第8話


 区切りのよいところまで読み終え、両手を上げて伸びをすると、喉からくぐもった音が漏れた。日は傾き、窓から入る光が部屋を赤く染めている。

 僕はソファから立ち上がり、本を棚に戻した。



「エルサさん」



 書斎を出ていく前に、伝えておきたいことを思い出して、僕はエルサに呼びかけた。



「何?」



 エルサは書類から目を離さずに応える。



「ワイズマン教授の研究室にこれからお世話になることになったので、一応報告しておきます」



「――そう」



 エルサはこちらを見ようともしない。

 興味など欠片もなさそうだった。息子が自分と同じ道を選ぶかもしれないというのに、気にならないのか、この人は。



「研究室であなたの大学時代の論文を読みました。『魔力の波動的特性とその同一性』。まだ途中までしか読めてませんが、応用が利きそうな内容ですよね。エルサさんが王立研究所でしている研究とも、少しは関係していますか?」



 彼女の研究の話題を出せば無関心を装うことはできまいと、僕は尋ねた。エルサは手に持っていた資料を机に置き、立ち上がった。



「ロイ、そこに座りなさい」



 エルサはソファを指差した。

 言われた通りに僕はソファに座り、正面の椅子にエルサが座った。何を言われるのだろう。

 エルサの反応が欲しくて探るようなことを言ってしまったが、少し行きすぎた発言だっただろうか。国家機密扱いのエルサの研究について尋ねるのは。

 目の前のエルサは、まるで息子を叱る前の母のようだ。実際に僕の母親なわけだけど、いまだに親子という意識は持てないでいる。



「ロイはさ、どんな研究者になりたい?」



 エルサは真面目な顔で僕に問いかけた。

 研究について探るのはやめろとでも言われるのかと思っていたから、その柔らかな口調に戸惑う。



「どんな、ですか。正直、考えたことがありません。僕は興味があることを研究して、それが結果的に魔法学の歴史に深く刻まれるような理論や発見であったならば、これ以上ない喜びだと思います」



 理想の研究者像など持っていたわけではなかったけど、今考えながら言葉にしてみれば、意外にも心にしっくりきた。

 やりたいことだけやれればいいと思っていたけど、本当はそれだけじゃなかったみたいだ。魔法学が大きく変わるような、欲を言えば、世の中に変革をもたらすような、そんな研究がしたいと思っているのだと、自身の言葉に気づかされる。



「魔法学の歴史か……。きっと私の名前は刻まれるでしょうね」



 エルサは気負うことなく言った。

 彼女はそれほどの研究をしているということだ。でも、言葉とは裏腹に、彼女の顔はちっとも嬉しそうじゃない。



「名誉なことじゃないですか。国家プロジェクトの中心となって活躍できるなんて」



「そうね」



 エルサはなんの感慨もなさそうに言った。

 僕は、エルサの最初の問いを思い出す。――どんな研究者になりたいか。もしかしたら、エルサが自分自身に問いかけるための言葉だったのかもしれない。



「エルサさんは――思い描いていた研究者にはなれていないのですか?」



「私はね、自分の名誉なんてどうでもよかったわ。研究者として不当な扱いを受けた父の名誉を挽回したかった。それだけを考えてやってきたの。けれど、そのはずなのに、私自身が彼をさらに貶めるような道に進んでしまった。昔の私――ちょうど今のロイくらいの年齢だった私が今の自分を見たらきっと幻滅するでしょうね」



 父の名誉を挽回するため、か。詳しい事情はわからないけど、他人のために研究をする気持ちにはまったく共感ができなった。自分に還元されないことにモチベーションを持ち続けることは、きっと僕にはできない。父親だろうが所詮は他人だろう、と思う僕は薄情だろうか。

 エルサは以前、子供の頃にアッシュレーゲン家に引き取られたと言っていたから、彼女には父親が二人いるはずだ。

 彼女の言う父親とはどちらのことだろう。彼女は引き取られた先のアッシュレーゲン家に対してあまりいい印象を抱いていなさそうだが……。



「父親というと、アッシュレーゲンに引き取られる前の……つまり、血のつながった方の父親のことでしょうか」



「ええ、そうね」



「とすると、僕からすれば実の祖父になるわけか。――その方は今は?」



「もういないわ」



 やはりそうか、と僕は思った。

 エルサが養子であったと聞いたときから予想はしていたし、実際に会ったこともないからすでに死んでいると知っても何も思わない。



「ねえロイ、ひとつだけお願いをしてもいいかしら」



 エルサはどこか落ち着かない様子で言った。

 エルサからお願いとは珍しいこともあるものだ。彼女の放任主義は度を越していて、僕にあれこれと注文をしてきたことなど、覚えている限りでは一度もない。

 僕はエルサの雰囲気につられるように、居住まいを正した。



「なんでしょうか」



「この先ロイが、私や私の父のように研究者になるかはまだわからないけれど、もし同じ道を歩むのなら、あなたの研究が世にどれだけの影響を与えるか、考えることをやめないでほしいの」



