16.旭くんの成長とピアノの発表会

 冬休みに入って旭くんはもうすぐ生後二か月になっていた。


 首も少し据わってきて、縦抱っこの方が好きになって、横抱っこをするとむずがるようになった。私の顔を見ると喜ぶようで笑うようになったのも嬉しい。

 旭くんは日々成長しているのだと実感できる。


 旭くんのセントバーナードさんは、旭くんがベビーベッドに寝ているときは足元にいるが、ソファで眠っているときや、床でうつ伏せにされているときはそばで忠実に旭くんを見詰めている。

 私は気付いたのだが、旭くんはセントバーナードさんを見て笑っていることがあるのだ。


 手を伸ばして尻尾を掴もうとしたり、触ろうとしたりしている。


 旭くんにも私と同じ世界が見えているのではないだろうか。


 子犬さんの存在にも気付いているようだし、ママのパピヨンさんやパパのパンダさんが様子を見に来たときにも、にこにこと笑う。

 千草ちゃんの鶏さんに至っては、一生懸命長い尾羽を掴もうとする仕草すら見えた。


 旭くんは私と同じかもしれない。

 だから黒い影は旭くんを狙ったのかもしれない。


 今も黒い影は旭くんを狙いに来るが、セントバーナードさんが威嚇して遠ざけている。セントバーナードさんでは祓うまではいかないようだが、旭くんは守られていた。


 セントバーナードさんが追い払った黒い影を、うちの子犬さんが祓っていたりすることもある。

 子犬さんは旭くんのそばに行くと尻尾を掴まれそうな気がしているのか、あまり近寄りたがらないのだ。セントバーナードさんは尻尾を掴まれても、耳を舐め舐めされても、一生懸命我慢しているのに。


 旭くんのことが嫌いなわけではないだろうが、子犬さんは触られるのが嫌なようだ。


 私も少しだけは子犬さんや鶏さんなど守護獣に触れるように、旭くんも小さなお手手で守護獣に触っていた。


 冬休みには私はピアノの発表会がある。

 ピアノの発表会のために、千草ちゃんは千草ちゃんのママとピアノの先生とドレスを買いに行ったと言っていた。


「菫色のドレスなの。何年着られるかは分からないけど」

「私も用意してもらわなくちゃ」


 ママに相談すると、旭くんを半日パパに預けて、私の衣装を買いに行くことになった。

 ママは久しぶりに自由に外に出られて活き活きとしていた。

 行ったことのないお店に連れて来られて、私はママから問いかけられる。


「暁ちゃんはドレスが欲しいの?」

「ドレスは違うかなって思ってるの」


 正直に答えると、ママは私のためにお店で衣装を選んでくれる。

 店員さんが持ってきたのは、タキシード風のパンツスーツだった。


「こっちの方が暁ちゃんにはいいんじゃないかと思って、女の子のパンツスーツを売っているお店を探したのよ」


 ママには私の気持ちが通じていた。

 私はドレスよりもパンツスーツが着たかったのだ。


「このスーツで千草ちゃんと並んだら、可愛いコンビが出来上がるわね」

「千草ちゃんとコンビに見えるかな」

「きっととても素敵な二人に見えるわ」


 ベーシックなミッドナイトブルーのタキシードにも見えるスーツを買って、私は家に帰った。


 ピアノの発表会は誰が来てくれるか家族で話し合いが行われた。

 まだ旭くんは小さすぎて長時間のお出かけはできないのだ。


「ママが行っておいで。旭くんにはミルクで何とか時間を持たせるから」

「いいの、パパ?」

「ママがこれまでの暁ちゃんの成長を見てきたんだから、ピアノの発表会で頑張っている姿も見てあげないと」


 旭くんはほとんど母乳で育っているが、ママが体力がもたないときや、出かけたときにはミルクも飲んでいた。

 ミルクはあまり飲もうとしないのだが、それでも辛抱強く飲ませれば、旭くんは諦めてミルクを飲んでくれる。


「旭くんがミルクを飲んでくれるから、母乳以外のことは何でもやろうって思ったけど、ミルクもあげられてよかったよ」


 パパはそう言って微笑んでいた。


 ピアノの発表会の当日、私は暁ちゃんと舞台袖で並んでいた。

 ピアノの発表会は教室の生徒が年齢順に弾いていく。

 コンテスト要素はないので、順位を付けられることはない。


 私と千草ちゃんは中学生なので教室の中でも遅い方だった。

 弾いた子は保護者に引き渡されて、小さい子はその後は帰っていいことになっていた。

 私たちは聞いてくれた先生の講評まで聞いて帰る。


 私と千草ちゃんの前は、卯崎さんの順番だった。卯崎さんは別のピアノ教室で練習していたのだが、私と千草ちゃんの通っているピアノ教室の方が本格的だと言われて移って来たのだ。

