第五章
第1話
夏休みが明けた。あの忌々しいクインタス襲撃事件から三週間が経ち、僕の心も少し落ち着きを取り戻していた。
あんなことがあったにもかかわらず、僕は相変わらず馬車通学だ。登下校中にクインタスに襲われるかもしれないから学園の寮に入りたいと言ったら、父にすげなく却下され、代わりにすごく強い護衛がついた。なんでだ。
彼なりに僕を心配している――などとは到底思えないから、クインタスへのまき餌という素敵な役割を
教室に入ると今日はやけに視線を感じる。もともと注目を集めやすいことは自覚していたが、今日は体中に穴が開きそうだった。しかもそれらは、夏休み前とは明らかに性質の異なるもののようだった。
たいして仲良くもないクラスメイトたちと二ヶ月ぶりの顔合わせは、不快なものとなった。自然と眉が寄る。気づかぬふりをして席に着くと、ペルシャがすぐに僕のところへやってきた。
「おはよう、ペルシャ。新学期早々、鬱陶しくてかなわないな」
「おはようございます。実は、あの事件の噂が広まっているようで、ロイ様を畏怖する向きがあるようです。中には英雄視するような生徒も」
「英雄視だと? 勘弁してくれ。そんなのは、あの赤髪一人で十分だろ」
「心中お察しします。近頃、クインタスは魔人であると噂する者が増えているそうです。その影響もあり、国民の反魔感情はますます高まっております。クインタスを撃退したロイ様は反魔主義の象徴のように思われているのかもしれませんね」
数年前からいっこうに収まらない魔物被害に、クインタスに対する不安や恐怖が重なった。どれほど荒唐無稽な話でも、それが真実であるかのように広まっていく。不安定な情勢だ。魔人など生まれてこの方、見たこともないというのに。
魔人が最後に我が国の歴史に登場したのなんてもう随分前のことで、それだって本当のことはわからないし、それを経験した人間は今はもう死んでいる。クインタスのことも魔人のことも知らないくせに、よく決めつけられるものだ。
――いや、知らないゆえに、か。わからないから余計に恐怖心を煽られてしまうのかもしれない。
ふと、どうして僕はクインタスに対してそれほど恐怖の感情を持っていないのか、不思議に思った。クラスメイトたちと違い、この身をもってやつの恐ろしさを味わっているにもかかわらずだ。
あの日、迎賓館であの目に射抜かれた子供たちは、衣擦れひとつ起こせないほど体を硬直させていた。そんな中、僕一人が立ち上がれたのは今考えても正気の沙汰じゃない。しかも、あんな経験をした今でも、クインタスに対しては恐怖よりも怒りの方が強く、他の生徒たちとの間に感情のギャップを感じる。僕が僕の力で撃退したという事実に、気が大きくなっているのだろうか。
クインタスが魔人だという噂は、生徒たちの中にあった恐怖心をよりいっそう膨れ上がらせている。なぜなら、我々グラニカ人は魔人の恐ろしさを子供の頃から言い聞かされて育つからだ。
魔人――造形は人間とさほど変わらないという。だけど、肌や目の色の違いとか、歯や爪が鋭いだとかで区別はできるだろうから、見たら一発でわかりそうなものだ。
クインタスはどう見ても人間だった――はずだ。いや、本当にそうか? 本当に僕らは人間と魔人を見ただけで区別できるのか? 案外そこらへんに魔人が歩いていても気づかないかもしれない。肌の色や目の色なんて、この国の人間の間でも個人差はある。とすると、クインタスが魔人というのは、案外荒唐無稽な話とも言い切れないのだろうか。
仮にクインタスが魔人であるとしよう。その場合のやつの目的を推理してみる。
この国グラニカ王国は、魔人の領域と海を隔てた、人類の最前線と言える島国だ。過去、海から攻めてきた魔人の撃退に成功したと歴史で習った。魔人からしたら、この国は彼らが人類の領域に進出するのに大きな障害となっているということだ。
これまでクインタスに襲われたのは、主に政治家と研究者。政治家の多くはアヴェイラム派で、僕たち家族も襲撃に遭った。アヴェイラム派は、戦争に賛成というほどではないが、どちらかと言えば好戦的な派閥で、僕の家族だけ見ても、兄は軍事魔法学を専攻しているし、父は高位の軍人である。クインタスの目的が軍事力の弱体化であれば、アヴェイラム派の政治家を暗殺することには十分合理性があるように思える。
研究者を殺す理由はどうだろう。犠牲者はみな魔法学を専門にしていた。そして魔法は、国家の軍事力に直結する要素である。
クインタスが魔人領からの刺客だと考えると、パズルのピースがはまるようにいろんなことに説明がついていく。
まさか、本当に?
