第7話
エルサの書斎の蔵書数は個人で抱えるには多く、すべての資料に目を通すには
同じ文章量でも、内容が専門的になればなるほど理解して読み進めるのに膨大な時間を要する。斜め読みしてもなんとなくストーリーを追える小説などとはわけが違うのだ。
知識が増えるにつれて読む速度は上がっていくとはいえ、この量の研究書を所持し、おそらくすべてに目を通しているエルサの魔法学に対する熱心さには舌を巻くばかりだった。
読んでいたものが一段落し、それに関連する資料を探しに僕はエルサの書斎を訪れた。
本棚を順に見ていくと、一番下の段の
そういえばこんな本もあったな。前に見たときはスルーしたけど、よく考えれば、ここにあるには場違いの本だ。
僕は本を棚から抜き出し、表紙を見た。革の装丁は傷だらけだったが、『ラズダ姫』という文字が辛うじて読み取れた。
ラズダ姫――ちょうどつい最近、歴史の授業で彼女の時代を習ったところだが、その名前はずっと前から知っていた。小国の王女でありながら、その類稀なる才覚で歴史上初めてグラニカ王国を統一へと導き、初代女王として君臨した女傑。この国に住んでいてその名を知らぬ者などいないというほどの偉人である。しかし、どれだけ有名人の伝記でも、魔法学の資料にまみれたこの書斎の、しかもこんな片隅にある理由は思い当たらない。
表紙をめくる。中はカバーほど状態は悪くなかった。
最初の章を読み始めると、単語の綴りが現代と異なっていたり、文体が古めかしかったりして、少し読み辛かった。物語形式になっていて、堅苦しさはそれほどなく、話し言葉は比較的理解しやすいのが救いだった。
読み進めていくと、これは自分が前に読んだことのある版とは話の流れが所々違っていることに気づいた。息抜きにチラ見するくらいのつもりが、先が気になってページをめくる手が止まらない。
ラズダは幼少の時分から魔法の残滓を見ることができました。彼女は天より与えられしその力を存分に活用し、戦の世界へと足を踏み入れます。そして、稀代の戦術家として、その勇名を本土に轟かせるようになるのです。
古めかしい文章を読むのに慣れてきたところで、ふと、気になる記述を見つけた。魔法の残滓を見ることができる――ラズダ女王がそんな能力を持っていたなんて聞いたことがない。
物語の語り手の視点も気になった。僕が読んだことのある『ラズダ姫』はグラニカ王国の本土であるグラニカ島に、モクラダ王国出身のラズダ姫がやってきたという目線で書かれていて、そこからの快進撃をストーリーの主軸としていた。だけどこの本は、ラズダ女王が生まれ故郷でどのような幼少期を過ごしたかなどが丁寧に描写されていて、彼女の近くにいた人物の視点のように思える。
グラニカ島に
最後のページまで飛び、著者の情報を見る。出身地や出身大学から何かヒントが得られるかと思ったが、生年月日の記載のみだった。
ラズダ女王は小国出身というだけでなく、ネハナ人と呼ばれる少数民族の母親を持つ。ネハナは閉鎖的な民族だったらしく、謎が多い。ラズダ女王の突出した才覚を思うと、その血にはロマンを感じる。
この本がネハナ人によって書かれたものだと考えるのは、夢を見すぎだろうか。
ラズダ女王の子はみな夭逝してしまって今の王族にはネハナの血は流れていない。彼女の死後、権力闘争の末にネハナ人は故郷を追われ、歴史から姿を消して久しい。すでにその血は絶えたとも言われている。
僕も一応王族の血は引いている。第何位か知らないけど継承権もある。しかし、先祖を遡って行き着くのはラズダ女王ではなく、彼女の異母弟であるシャアレ王である。
僕に一滴でもネハナの血が入っていたらロマンがあるのに。歴史のもしもを考えずにはいられない。