 卯崎さんのピアノは驚くほど上手だった。


 歌とダンスの教室では始めたばかりで拙くて、基礎ばかりやっている卯崎さんが、ピアノはこんなにも上手なのかと驚いてしまう。


 卯崎さんの次は千草ちゃんの番だった。

 菫色のドレスを翻して、千草ちゃんが一礼してピアノの椅子に座る。

 私と同じ課題曲を弾いているはずなのに、千草ちゃんが弾くと違う曲のように聞こえる。卯崎さんの曲もそうだった。


 千草ちゃんが弾き終えると私の番が来た。

 私はピアノ教室でも年齢が上の方なので私の番が来ると残りは数名になっている。

 タキシード風のパンツスーツを押さえて一礼して、ピアノの椅子に座って課題曲を弾く。

 課題曲を弾き終わると、ほっとして私は舞台袖に戻った。

 舞台袖から客席に移動して、ママの隣りに座る。私の隣りには千草ちゃんが座っていて、その隣りには千草ちゃんのママが座っていた。


「終わったね」

「千草ちゃん、すごく素敵だった」

「暁ちゃんも素敵だったよ」


 小声で話し合って、私と千草ちゃんは残りの生徒さんの演奏を聞いた。

 全員の演奏が終わると、呼ばれていた先生たちの講評があった。全体の講評と、中学生以上には一人一人講評がある。

 私は表現力は高いが技術力をもう少し磨いてほしいと言われた。


 無事にピアノの発表会が終わって、私とママ、千草ちゃんと千草ちゃんのママは車でそれぞれの家に帰った。

 マンションの部屋に帰ると、リビングでパパが旭くんを抱っこしてあやしていた。旭くんはパパのパンダさんのお手手を握って、しゃぶって必死に泣くのを堪えているようだ。


「ミルクはやっぱりあまり飲まなかったよ。お腹が空いてると思う」

「時間をもたせてくれてありがとうね」


 ママが旭くんを受け取っておっぱいを飲ませる。おっぱいを飲んで旭くんは満足そうに眠ってしまった。


「お正月の準備もできそうにないわね」

「僕がするから大丈夫だよ」


 お正月の準備は今年はパパがしてくれるようだ。


「それなら、千枝ちゃんも呼んで一緒にしたらどうかしら?」


 ママの提案に私はちょっと躊躇う。


「千草ちゃんのママにも予定があるかもしれないよ」

「え? どういうこと?」

「詳しくは言えないけど……」


 千草ちゃんのママとピアノの先生のことは、千草ちゃんのママの親友であるママにすらまだ内緒だった。

 離婚してすぐというのもあるし、千草ちゃんのママの気持ちも落ち着いていないのだろう。それにママも知っているピアノの先生なのだから、千草ちゃんのママも決まりが悪いのかもしれない。


 ピアノの先生と生徒の母親というのは噂になってしまえば、贔屓をしているとか、嫌なことを言われかねない状況だ。


「近いうちにママには話すと思うから、それまで待ってあげて」

「暁ちゃんが知ってて、私が知らないってのは、ちょっと嫌だわ」


 苦笑しながらママが言うけれど、私は千草ちゃんのママはすぐに私のママに打ち明けるのではないかと思っていた。

 私が千草ちゃんに隠し事ができないように、千草ちゃんのママもきっと私のママに隠し事ができない。


 千草ちゃんのママとピアノの先生のことを聞いたらママはどんな顔をするのだろう。

 千草ちゃんのママがこれまで苦労してきたことを知っているから喜ぶのかもしれない。

 千草ちゃんのママがこれ以上傷付くことがないように、私は願っていた。

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