第7話


 建物の中に入り、正面の受付の前までいくと、不健康に見えるほどに肌の白い、30歳くらいのナースが緩慢な動きで顔をあげた。ベイカーが巡察隊のバッジを見せると、彼女は警戒することもなく情報を話し始めた。巡察隊の影響力はアルティーリアの郊外まで広がっているみたいだ。それともこの女のプライバシー意識が緩いだけだろうか。

 ベイカーは懐から筒状に巻いた紙を取り出し、広げてナースに見せた。



「面会に来た男はこの似顔絵の男ですか?」



「そうねえ、雰囲気はそんな感じだわ」



 僕はアバグネイルと顔を見合わせた。



「その男はよくここに来るのですか?」



 ベイカーが質問を続ける。



「ええ。数ヶ月に一回くらいかしら」



「数ヶ月に一回……それは多いのですか?」



「多いわ。ここに患者を連れてきた日が最後の訪問日になることも多いんだから。ふふ。年に一回でも訪ねて来れば、よく来る人と言ってもいいんじゃないかしら」



 隣でアバグネイルが息を呑んだ。つまりここは、そういう場所なのだ。



「うぁあうぅううう」



 廊下から何かの叫び声が聞こえてきた。その声に反応するように、続けてうめき声や壁を叩く音がそこかしこから響いてくる。人間の出す声ではないのに、それがたしかに人間の声帯から生まれる音であるとわかった。そんな、認識の隙間に入り込んでくるような声に、鳥肌が立つ。



 少しの間、僕ら三人は廊下に意識が持っていかれた。受付のナースに視線を戻すと、彼女は何も聞こえていないかのように、変わらずにそこに座っていた。

 その異様さに、さすがのベイカーにも動揺が見られた。彼は軽く咳払いをし、再び口を開いた。



「それで、彼が面会に来る患者さんに私たちがお会いすることは可能ですか?」



「いいわよ。話はできないけれど。私が案内するわ」



 こんなに簡単に面会できるのかと驚く。患者と話ができないのはこの精神病院のルールだろうか。

 ナースは立ち上がり、僕たちを先導した。僕たちは無言で彼女の後ろを歩いた。

 建物の入口の扉をちらと振り返る。受付は無人となったが、不都合はなさそうだった。







 階段を上り二階の奥の方へと歩いていくと、時折聞こえていた不気味な声がだんだんと遠のいていった。



「この部屋よ。部屋の中に入っても大丈夫よ。彼女はおとなしいから」



 ナースの言う通り、中からは音一つ聞こえてこない。患者の凶暴性で区画を分けているだろうか。ここら辺は人の気配を感じないほど静かだ。



 ナースはカギを開け、躊躇なくドアを開いた。クインタスが面会に来る精神異常者とはいったいどんな患者だろうと戦々恐々としていた僕の前に姿を見せたのは、僕と歳のそう変わらないくらいの髪の長い少女だった。部屋の奥のベッドに腰掛けたまま、身じろぎ一つせず、じっと壁を見つめている。



 寝ていると思っていたから、驚く。アバグネイルも同じことを思ったのか、入るのを躊躇した。ベイカーだけは気にせずに入室し、僕らも彼に続く。



「反応がないですねぇ。人が入ってきたことに気づいてないようだ」



「その子はずっとそんな感じよ」



「さきほど話ができないとおっしゃったのは、病院のルールなどではなく、このことだったのですね」



 ベイカーが入口で扉に寄りかかっているナースを振り向いて言った。



「あら、言葉が足りなかったみたいね。その通りよ。話しかけても何の反応も示さないから、会話ができないの」



「反応を示さない、ですか。なるほど。……試してみても?」



「私が見てる間なら」



 ベイカーは彼女の前まで移動し、屈んで少女の顔を覗き込んだ。



「ふむ。なるほど」



 ベイカーは、それからしばらく、話し方や声の大きさを変えながら少女の反応を窺った。ナースは時間制限を設けなかったが、飽きずに付き合ってくれた。淡々とした態度に似合わず、対応が良い。あの受付で椅子に座って患者の叫びを聞き続けるよりは、僕らに付き合う方がマシなのだろう。



まばたきはするね。動くものに釣られて眼球も動く。不思議ですね。これはどういった病気なのですか?」



「精神の病ってね、症状が本当に多岐に渡るから、病名がわからない、もしくはまだ命名すらされていないこともざらなのよ。彼女もその一例。どういう病気かはわからない。音や光に反応することはあっても、自発的に行動することはほとんどない。ただ――」



 ナースはつかつかとベイカーの後ろを通り、部屋の左隅に置かれた本棚から本を一冊引っ張り出し、それを少女の膝の上に置いた。少女は本を手に取り、真ん中あたりまでページを捲った。眼球が上下に動くのを見る限り、ちゃんと読んでいるように見える。



「これは……。彼女は本を読めるのですか? ええとつまり、内容を理解して?」



 僕は不思議に思ってナースに尋ねた。



「私は理解していると思っているわ。今彼女が開いたページは昨日私が本を取り上げたときに開いていたページだもの」



「取り上げた?」



「ええ。この子、本を与えるとずっと読み続けるのよ。彼――面会に来る男が言うには、こんな風になる前から、読書が大好きな子だったんですって」



 少女がページを捲る。



「本を読むという行動だけは自主的にするわけですか。不思議ですね」



「自主的とは言えないわ。私たちが与えない限りは自分から本棚に本を取りにいくことはないの。病気になる前に繰り返していた行動を反射的に取っているだけじゃないかって、院長は言っていたわ」