新学期が始まり、今日で四日目になる。
クインタスを撃退したという話には大変話題性があるようで、新学期に入ってからというもの、教室ではクラスメイトたちの好奇の目に晒され、廊下を歩けば話したこともない上級生に真偽のほどを確かめられ、僕の平穏な毎日が脅かされていた。
中には握手を求めてきたり、さらにはサインを欲しがる
自分の行動が周りから正当に評価されるのは嫌いじゃない。すごいことをしてすごいと言われるのは気持ちがいい。実際僕がやったことは偶然の産物であったとはいえ、すごいことには変わりなかった。しかし、英雄ともてはやされるところまでいくのは違う。むず痒くて鳥肌が立つ。
生徒の多くは、事件で二十三人もの国民が殺されたことへの怒りよりも、連続殺人鬼という存在への恐怖心が大きいようだった。クインタスの名を口にしようとするときの顔のひきつりがそれを物語っていた。
無理もない。同じ学園の生徒が当事者になったことで、ただの怖い都市伝説だったものが突然現実となって身に迫ってきたのだ。あの日の僕を英雄扱いし殊更に称賛するのは、暗い知らせばかりの中にも希望を見出したいという人間の心理なのかもしれない。
しかし、夏休みが明けてもう最初の週も終わるというのに、僕に関する話題はいっこうに収まる気配を見せない。来週には落ち着いてほしいものだ。
そういえば、学園で今話題になっていることがもう一つある。これがまた奇妙なのだが、毎日正午になると欠かさず鳴らされていた希望の鐘が、夏休み明け以降、一度も鳴らされていないのだ。午前の授業の終わりを知らせるものでもあったから、みな初日から不思議がっていた。その日は鳴らし忘れか故障のどちらかだろうと思われたが、次の日もその次の日も正午に鐘が鳴らない。教師たちはそれが当たり前かのような顔で授業の終わりを告げ、教室を出ていく。不思議なのは、夕方の鐘はこれまで通りに鳴らされていることだった。正午の鐘だけが鳴らないのである。
このことは王都でも話題になっているようだった。希望の鐘の音は遠くまで響き渡る。ある日から突然鳴らなくなれば、人々の間でいろいろな憶測が飛び交うのは必然だった。
学園帰りに、僕は『ラズダ書房』に寄ることにした。新聞を買うためだ。夏休み中は一度も来なかったから、しばらくぶりだった。
「やあ、店主」
カウンターに座る店主に声をかけた。
「――ロイか」
青いレンズの向こうの閉じられていた目が開いた。
「相変わらず人がいないな。大丈夫なのか?」
僕はカウンターにもたれかかった。
「余計なお世話だ」
店主とはもう四年の付き合いになる。常連を名乗れるくらいには何度もここを訪れていて、こうして軽口も言い合える仲だ。彼には僕がアヴェイラム家の子供だと伝えていないから、気楽に言い合ったり議論したりできる。僕にとって貴重な相手だ。
「店主は希望の鐘が鳴らなくなったことは知っているか?」
「もちろん知っている。鐘の音はここまで届くからな」
「鳴らなくなってもう四日目。学園からはなんの説明もない」
「四日目じゃない。五日目だ」
「え?」
「九月最後の日、正午の鐘の代わりに弔いの鐘が鳴らされた。その日を入れて五日目だ」
九月の最終日――つまり、夏休み最後の日に、学園では二十三回の鐘が鳴らされたらしいのだ。そのことは新聞でも取り上げられていた。先の事件で死んだ二十三人を弔うためだという話だ。鐘を鳴らさないことも、事件に対する学園側のなんらかの意思表示だろうという見方は学園内でも多い。
