第76話 ジークリンデ、想う

 華々しい商業通りの輝きも裏路地までは届かない。細く薄暗い路地には、まだ開店時間になっていないカフェや酒場などが夜に向けひっそりと息を潜めて眠っている。


 頭の片隅に残っていた帝都の区画図を頼りに迷路じみた小道を何度か折れると、建物の壁に囲まれた行き止まりに辿り着く。そこで行われていた光景に、私は身体の芯に力を込める間もなく飛び出した。


「何をやっている!」

「あン…………チッ、誰だテメエは!?」


 ナイフを持った男と、壁に追い詰められた女性。何が起きているかは火を見るより明らかだった。


「助けて下さい! お願いします!」

「黙ってろ!」


 真昼だというのに辺りは夜のように暗く、男の表情ははっきりと伺いしれない。ただ薄影の中から蛇のように狡猾な目が私を縫い付けた。私は脚のホルスターから杖を抜き取りながらゆっくりと距離を詰める。


「私は魔法省の役人だ。ナイフを置いてその女性から離れろ」

「クソッ……どうして役人様がこんな所にいンだよ……!」


 男は私の言葉に大人しく従うような雰囲気ではなかった。ナイフを私と女性に交互に差し向けながら、私から離れるように…………いや、女性に近付くように後退していく。


「離れろと言っている!」

「きゃあッ!?」


 私の静止を振り切り、男は女性を羽交い締めにすると首元にナイフをあてがった。


「近付くんじゃねえ! こいつがどうなっても知らねェぞ!」

「くっ……」


 人質を取られ、私は足を止める。速度の早い魔法なら男の虚を突いて攻撃することが出来るかもしれないが、それを女性に当てないようピンポイントに制御する技量は私にはなかった。


 …………あいつは……ヴァイスは来ていないのか?


 後悔がじんわりと心を侵食していく。あいつと一緒ならこうはならなかったはずだ。


「いいか? 余計な真似すンじゃねェぞ! まずは杖を置いて両手を上げて貰おうか!」


 女性の悲痛な眼差しが私を突き刺す。

 ……死が首元に触れている彼女の恐怖は想像するに余りある。まずは彼女を落ち着かせることが最優先事項だ。


 私は杖を地面に落とした。カラン、という高い音が淀んだ空気を奔る。


「言う通りにしたぞ。女性を解放して貰おうか」

「まだだ! 杖をこっちに蹴れ!」


 杖を男の方に蹴り渡すと、男は女性の首にナイフを当てたまま慎重な手付きでそれを拾う。見掛け通り慎重で狡猾な男だ。


「チッ……」


 杖なしで魔法を行使することは私には出来ない。これで私の攻撃手段は完全になくなってしまった。それどころか、命の危険さえある。対ナイフの戦闘術は魔法省で習ったが、久しく実戦を離れた私には頭の中の知識でしかなくなってしまっていた。


「…………」


 私に出来ることはもう、ヴァイスが現れるのを待つことだけだった。せめてもの抵抗に男を睨みつけていると、女性は驚いたような表情で私を指差した。


「────お姉さん後ろッ!」

「ッ!? ぐッ……ァ……!」


 燃え上がるような痛みに、視界がチカチカと明滅する。


 捩じ切れたと錯覚した私の両手は未だ腕の先にくっついていたものの、背後から私の両手首を掴み上げている大きな手は、私に絶望を与えるには充分過ぎる見た目をしていた。手を覆い隠す黒い長毛は、怪力自慢の獣人族の特徴だった。


「おい、何やってんだよ相棒?」


 背中から野太い声が響く。それを受けて、ナイフの男は愉快そうに口の端を釣り上げた。


「へっ、残念だったな役人さんよォ!? 俺たちゃ二人組だったって訳だ!」

「何だと……!?」


 男の態度から単独犯だと決めつけていた。まさか背後の気配に全く気が付かないとは…………。


「役人だと? 相棒、こいつはどうする?」

「ぐっ……!」


 獣人が私の腕をぐい、と持ち上げる。獣人からすればそれは攻撃のつもりですらないのだろうが、その握力に私の腕は悲鳴を上げる。まるで魔物に噛みつかれているようだった。


「決まってんだろ…………おい嬢ちゃん、一人でこんな路地裏まで来るもんじゃねえぜ? 最近の帝都は物騒だからよ…………ま、もう後悔しても遅いけどな」


 男は持っていたナイフをこちらに投げ渡す。背中の獣人はそれを慣れた手付きで受け取ると、私の首元に添えた。男の手には既に新しいナイフが握られていて、女性の首元で鈍く光っている。


「ッ……は、はなせ……!」


 必死にもがくも、人間と獣人の腕力差に成す術もなく。

 ナイフを握った手に力が込められるのが────不思議なほどゆっくり見えた。


「じゃあ……死ねや」

「ッ…………ヴァイス……!」


 目を瞑り、愛しい男の名を呼ぶ。

 それが私が最後に取った行動だった。


 …………こんなことなら、あいつにちゃんと気持ちを伝えれば良かった。人生の最後がこんな後悔で終わるなんて。


 …………


 ……



「────呼んだか? ……ったく、意外に足速いのな、お前」



「グおァ……ッ!?」


 ────聞きたかった声は空から降ってきた。


「…………ヴァイスッ!!」


 目を開け空を見上げると、ヴァイスが屋根の上からこちらに飛び降りてくる。気が付けば獣人は地面に倒れていて、身体から煙を上げていた。


 …………学生時代は憎らしいほどだったヴァイスの実技の成績に、まさか感謝する日が来ようとは。あの頃の私に言っても、絶対信じられないだろうな。

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