第9話


 ジェラール・ヴィンデミアは、代々続く酒屋の一人息子である。家が裕福な彼は、市民でありながらも、貴族やお金持ちの子女が通うアルティーリア学園附属の初等学校に入学することができた。附属校に通う生徒は、もともとは貴族の子女が多くを占めていたが、現代ではジェラールのような市民も多く通っている。ここ数十年の経済発展は目覚ましく、資産を貯め込んだ中産階級の親たちが、より良い教育を子に受けさせようと、こぞって名門校に通わせ始めたからだ。



 ジェラールもそんな親を持つ一人だ。持ち前の明るさや運動神経を遺憾なく発揮し、彼は入学してすぐにたくさんの友人に囲まれた。毎年開催される運動会でも、ヴァン・スペルビアには敵わなかったものの、学年で二番目の成績だった。運動ほどではないが、勉強だってできる方だ。貴族の子女たちとの間にある暗黙の上下関係に不満はあったが、それでも市民階級の生徒たちからはリーダーのように扱われ、日々楽しく過ごしていた。



 ジェラールの充実した学園生活に影が差したのは、三年生に上がってからだった。進級して二ヶ月ほど経った頃だっただろうか、担任の先生から生徒会選挙の告知がなされた。規則上は誰が出馬しても良いが、毎年、アヴェイラム派から一人、スペルビア派から一人が出馬を表明し、派閥同士でいがみ合うのが恒例だという話だった。



 貴族にいちいち気遣わなければいけないことを面白くなく思っていた市民の生徒は、当然それなりにいた。ジェラールもどちらかと言えば気に食わなかったから、半ば彼らに押される形で、市民代表として出馬することを決めた。



 厳しい戦いになることは、最初からわかっていた。なぜなら、ジェラールの年は、英雄の末裔まつえいであるヴァン・スペルビアがいたからだ。アヴェイラム公爵の孫であるロイ・アヴェイラムも同学年にいるのは知っていたが、彼はただ家がすごいだけの男だったから、まるで眼中にはなかった。そもそもロイ・アヴェイラムは選挙に出るつもりもなさそうで、代わりにスタニスラフ・チェントルムが出馬の意向を示していたから、ネームバリューからしてヴァン・スペルビア一強の様相を呈していた。ジェラールの思い描いていた勝ち筋は、市民階級の生徒から票をかき集めてヴァン・スペルビアを打倒する、というものだった。



 しかし、蓋を開けてみれば、何一つジェラールの思い通りに事は進まなかった。英雄の末裔の大貴族だというのに市民の生徒にも別け隔てなく接するヴァン・スペルビアに市民票は流れていくし、取るに足らないと侮っていたロイ・アヴェイラムが出馬を表明してからは、ジェラールの遥か上空で二人の高度な戦いが繰り広げられ始め、彼はただ見ていることしかできなかった。



 そして運動会の日。市民票を少しでも取り戻そうと意気込んで臨んだジェラールを置き去りにして、上級生すら歯牙にもかけずに激戦を繰り広げるヴァン・スペルビアとロイ・アヴェイラム。彼らがゴールしたとき、ジェラールはそのずっと後方で絶望した。上には上があることを、8歳という若さで思い知らされてしまったのだ。



 あの日、ジェラールは諦めた。凡人には自らの手で勝利を掴むことなど到底できはしないと。それでも、市民の生徒たちのためにまだやれることはあると考えて、必死に考えた。そして、ロイ・アヴェイラムによる独裁を許すくらいなら、ヴァンに票をすべて捧げ、少しでも一般生徒に良い待遇を、と考え、ヴァン・スペルビアと手を組むことに決めた。



 しかし、その目論見すら失敗してしまう。最初はロイ・アヴェイラムに勝ち目などないはずだったのに。生徒たちの票は、それ以上動きようのないほど固まっていたはずだったのに。



 ヴァンが選挙に敗れたとき、ジェラールはすべてを失った。それまでいっしょに遊んでいた生徒たちも、妥協してヴァンの下についたくせに、それでも勝てなかったジェラールから、離れていった。



 ジェラールはその後の三年間、ほとんど誰とも話さずに附属校を卒業した。魔力量が多かったせいでそのままアルティーリア学園への内部進学が決まり、本当は嫌だったが、喜ぶ親の前で無理やり作った笑顔で進学を決めた。