ラズダ女王は魔法の残滓が見えたということだが、ただの脚色だと片付けるのは早計かもしれない。たとえば、ネハナ人は遺伝的に魔法を見ることに関して視覚が発達していた民族だったとか、魔法の素養が高かったとか、そういう可能性もあるのだ。
人が色を認識できるのは、特定の光の波長に対して高い感度を持つ視細胞が三種類――少なくとも地球の人類基準では――存在するからだ。赤、緑、青に強く反応する視細胞が外界からの情報を受け取り、それを脳が処理する。その結果、三色の組み合わせ方によって様々な異なる色として認識することができるのである。
仮にラズダ姫が魔法の残滓を見ることができたのが事実であるとすると、魔法は電磁波に類する何らかの波を発しているのではないだろうか。ラズダ女王は、その波を感知できる視細胞を持っていたと推察できる。
「試してみるか」
魔法の残滓が見えるというラズダ女王のエピソードから、僕は少しおもしろい試みを思いついた。魔力での身体強化はもう随分してきたけど、目を強化しようと考えたことはこれまで一度もなかった。
少し怖いがやってみよう。これまで幾度となく身体強化を施してきた感覚から言えば、さすがに失明はしないだろうと思う。
でもやっぱり怖いから、念のため、ごく僅かな魔力を右目に送ることから始めてみる。
僕は魔臓から少量の魔力を移動させた。この操作は体に染み付いていて、もう慣れたものだった。
魔力が右目に到達すると、目の奥の方に微かな温かさを感じた。しかし、何も変化は見られない。
魔法の残滓と言うくらいだし、魔法を使ってみることにする。書斎の中で雷魔法を放つわけにもいかないし、やるなら身体強化かな。
右手を魔力で強化してみるが、依然として何も変化は訪れなかった。やはり、そんなうまい話はないみたいだ。僕のクインタス撃退の話にすらいろいろと尾ひれがついているのだから、歴史上の人物の言い伝えなんて、話半分に聞くくらいがちょうどいいのだろう。
――ん?
待て、なんだこれ。
身体強化を施した右手周辺の空間が、僅かにぼやけて見えている。
何かが浮いているのか?
左手で触れようとしてみるが、なんの抵抗も感じられない。よく目を凝らせば、強化している右目のすぐ近くにもそれは浮かんでいた。
背中がぞわっとして、汗が吹き出すのがわかった。体の不調とかじゃない。僕は今、新たな可能性の扉を開こうとしている。そのことに興奮しているんだ。
右目に送る魔力を少しずつ増やしていく。目の奥がさっきよりも温かい。
そして、部屋の中の景色はゆっくりと、その姿を変えていった。
「綺麗だ……」
右目のすぐ近くには、黄と紫の二色が混ざり合ったオーロラのような
左右の目で見えているものが違うせいで、目がチカチカする。僕は左目を閉じ、右目のみで身体強化をしている右手を見た。
拳を中心に、空気が黄色と紫色に発光していて、手から遠ざかるにつれて薄くなっている。右手から、同心球状に何かが放出されているのが見て取れた。
でも、目の近くも発光しているのはちょっと不便だな。綺麗だけど少し見にくい。色眼鏡をかけているみたいだ。
これは目を強化したときに漏れ出た魔法の残滓だと思う。眼球全体を強化するような感じじゃなくて、もっとピンポイントに強化すれば光は抑えられるかもしれない。
じんわりと温かい感じがする目の奥――眼球の裏側あたりだろうか――に、位置を微調整しながら魔力を送っていく。すると、目の前に見えていた光はほとんど気にならないくらいまで薄くなった。右手周りの発光は今も変わらず見ることができているから、目の魔力強化自体はうまくいっている。
しばらく試行錯誤をして発光の強弱の要因を調べてみたところ、強化する箇所の問題だとわかった。同じ魔力量でも強化する部位によって光の強さは異なる。たとえば手のひらの表面付近に魔力を送ると強く発光するが、手のひらと手の甲の中間付近だとほとんど発光が見られない。