 反射か。起きているのに植物状態と言ったところだろうか。



「しかし、個室に本棚ですか。しかもかなりの冊数。そういえば、部屋も随分と過ごしやすそうだ。広くてベッドも清潔そうに見える」



 ベイカーが不審そうに言った。



「他の部屋はもっと質素なものよ。牢屋のようなところもあるわ」



「へえ、そうなんですね。部屋はどういう風に患者に割り当てられているんですか?」



 アバグネイルが首を傾げる。



「面会に来る人がいると良い部屋を与えられるのよ。ナースたちのお世話も丁寧なものになるわ。だって、誰も訪ねて来ない患者の待遇を良くしてもしょうがないでしょう?」



 ナースの発言にアバグネイルがごくりと唾を飲み、不快そうに眉をひそめた。



「それは、面会に来る人に見栄を張るため、ですか?」



「少し違うわ。誰かが面会に来る患者というのは、少なくとも一人はその患者の生を願う人がいるということ。私たちはそうやって命に順序をつけているの。もちろんその他の理由もあるけどね。たとえば症状の差異だったり、親族から支払われる金額の多寡だったり。でも、そういった経営上仕方のない理由を除けば、やっぱり訪ねてくる人の多さや頻度が大事だわ」



「それじゃあ、面会者がゼロの患者は命の価値がないとでも?」



「そうね」



 淡々と告げるナースと、怒りを抑えるように声を震わせるアバグネイルが対照的だった。

 リソースに限りがなければ、すべての患者に最高の待遇を与えればいい。現実はそうではないのだから、限りあるリソースを何らかの基準で分配しなければならない。ナースの言っていることはそういうことのように聞こえる。

 それは、僕には正しい言い分に思えた。でもアバグネイルにとってはナースの発言は正しくないことで、たぶん多くの人にとっても正しくないのだろう。価値観の違い……なのだろうか。それとも僕の倫理観が歪んでいるだけなのか。



「難しい話だねえ。素人が軽々しく口出しする話ではないかもしれないね」



 ベイカーがそれとなくアバグネイルをたしなめた。アバグネイルは何か言いたそうにしつつも口をつぐんだ。



「――ところで、これらの本も病院が購入を?」



 ベイカーが話を戻した。



「本はすべて面会の彼が持ってきたものよ。以前はじかに床に積んでいたけれど、いつだったか、彼が本棚を下の町でわざわざ買ってきて、持ち込んだの」



 面会に来ているのが本当にクインタスだとしたら、その行動は彼とは結びつかない。



「なるほど、そういうことですか。その男とこの少女の関係はご存じですか?」



「きょうだいよ」



「きょうだい!?」



 暗い顔で何やら考え込んでいたアバグネイルが驚きの声を上げた。



「え? ええ。本人もそう言っていたし、病院にもそう登録されているはず。まあ、本当かは知らないけど……少なくとも顔は似ているわよ」



「クイン……じゃない。あの男に妹が? しかも、話を聞く限り、それなりに大切にしているみたいだけど」



 アバグネイルは納得のいかない顔だ。



「――いや、あり得る話だ。似顔絵と比べてみても、やつの面影があるように思う。ロイさん、彼女の顔を正面から見てもらえませんか?」



 ベイカーは部屋の入口付近に立っている僕に手招きをした。僕はベッドの横に移動し、少し屈んで彼女の顔を見た。



 クインタスと同じ目をしている。

 まず初めにそう感じた。あの爬虫類のような黄金の瞳は、僕の記憶に刻まれている。金色の目を持つ人間はクインタスの他に見たことがない。目の前の少女がクインタスの妹であることは、ベイカーが言う通り、たしかにあり得そうだ。

 性別や年齢の違いからか、クインタスよりはいくぶん柔らかい印象を受けるが、この目に睨まれたらクインタスの恐ろしさがフラッシュバックして竦み上がるかもしれない。



 目以外のパーツはどうだろうか。似ているとは思うが、確証が持てるほどクインタスの顔を間近で見ていないからなんとも言えない。この少女がクインタスみたいに険しい顔の一つでもしてくれればわかるかもしれないけど、僕がどれだけ失礼なことをしようとも、彼女の顔の表情は変わりそうになかった。



「似ていると思います」



「そうですか」



「――あの、そろそろ出ませんか? ここではほら。話しにくいこともあるでしょう?」



 僕は一瞬だけナースを見やった。



「それもそうですね」



 僕の意図が通じたようで、ベイカーは頷いた。

 僕らは部屋を出た。思わぬ収穫を手にして。ナースが扉を閉める前に、隙間から少女の姿を最後にもう一度見た。変わらず、みじろぎひとつせずに膝の上の本を読んでいた。



 扉がバタンと閉められ、少女の姿が見えなくなる。少女は束の間の闖入ちんにゅう者のことなど最後まで認識していなかったみたいだった。肉体は同じ世界に存在しているのに、意識だけが別世界へと旅に出ているかのようだった。

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