 入学後、ルビィ・リビィと同じクラスになった。彼もジェラール同様、いつも一人だった。余り者同士が行動をともにするようになるのは、すぐだった。



 ルビィは不思議な子だ。いつも何か考え事をしているのか、ふらふらと左右に蛇行して、真っ直ぐ歩くことができない。人がすぐ近くを通るときは、わざわざ立ち止まって彼らに背を向け、通り過ぎるのを待つ。革製の筆記具入れに強い執着を見せ、運動の授業のときでさえ手放さない。ぱっと思いつくだけでも、彼の変わった行動はこれだけ挙げることができる。そして、ルビィのそういうところは、意地悪な生徒の目に留まりやすかった。



 同じクラスにスペルビア派の、やたらと声の大きいグループがある。リアム・ドルトンを中心とした問題児の集まりだ。附属校の頃に彼らがルビィを揶揄って笑っていたのをジェラールは何度か見たことがあった。あるときロイ・アヴェイラムに釘を刺されたらしく、彼らも卒業するまではおとなしく過ごしていたのだが、学園に進学してからまた好き勝手するようになっていた。移動教室のとき、ルビィの頭を後ろからはたいて走り去っていったり、筆記具入れを奪おうとしたり。だけど、ジェラールには彼らを注意する勇気などなかったから、隣でただ黙って見ているだけだった。



 ジェラールは学年で一二を争うほどに背が伸びた。背の低いルビィといっしょにいると、二人は凸凹でこぼこコンビだ。附属校の頃の生徒会選挙以降、他人の視線が苦手になったジェラールは、背が伸びるにつれて肩をすぼめる癖がついた。

 しかし、ルビィと二人並んで歩くと、やはり注目を浴びやすかった。ジェラールはそれが嫌だったし、リアム・ドルトンたちがルビィを揶揄うときは、自分までもが標的にされないかと、いつもヒヤヒヤしている。それでもジェラールは、ルビィの隣を離れようとは思わなかった。ひとりぼっちが嫌なわけではない。ルビィといっしょにいるのを悪くないと思っているからだった。



 しかし、ジェラールは自分にルビィの友達になる資格があるのかわからなかった。ロイ・アヴェイラムのような天才であったなら、もっと自分に自信を持てたはずだ。同じ一年生だというのに、あのクインタスに怯えることなく勇敢に戦い、多くの人を救ったロイ。対して自分は、クラスのいじめっ子にさえ怯えて何もできず、ルビィを守ることができない。



 ルビィの父親がクインタスに襲われたのは、新学期が始まってまもない頃だった。死んではいないが、例のごとく四肢を切り落とされてしまったらしい。その凄惨な事件は、ジェラールの理解の範疇を軽く超えていたが、ルビィ本人は事件後も休まずに登校し、普段と変わった様子もない。同じアヴェイラム派の生徒たちはルビィを励ますように言葉を投げかけた。

 派閥の外の人間からすると、アヴェイラム派の生徒たちは排他的で、貴族的で、近寄りがたい存在ではあるが、仲間内での結束力は強く、身内には優しいらしかった。隣にいるジェラールを完全に無視してルビィに声をかける彼らは、非常にアヴェイラム派らしかった。



 事件から数週間もすると、悲惨な出来事の後に漂っていた教室の重い空気もようやく元に戻ろうとしている。昼前の授業が終わり、ルビィといっしょに食堂へ向かおうかというときに、教室の前の方から人を小馬鹿にしたような耳障りな声が聞こえてきた。

 ああ、またか、とジェラールは内心で嘆息した。



「おーい、ルビィ・リビィくぅん。今からデズがモノマネするから、誰の真似か当ててみろよ」



 そちらに目を向けると、いじめっ子グループのリーダー格の男子生徒、リアム・ドルトンが、隣の生徒――デズモンドの肩を叩いていた。



 ジェラールは隣のルビィの様子をちらと窺った。彼はリアムたちを無感動にじっと見ている。

 肩を叩かれたデズモンドはニヤニヤしながら教卓の上に乗り、仰向けになる。教室は静かだった。周りを見ると、クラスのみんながデズモンドがこれからいったい何をするのかと、控えめに教室の前方に注意を向けていることにジェラールは気づいた。