「ええと、それは研究倫理の話ですか?」



「研究倫理というより、人としての道徳――私が道徳だなんて、自分で言ってておかしいわ。でも聞いて。あなたはアヴェイラムには優しすぎるの。けれど、きっと優しいだけじゃない。最近のロイを見ていると、とくにそう思うわ。あなたは、どんな方向へも進む可能性がある。だから、ロイ。進むべき道を間違えないで」



 急に何を言い出すかと思えば、僕が優しい? 友人を見殺しにしかけた男に対して、節穴もいいところだった。それとも、エルサはそんな浅ましい僕を見透かしているからこそ、こうやって道徳を説こうとしているのだろうか。

 進むべき道だとか可能性だとか言われても、まるでピンとこない。べつに悪虐非道のマッドサイエンティストになりたいわけでもないし。魔法学の研究をしていて倫理的に重大な選択を迫られる未来を今の僕には想像できなかった。

 研究者どうこうの前に、人として正しい道を行けという話か? 母として子に道徳を説いているつもりなのだろうか。



「それは、研究者の先達としての教えですか? それとも、まさか母親として?」



 口から出た言葉は予想外に攻撃的な色を含んでいて、僕は自分で驚いた。

 実の子をほったらかしにするエルサに対して、僕は不満など抱いていない。なぜなら、そもそも僕は彼女を母親として見ていないからだ。

 じゃあ、どうして今、こんなに苛立つのか。

 エルサの表情には、僅かに怯えが走ったようだった。彼女は喘ぐように口を開閉させるが、呼吸音が僅かに漏れるだけだった。やがて言葉を発することを諦めたのか、彼女は二人の間を隔てるテーブルへと視線を落とした。

 僕は小さくため息を吐いて、エルサから視線を外した。窓が太陽の最後の輝きをこの部屋に届けていた。



「日も沈みますので、もう部屋に戻ります」



 僕はソファから立ち上がり、入口へと向かった。

 ドアノブに手をかけたとき、後ろでエルサがソファから立ち上がる音が耳に届き、僕は動きを止めた。



「あ、あなたの魔法の属性は雷でしょ?」



 さっきまでの話題とは無関係に思える質問に、僕は虚をつかれ、思わず振り向いた。エルサは立ち上がっていた。彼女は僕と目が合いそうになると、顔ごとそっぽを向く。



「その通りですが」



「私も雷なの。ということは、あなたの魔法の才は、生物学上の母親である私から遺伝したものであることは明らかでしょ? だから、魔法学の研究をするあなたに私が――は、母親として口出しするのは、筋が通っているの。逆にロイも息子として私の些細なお願いくらいは、聞き届ける義務があると言ってもいいんじゃないかしら」



 エルサが上擦った声でペラペラと独自の理論を展開する。

 相も変わらず、バツが悪そうに視線を彷徨わせながら話すエルサを見て、その子供っぽさに怒りよりも呆れが勝った。

 都合が悪いときに理屈っぽく言い訳をしてしまう姿に既視感を覚え、ああ、その正体は自分自身だ、と気づく。屁理屈で言いくるめようとするエルサは僕にそっくりだった。血のつながりを見せつけられているようで気恥ずかしさを覚える。

 これまで母親という役割を放棄してきた彼女のことだから、この不器用なコミュニケーションにいたるまでに、いろんな葛藤があったことは想像に難くなかった。彼女と仲のいい親子の関係を築きたいとは思わない。だけど、少しくらいはこちらから歩み寄ってもいいかもしれないと思った。



「――わかりましたよ。ご忠言、謹んでたまわりましょう」



 僕は照れ臭さを誤魔化すように、必要以上に恭しく、右手を胸に当てて言った。

 わざとらしすぎて真剣味が伝わらなかったのか、エルサが不安そうに眉尻を下げたから、僕は右手を下ろして、もう一文だけ付け加えた。



「あなたの息子として、心に留めておきます」



 エルサはゆっくりと口元を綻ばせ、優しげな視線をこちらへと寄越した。初めて見るエルサの表情のせいで、今度は僕の方が顔を逸らす番だった。

 落ち着かない空間から逃げるように、僕はドアを開けて廊下へと滑り出た。

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