「やはり迎賓館の事件が関わってそうだな。死者へ黙祷を捧げるためとか?」
「この記事によるとまったく別の意味があるようだ」
店主が新聞の山から一部を手に取り、僕の前に
「『希望の鐘は反魔感情を増幅する装置である』」
見出しにはそう書いてあった。記事の内容を見る。
希望の鐘は一日二回、正午と夕方に鳴らされる。今回問題となっているは正午の鐘の方で、その意味合いは、悪いものを浄化するというものだ。記事によると、例の事件以降、この『悪いもの』の部分を魔人と解釈する動きが活発になっているという。魔人との戦争を望む過激な思想まで育ち始め、それらの反魔活動のシンボルに希望の鐘が使われている現状を重く見た学園が、鐘を鳴らさないという選択を取った、ということらしい。
「結論、全部クインタスが悪い」
記事を読み終わり、僕はそう締めくくった。
「……簡単にまとめすぎだ」
「でもそうだろう? 反魔感情を国民の心に根付かせたのはクインタスだ。二十三人もの政治家や研究者が殺されて黙っているわけにはいかない。これから反魔感情はどんどん育っていくよ」
「その暴走を止めるには、希望の鐘をやめるだけじゃもの足りないな」
「暴走? 正常な反応だよ。こんな好き放題されて怒らない方がおかしいんだ。希望の鐘だって鳴らし続ければいい。反魔感情が高まって困る王国民なんていないんだから。まあ、うちの穏健派の校長は日和ったみたいだけど」
学園に来る前に彼が僕の祖父と対立したのも、そういうところが原因だろう。
「新聞を読んでもコーヒーハウスに行っても、誰もが口を揃えてクインタス、クインタス。崇高な思想など持たない犯罪者風情がいったいどれほどのものか。一人の男にばかりとらわれていると判断を誤るかもな」
店主が諭すように言った。
「その一人の男こそ、解決すべき最大の問題なんだ。僕らは社会全体でやつを抹消しなければならない」
「そうか。俺には関係のないことだ」
「関係ないだって? 店主はあの場にいなかったからクインタスの危険性がわからないんだ」
「ロイはいたのか?」
「あ、いや……あの場にいた被害者の気持ちになって考えるべきだと言っているんだ!」
「仮にその男が危険だとして、一人の男のためだけに大衆の反魔感情を煽る必要はないだろう。その男を殺せば終わり。事件は解決だ」
「そう単純な問題じゃない。やつの仲間がどれだけいるかもわからないんだ」
「これまでの犯行からして、たくさんいるようには見えないが」
議論が平行線をたどっている。
店主は知識や教養はあるが、僕のようにクインタスに関する生の情報を持っているわけじゃない。クインタスの恐ろしさは世間に浸透していても、僕と彼のような一般人とでは決定的に認識の差があるようだった。クインタスが魔人領からの刺客だとすれば、たった一人の犯罪者を殺して終わりとはならないのだ。
「新聞、買ってくよ。釣りはいらない」
僕は議論を打ち切り、ペルペン硬貨を一枚、カウンターに置いた。
「まいど」
いつも通りの声色で店主が言った。僕だけが勝手に熱くなっているみたいだ。
僕は買った新聞を強く握りしめ、店を出た。
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