水槽
ユウスケ
1.水槽
その日、私と友人がある小さなバーに入ると、初老の紳士が先客としてぽつんと一人、カウンターで酒を傾けていた。私たちはその老紳士から少し離れて席に着いた。そこからしばらくして、ある小さなきっかけがあり、加えて、酒の勢いも大いに手伝ったのであるが、気がつけば私たちはこの老紳士と三人の組となって、己が日常の出来事などを肴に酒を酌み交わしていたのであった。
「珍しいことと言えば」
たっぷりの酒に顔を上気させた老紳士がふと思い出したように言った。「ちょうど今面白い話がありますよ」
「話してくださいよ」
私は調子良くにまりとして、前のめりになって答えた。
これが、かの奇妙な話を聞くこととなったいきさつである。
実際その話は、そのとき私が想像したものとは、──例えば、ちょっとした笑いを誘うような小話だとかとは、大きく異なっていた。
後になって思えば、聞かぬ方が良かったと思える類のものであった。
ただ一方で、私は、その話に魔性ともいえる一種の魅力を感じていたこともまた認めざるを得ないのである。
――――――
実は私はちょっとした資産家なのですがね。これまた資産家の友人が1人いるのです。彼は大変な魚好きであったのですが、その彼がある日私に、
「水槽に飼われる魚はどのような気持ちであろうか」
と聞いてきたのです。曰く、不憫な気がしてならないようなのです。そこで私は、
「自分で体験してみるのが一番良かろう」
と答えました。
彼は意表をつかれたのか、はじめは驚いていたようですが、ついには、そうかもしれぬと納得しました。
では、どのようにすれば、水槽に入った魚の立場を再現できるでしょう。私たちはこの方法の相談にたっぷり数日を費やしました。そしてついには、次のように彼の水槽生活のルールを取り決めたのでした。
一 水槽は強化アクリル板を金具止めすることで作成し、面積は、五メートル×十メートルとする。
二 食事や衣服、寝具等衛生面については、私が滑車を用いて水槽内に投入するなどして管理する。
三 極力、私は彼と会話をしない。
四 水槽生活は一年間とする。
お察しのことかと思いますが、水槽生活と言っても、実際に水を入れるようなことはしません。限られた空間の中で、食事だけを与えられるという状態を作ろうというわけなのです。
水槽は、私の自宅の空き部屋の隅に作成し、私自身もその部屋で生活することにしました。期間については一番悩みました。わかっています。一年間は長いとおっしゃるのでしょう? 確かにそうです。しかしですね、魚の気持ちというものが、一体どれくらいの期間で感じられるか全く検討もつかないのですからね。それならば、試してみたけど分らなかったという最悪の事態を避けるため、最初から出来るだけ長めに設定しようとなったわけです。
え、普段の生活はどうするのかとおっしゃるのですか? まず、私や彼は特段仕事をせず不労所得のみで生計を立てている身ですから、その点は心配ありません。それに彼は独身で家族にも先立たれているのですから、この実験を妨げる条件になるようなものなど、何一つもなかったのでした。
さあ、準備が整って、その日がやってきました。
巨大な水槽に掛けておきました梯子を彼がゆっくりと登っていきます。そうして無事彼が中に入ると、私は梯子を外しました。これで、いよいよ彼の水槽生活のはじまりです。彼は水槽に入ると、そのちょうど真ん中に座り込みました。その時の彼の顔と言ったら、期待と不安の入り混じった、なんともおかしな表情をしておりましてね、私は思わず吹き出してしまいましたよ。
それからの彼については、ほら、このとおり逐一手帳に記録していきましたから。少し読み上げてみましょうか。
三日目、彼はただ寝てみたり、体を起こして考え事に耽ってみたりしていました。
いかんせん何もすることがないので、食事の時間が大層よろこばしく感じるようでした。
七日目、だいぶ疲れているように見えます。その言葉通り何もしていないはずなのですが、人というものは不思議なもので、運動などするよりも、ただ何もしないということの方が疲労に繋がるようなのです。
十五日目、彼は「もう分った。水槽とは牢獄だ。こんなにも苦しいとは思わなかった。ここから出してくれ」と言いました。私は、こんな短期間で魚の気持ちなど分かるわけがないと思いました。そもそも、人間は普段娯楽などに触れすぎているのです。今そのギャップが彼を苦しめているのです。魚に娯楽があるのかはわかりませんが、少なくとも人間ほどではないでしょう。彼にはまず、そういった娯楽に触れない生活が当たり前であると思ってもらわなければいけません。