 ジェラールは教卓の上に寝転ぶデズモンドに視線を戻した。そのとき、デズモンドはおもむろに肘と膝を折り畳み、教卓の上でジタバタと芋虫のようにうごめき始めたのだった。



「ルビィ、どこにいるんだぁ? 早く来てくれぇ! 手足がないから動けないんだぁ」



 デズモンドが素っ頓狂な甲高い声を上げると、教室の空気が凍りついた。そんな中、ただ一人、リアムだけがぷっと吹き出し、ゲラゲラとお腹を抱えて笑い出した。それに釣られるように、笑いはいじめっ子グループ全員に広がる。

 たちまちのうちに、ジェラールの頭に血が上った。顔が熱い。髪の毛に火が燃え広がったのではないかと、勘違いするほどだった。



「――やめろよ」



 周りよりも一足早く声変わりの終わった低い声が、ジェラール口から漏れる。しかし、笑い声にかき消され、リアムたちには届いていないようだった。



「やめろ」



 ジェラールがもう一度低い声を出すと、笑い声は止んだ。



「はあ? なんだよ、負け犬」



 リアムが教卓を叩き大きな音を立てた。睨みつけてくるリアムを、ジェラールは睨み返した。いつも通りジェラールは簡単に引き下がるとでも思っていたのか、予想外の反撃にリアムは一瞬たじろいだ。



「はっ。何マジになってんだよ。ただの冗談だろ?」



「やっていいことと、悪いことがあるだろ」



「えぇ? 何が悪いんですかぁ? 俺たちはべつに誰の真似かなんてひとっことも言ってないんですけど? 逆に特定の誰かを連想しちゃったお前の方が、やばいんじぁねーの? なぁ?」



 リアムが同意を促すと、仲間たちは底意地の悪いにやけ顔をジェラールに向けた。



「いやいやほんと、お前マジでやばいよ。ルビィ君かわいそー。でももう大丈夫だからな? 俺たちがこうやって負け犬ヴィンデミアの腐った性根を炙り出してやったからさ」



 リアムが優しい声でルビィに語りかける。何を思ったか、教卓の上のデズモンドが再びジタバタと暴れ出した。



「ルビィ! ヴィンデミアなんかと友だちなんてやめるんだぁ! こんな負け犬なんて、さっさと切り捨ててくれぇ! パパの手足みたいに、さっさと切り捨てちゃってくれぇ!」



 デズモンドがまた調子外れの声を出す。

 ジェラールは駆け出していた。床を思いっきり蹴って一瞬のうちに教卓のところまで詰め、デズモンドを殴りかかった。異変に気づいたデズモンドが顔を庇うように右手を上げ、ジェラールの拳がデズモンドの前腕に突き刺さった。

 ガリっと嫌な音が耳に響き、遅れてデズモンドの叫び声が聞こえてくる。床に落ちたデズモンドを放置し、ジェラールは教卓の隣に立つリアムを見た。彼の顔が、驚きから怯えへと変わっていくのが見えた。



「落ち着けって。悪かったよ。デズモンドのやつがやりすぎたんだ。はは……」



 リアムの言うことは何一つ頭に入ってこなかった。ジェラールがゆっくりと近づくと、リアムは後退り、段差に躓いて尻餅をついた。

 これじゃあ殴りにくいな。そう思ったジェラールは、仕方がないからリアムの膝を思いっきり足で踏みつけた。

 リアムの悲鳴がうるさい。

 足をどけると、リアムの膝はあらぬ方向を向いていた。もう片方の足にも同じことをしようと思ったが、リアムが藻掻もがくせいで狙いが定まらない。

 代わりに背中を蹴ろう。リアムは痛みに悶えて丸くなった背中をこちらに見せているから、蹴りやすそうだ。

 リアムにもう一歩近づき、右足を振り上げたとき、制服の裾のところを引っ張られる感覚がした。



「ルビィ……」



 振り向くと、ルビィがすぐ隣に立っていた。彼を見てジェラールの頭は冷静さを取り戻す。



「食堂。行かないの?」



 ルビィは、こんな状況でもいつも通りの様子だった。

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