家は望月晴代さんが1人で住んでいたとのことで、警察・消防では亡くなったのは望月さんと見て、出火の原因を調べています』


 短いニュースではあったが、清太も含めてそこにいた3人とも動きを止めて見入っていた。視聴者が現場の近くから撮ったという映像では、暗闇の中で大きな紅い炎を上げて燃えている建物が映っていた。


 ニュースが終わると、父は「うう」と呻きながら頭を押さえて、フラフラと立ち上がり居間を出て行った。残された母は、真っ青な表情になり、何かを言いたそうにしていたが、言葉が思いつかないのか、ただ黙ってその後のニュースの画面を見つめている。清太はしばらくそこに立って画面を見つめていたが、ハッとして急いで居間を出た。


 自分の部屋に戻り、急いで勉強机の前の椅子に座った。ドキドキと自分の心臓の音が聞こえる中で、大きく深呼吸してそれを鎮めようとする。机の上には茶色の封筒が置いてある。それは結羽の母である晴代から昨日受け取った封筒だ。

 

(まさか、これを渡し終えたから……?)


 彼女は言っていた。「ようやく肩の荷が下りた」と。もしかすると、彼女が周りから何を言われようと引っ越ししなかったのは、清太にこの手紙を直接渡したかったからなのではないか。


 慌てて封筒の中から茶色の便せんを取り出した。そこに書かれている「斎木清太」という名前をじっと見つめる。文面の中の「あなたと一緒にいる時間がずっと続いて欲しかった」という言葉。そして、女郎花の花を背景に、白猫を抱いて笑顔を向けている結羽の写真。


「どうして……どうして、こんなことに……」


 次第に文面を見つめる視界が滲んでくる。ミンミンという蝉の鳴き声が一層激しくなってきたが、その声を聞きながら、清太は冷たい机の上に頭を乗せた。


 するとすぐに、深い、深い暗闇の底に、どこまでも落ちていくような感じがした。しかし、清太にはもう頭を上げる気力すら残っていなかった。

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