私は、彼の飼育を続けました。
三十三日目、彼は暴れるようになりました。私を怒鳴りつけ、アクリルの壁を叩き、蹴るのです。これにはさすがに私も参りました。これでは生活に支障を来してしまいます。私は仕方なく生活する部屋を変え、水槽の部屋には彼の食事や洗濯などの用事以外では入らないようにしました。
五十一日目、彼は私に謝りはじめました。彼にとって水槽の外の私の存在は、たとえ会話などなくてもそれだけで刺激であったのでしょう。どうか、この部屋に戻ってくれと懇願するのです。
私は、口では答えませんでしたが、翌日から元どおり水槽のある部屋で生活することにしました。
八十七日目、彼は水槽の中をぐるぐる歩いては座る、ということを繰り返すようになりました。顔はどこかぶくっとして、くずれているように見えます。言葉を交わしていませんから、彼が何を考えているかは分かりません。しかし、ともかくその様子を見て私は、彼が魚に近づいたと感じました。
それからの彼に、あまり変化は見られませんでした。歩いては座りの繰り返しです。そんな彼でも、食事だけは変わらず楽しみにしているようでした。いや、楽しみという感情とは少し違うかもしれません。どちらかというと食べるのに必至という感じでしょうか。
毎日々々、透明な壁の中をただ彷徨うだけの彼は、客観的に見ても、本当に水槽の中を泳ぐ魚のようであったと思います。
――――――
私と友人は、この狂気談話に何も言えず、ただ聞き入るばかりであった。
老紳士はグラスに残ったマティーニをくるくる回し、もてあそんでいる。そして、
「今日で三百五十三日目ですので、もうすぐ約束の一年になります。今、彼は果たして、水槽にどのような感想を抱いているのでしょう」
そこまで言って「ただ…」と口をつぐみ、バツの悪そうな顔で小さく笑った。
「最近になって、まったく今更なのですが、まさかこの私の行いが、何かの罪に問われたりはしないかしらと心配になってきたのです。そう思うと、このまま飼育を終わりにしてしまっていいものかと、正直今、私は迷っているのです。確かに同意があって始めたことですが、彼が外に出て気力が戻ったとして、それから心変わりして警察に駆け込まないと、どうしていえましょう。思えば最初にその心配をしておけばよかったのですが、私はどうも、楽しそうなことが目の前にあると、考えをめぐらす前に実行に移してしまうところがあるものですから」
そこで、それまで独白するかのように坦々と話していた老紳士が、ひと息ついて思い出したように私と友人の顔を見た。私は何か言おうとして僅かに口を開けたが、適当な言葉が見つからず、助けを求めるようにして友人を見た。が、友人もまた、眉をひそめ老紳士を見つめるのみであった。
老紳士はその場の空気の異質さを察したのだろう。口元の笑みをさっと殺し、ちらと腕時計に目を落とすと、
「おや、いけない。もうこんな時間ですか。申し訳ありませんが、私はお先に失礼しますよ。今日は楽しい時間をどうもありがとうございました」
と言いさっさと会計を済ませ、逃げるようにバタバタと店を出て行ってしまった。
彼が去った後も、残された私たち二人は、手に持ったグラスを口に運ぶこともせず、ただじっと座り込んだままであった。
なんということであろう。彼の話が真実であるならば、今こうしている間も、どこかにある透明な牢獄の中を一人の人間が彷徨いつづけているのだ。そして、おそらく来ることのないであろう解放の日を、失った心のどこかで期待しつづけているのだ。
ふと、友人がグラスをすっと上げ、グイッと酒を飲んだ。
それを横目にして、私も酒をグイッと飲んだ。
アルコールの強いニオイが脳をぐらつかせた。
虚ろな中で、かの老紳士の話だけが妙にはっきりとして、頭の中をぐるぐると彷徨いつづけていた。
しかし、と、ふいに私の中にひとつの疑問が浮かんだ。老紳士はこのことを私たちに話してしまってよかったのであろうか。
話を聞いた私たちが、この後通報することとて十分考えられるではないか。
そう考えたとき、老紳士の何気ないあの言葉が脳裏に浮かんだ。
―私はどうも、楽しそうなことが目の前にあると、考えをめぐらす前に実行に移してしまうところがあるものですから—
途端、不安とも恐怖ともつかぬ何かが、私の体を駆け巡った。
私は椅子を蹴るようにして立ち上がると、すぐ後ろのドアを開け外に飛び出し周囲を見回した。
しかしそこには既に彼の姿はなく、ただ、夜の闇の中、いくつかの街灯の明りがぼんやりとして浮かぶのみであった。
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