つまり、この現象を生じさせている何かは体を透過しにくい性質を持っているのだ。試しに握り拳を強化して、反対の手でそれを包み込んでみると、周りの空気の発光は少し弱まった。やはりこの光は体を透り抜けにくいようだ。
一度、手の魔力強化を解除する。しかし、光はすぐに消えるのではなく、少しの間残ったままだった。
なるほど、これが魔法の残滓と呼ばれる所以か。ラズダ姫もこんなふうに光を見ていたのだろうか。時空を超えた壮大なロマンを目の当たりにしているようだった。
空中の光に夢中になっていて気づかなかったが、床や壁、さらには天井までもが蛍光塗料のような光を微かに放っていた。それらは空気の発光よりも長い時間残るようで、まだまだ光が消える様子はなかった。
僕は楽しくなって、部屋のあちこちを発光させることに躍起になった。ここまできたら、どうせなら部屋の隅々まで光らせてやろう。あそこの天井の角から攻めようか。
そんなふうに意味のないことに時間を費やしていると、不意に入口の扉が開き、エルサが顔を覗かせた。
「何してるの。そんなとこに突っ立って」
エルサには光は見えていないようだった。
部屋の中央に立ち、天井の角をじっと見つめている僕は、彼女の目にさぞかし奇妙に映ったことだろう。猫がときどき何もない空間を凝視するのは、人よりも可視域が広く、人が認識できない光が見えているからだという説があるが、今の僕はまさに猫だった。
「目が疲れたので休憩を少し」
「ふぅん? 休憩するなら座ればいいのに」
「はい」
口から咄嗟に出た言い訳だったが、集中が切れたのか、事実目の疲労を強く感じ始めた。ソファに腰を下ろし、目を閉じて指で目頭を揉む。
「今日は何読んでたの?」
エルサは部屋の中央を進み、僕の座るソファの横を通り過ぎ、書斎机の前の椅子に座った。
僕はテーブルの上に開いたままだった本を手にとって、表紙をエルサに見せると、彼女はどうしてか苦い顔をした。
「あー、それね。本棚に押し込んでそのままにしてたの、忘れてたみたい」
「ラズダ姫。この版は初めて読みました。かなり古い本みたいですが……」
「その本は知り合いが置いていったの」
「その知り合いというのは、ひょっとしてネハナ人と関係があったりしませんか?」
当てずっぽうでそう聞くと、エルサは目を見開いた。
「なんで?」
エルサは急に真っ直ぐな視線を向けてくる。
「え? それは、勘ですかね」
「勘?」
「ええと、ネハナの事情についてやけに詳しく書いてあったので、もしかしたら著者はネハナ人と関わりの深い人物だったのではと思ったのです。ですから、これを持っていたエルサさんの知り合いも同様にネハナの関係者なのではと推測したまでです」
「それだけの理由で? ネハナ人なんて今生きてるかもわからないのに」
「だから勘ですよ。ちなみに、エルサさんはこの本を読んだことがありますか?」
読んだことがあるなら、僕がそう考える理由もわかるはずだ。謎に包まれたネハナの内情が記された資料はそれほど多くない。伝記といってもほとんど小説みたいなものだから、歴史書としてどれほどの信憑性や価値があるかは難しいところだけど、少なくとも魔法の残滓の記述に関しては、僕自身がその存在を確かめている。
「一度も読んだことがないわ」
「じゃあ一度――」
「今後読むつもりもないし」
ぴしゃりと言い切られ、鼻白む。
一冊の本を読む読まないの話だ。エルサがこれほど頑なに拒否するのを、僕は怪訝に思った。殺人の提案をしているわけでもないのに。
エルサは椅子を引いて、これ以上会話をするつもりはないとでも言うように、研究書を読み始めた。居心地の悪い沈黙が落ちる。部屋を出ていこうか迷ったが、キリのいいところまで読んでからにしようと思い、僕は結局書斎に居座ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます