第11話
ヴァン・スペルビアはこの一か月、気になっていることがあった。
ロイ・アヴェイラムのことである。
ヴァンは始業式の日に廊下でロイとぶつかった。
そのときはぶつかった相手がロイであったことに初めは絶望したが、彼が目覚めてから少し話してみると、どうも噂とは違う印象を受けた。
底意地が悪く、お菓子ばかり食べていて、平民を見下す。
兄のエドワードとは違い、アヴェイラム家の落ちこぼれらしい、というのが噂に聞くロイ・アヴェイラムだった。
医務室で話したときに名前を聞かれ、スペルビアである自分の名前を知らないロイに驚いた。
スペルビアの子がアヴェイラムの子に怪我を負わせたことがロイの親や他のアヴェイラム派閥の誰かに伝われば、その事実を政治的に利用されるかもしれないとヴァンは疑ったが、あの事故の話は次の日以降もいっこうに広まらなかった。
ぶつかった次の日から、ヴァンはロイのことが気になり、観察を始めた。
そこにはお菓子を食べ続けるロイの姿があったが、想像していたよりも食べ方が上品であった。
アルトチェッロたちの平民を見下す発言にもあまり反応しない。
もしかしてロイ自身は平民に対して、これといって思うところは無いのかもしれないとヴァンは考え始めた。
去年まで彼とクラスが同じだった生徒たちは首を傾げていたが、その他のクラスメイトは、意外と落ち着いた振る舞いをするロイに安心していた。
しばらくロイの行動を観察して過ごしたが、特に目立ったことはなかった。
授業は姿勢よく前を向いて真面目に先生の話を聞いているし、休み時間は取り巻きたちとお菓子を食べながら会話をし、何事もなく下校していく。
取り巻きたちにあだ名をつけるなど、子どもらしさも時々見せる、模範的な附属校生だった。
少しばかり変わった命名センスではあったが。
変わっていると言えば、外見もそうだ。
ヴァンは、ロイが1ヶ月で少しだけシュッとしたことに気がついた。
そのことを前の席に座る友人に伝えたが、「ヴァン君、なんかアヴェイラム様のことばっか見てるよね」と呆れられるだけだった。
ある日の夕食の時間。
「ロイ・アヴェイラムはいいやつかもしれない」
ヴァンは両親にそうこぼした。
それを聞いた二人は顔を見合わせた。
ヴァンの母は慎重に言葉を選んで彼に告げた。
「ヴァンちゃん。それはね、悪い人が雨の日に、寒さで凍える子犬に傘を差してあげたのを見て、必要以上に好意的に感じてしまうのと同じよ、きっと」
その例えに、ヴァンの父が眉をひそめた。
「やけに、具体的じゃないか。もしかして、悪い男を好きになったことがあるのか?」
「そ、そんなわけないじゃない。あなたが一番よ」
「やけに動揺しているな」
「もうっ! しつこい男は嫌われるわよ!」
「論点をずらすのはやましいことがある証拠だ。怒らないから白状しなさい」
「ほんとに?」
「ああ、もちろんだ」
「ほんとにほんと?」
ヴァンは、いつものように些細なことで痴話げんかをする両親の会話を右から左に聞き流しながら、さっさと夕食を済ませ、静かに席を立った。
母の言うことももっともだ。
考えてみれば、ロイは俺に対して悪事を働いてはないが、特段良いことをしてくれたわけでもない。
いいやつだと思ってしまったのは、それまでの印象との食い違いのせいだろう。
そう納得しようとするヴァンであったが、ロイが平民に対して悪口を言っているところを一度も見たことがないのは確かで、そこだけがどうしても引っかかる。
そうだ。
サルトル家のエリィが今度上流階級入りしてスペルビア派閥に加わるから、一足先に彼女を貴族席に招待してロイの反応を確かめてみよう。
それでロイのスタンスが分かるかもしれない。
学園でヴァンがエリィに計画を伝えると、おもしろそう、と言って快く受け入れてくれた。
商売人の
その日の昼休み、ヴァンはさっそく前の席の友人も巻き込んで作戦を決行した。
ヴァンたちは2限が終わるとすぐに集まって、早めに食堂を訪れた。
注文をして、給仕がランチを運んできた頃、ロイ一行が到着した。
「あ、もしかしたら、ルカちゃんが先に何か言ってくるかも」
「ルカちゃん?」
「ルーシィ・アルトチェッロ。あたしはルカちゃんって呼んでる、というか呼んでたんだ」
アルトチェッロ家はアヴェイラム派閥の侯爵家だ。
エリィが親しげにルーシィのことをニックネームで呼ぶことにヴァンは疑問を抱いた。
「ルカちゃん、あたしんちの店によく服買いに来てたんだ。でも
ヴァンがロイの方に目を向けると、給仕が注文を取り終わってテーブルを離れていくところだった。
ロイと目が合う。
「アヴェイラムが気づいた。あ、今アルトチェッロも気づいた」
「え、ルカちゃんどんな感じ? 怒ってる?」
「あー、こっちに歩いてきてる」
「え!? あたしどうしたらいい?」
「わ、わからない。アルトチェッロ次第かな」
「わ、わかった」
ルーシィはヴァンたちのテーブルの方へまっすぐ悠然と歩いてきた。
彼女の出方を見てから対応をしようと考えたが、ルーシィは予想外の行動に出て、ヴァンは驚く。
ヴァンがエリィに警告する間もなく、ルーシィがエリィに体をぶつけたのだ。
「いたっ……。る、アルトチェッロ様……」
「あらあら、平民ふぜいがどうして貴族席にいるのかしら。あなたのいるべきはあちらでしてよ、エリィさん」
ルーシィは高圧的にエリィに退席を促した。
エリィはさすがに体当たりを食らうとは思っていなかったようで、動揺して言葉を発することができないらしい。
「アルトチェッロ。彼女は俺が招いたんだ。あなたに退席を強制することはできない」
「わたくし、強制などしておりませんわ。ただ、この平民がいるべき場所を教えて差し上げただけのこと。ねぇ、エリィさん?」
エリィに代わってヴァンは言い返したが、ひらりと躱される。
「わ、わたしは……」
「彼女のいるべき場所はここで合っている」
「あなたには聞いておりません。スペルビアさん」
なおも言葉の出ないエリィをかばうヴァンだったが、ルーシィに言い返され、口を閉ざした。
ヴァンは、こういうときの女性には逆らってはならないと、父に対する母の言動を見て学んでいた。
エリィとルーシィのにらみ合いが続き、周りがざわつき始めたとき、ダンッと重い音が響き、場が静まり返った。
音のした方向を見ると、ロイが立ち上がっていた。
「エリィとやら、素直に言うことを聞いたらどうだ?」
ああ、やっぱりそうか。
アヴェイラムが平民をかばうわけないよな。
ヴァンは落胆した。
それだけ自分がロイに期待していたのだと気がつく。
「あ、アヴェイラム様……」
ロイの冷たい視線に
「アヴェイラム様。彼女は私の客人です。どうかご容しゃを」
ヴァンは一時の愚かな考えでロイを試すようなマネをし、エリィの立場を悪くしてしまったことを恥じた。
どうにか許しを請おうと胸に手を当て、
そんなヴァンの行動もむなしく、ロイに慈悲などなかった。
「招かれたのであれば平民だろうと問題はない。そういう暗黙のルールがあるのは確かだが、他の貴族が迷惑を被っているのなら大人しく引き下がるべきではないのか? アルトチェッロと、
ヴァンは、ロイがアヴェイラム派閥とスペルビア派閥の対立になるぞ、と言外に脅していると理解した。
そこまで話を大きくしたくないのなら、このまま引き下がれと彼は言っているのだ。
ルールに則った上で確実にエリィを排除しようとするロイの立ち回りの上手さに、こんな時にもかかわらずヴァンは感心した。
それと同時に、同い年でそれだけ頭の回るロイに対して悔しいという感情を抱いた。
しかしそれでも、目だけは決して逸らすまいとロイを見る。
ロイはふっと視線を切り、下を向いた。
ヴァンにはそのとき、ロイが一瞬だけ口角を上げて獰猛な笑みを浮かべたのを見た。
「とはいえ、我々も唐突すぎたな。……スペルビアの顔に免じて、今日のところは大目に見てやる。次からは気をつけることだ」
ロイはそう言い放ち、腰を下ろした。
それまでの出来事など、なんてこともないかのように彼は腕を組んで目を閉じた。
重苦しい空気を放つ彼の周りの生徒たちが、できるだけ音を立てないように慎重になっているのが見て取れた。
ロイの階級制度に対するスタンスを暴くつもりが、ロイが最後にエリィを見逃したことで、判断が難しくなった。
単に規則に厳格なだけだと言われればそうとも取れる言動だった。
だが、ヴァンは確信している。
ロイは最初から自分たちの企みに気づいていて、すべてが彼の掌の上だったということを。
彼が最後、はしごを外すように譲歩を見せたのは、必要以上に事を荒立てないためばかりでなく、ヴァンに一つ大きな貸しを作る目的もあったに違いなかった。
ヴァンが悔しさを滲ませながらロイを睨みつけたとき、彼は周囲に悟られぬよう一瞬だけ顔を伏せ、口角を吊り上げた。
シナリオ通りに事が進み、これから最後の仕上げをする直前、思いがけずこぼれてしまった捕食者の素顔。
ヴァンは
ロイには見逃されたが、ヴァンはエリィを連れて貴族席から離れた。
あの場に留まれる空気ではなかった。
結局、ロイについてはまだわからないことばかりだ。
しかし、ヴァンは今日、一つだけ確かな答えを得た。
彼がアヴェイラムの落ちこぼれだという噂は、真実ではない。
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