裏切り勇者の誠実
冗
裏切り勇者の誠実
ジュダは若くして王国一の騎士と認められていた。
仲間の尊敬を集め、民衆からは畏怖とあこがれの視線を集めた。実力もあり、王からの信頼も篤い。国王直々に内密の任務を授かるのは、まさしくその証といえよう。騎士としてこの上ない名誉である。
その夜、人払いをした居室にジュダを呼びつけ、王は簡潔に命じた。
「魔王を捕らえよ。彼奴の元に潜り込み、信頼を得るのだ」
王国が傾いているのは紛れもない事実だ。
魔王の甘美な誘いに乗って国への忠節を捨て、国教信仰を裏切る民は後を絶たない。王の住まう都からほど近く、恐れ多くも国の中央につくられた魔王の巣窟「夜の町」は、みるみるうちに一大都市にまで膨れ上がった。民から税が入らなくなり、領主たちは働き手を失い、国神の威信さえ下がりつつある。王国を支える身分制度が底辺から崩れようとしていた。
国の教える神を信じず、王をもあがめず、ただ魔王とその教える魔神だけを奉ずる新しい信仰は、はしかのように王国をむしばみ始めていた。しかし新しい信仰など気の迷いのようなものだ。魔王という扇動者に操られ惑わされているだけだ。その魔王一人を滅ぼせば、たぶらかされた民は我にかえり、以前の信仰と忠誠心をを取り戻すだろうと王は語る。
忠義の感動にうちふるえ、ジュダはひざまずいた。
「かならずや成し遂げてごらんにいれます、わがあるじよ」
国王は太った指で杯を握りしめ、唾を飛ばして叫ぶ。
「かならずだ! 魔王をここへ。余が直々に手を下し、国家の威信を見せつけてくれる! 仕損じれば国がどうなるか、わかっておろう。首尾よく運べば、そなたは英雄じゃ。歴史に名が残るぞ」
翌朝ジュダは、騎士団を解雇され夜の町へ向かった。都では、彼が些細なことで国王の不興を買ったのだとまことしやかに噂が流れた。
紋章付きの盾と剣を返上し、丸腰に徒歩で都を出るジュダを、好奇の視線がまじまじと見送る。肩を丸め小さくなって、都の門をくぐる時、かつての同僚たちは、彼の足もとにつばを吐きかけた。王の後ろ盾をなくしたというだけで、ジュダの威信は地に落ちたのだ。
しかしこれも、任務が厳密に秘されている証しだ。むしろ良いことと見るべきだ。彼の将来に大いなる名誉が約束されているとは、誰も想像しないだろう。
夜の町は、都から北へ半日も歩けば容易にたどりつけるほどの距離にある。ジュダが着くより早く、噂が届いていた。
「よくきたね」
町の門に着くなり、門衛が歩み寄ってきて、ジュダに声をかけた。
「あんたを知っているよ。騎士だった人だろう。あの勝手な王様に、無理難題でもふっかけられたのかい? ……いやいや、いいんだ、なにも言うなよ。この町は、王の紋章を付けてない奴ならだれでも歓迎さ」
栄光の道から転落し、すべてを失った哀れな人物。ジュダの新しい肩書は、夜の町にこれ以上なくしっくりとなじんだ。街角で、広場で、親しみを込めて肩をたたかれる。思いがけないほど柔らかな笑顔がジュダを迎える。
「災難だったねえ、にいさん」
「こう言っちゃなんだが、あんた、これで良かったんだよ。都にゃ何もない。ここには人生があるのさ」
「救いの御手さまにはもうお目にかかったかい? あんたもお会いすればわかるよ。ここにきて正解だったと、ね」
農夫、職人、老婆にこどもたち。だれもがジュダに同情し、慰め、力になろうとする。これは新鮮な驚きだった。剣を帯び騎士の制服に身を包んだ昨日までのジュダは、民衆の畏怖の対象にこそなれ、親しく語りかけられることなどなかったのだ。それが……
「飲むかい」
それが、いま、この町の酒場では、みすぼらしい農夫が酒をおごってくれようとする。
「かたじけない……」
ジュダは複雑な思いで、杯を受け取った。身分の低い者から施しを受けるなど、天地がひっくりかえってもあり得ないはずのことだった。すくなくとも都では、酒場で初対面の男から受け取るものは警戒か無関心と相場が決まっていた。
農夫は屈託ない笑みを見せて言う。
「いいんだ。わしが、打ちしおれた見知らぬ男と、パンを分け合う。金貨百枚の寄付よりも、あの方にはそれがうれしいんだと」
「あの方?」
「導師様はわしらみんなを救ってくださるのさ」
この町で魔王はいろいろな呼び方をされていた。教主、救い手、神の御使い。民衆は魔王を語る時、うれしそうに、さも大切そうに言葉にのせる。完全に心を預けてしまっていることがわかる。
「その方に、私もお会いできるだろうか」
ジュダはできる限り控え目に尋ねてみた。
農夫が力強くうなずき、ジュダの肩を抱いて、促すように酒場の入り口を指し示す。
そこに、「その方」は来ていた。
魔王だ。
周囲から音が消え、空気が止まる。
酒場にいた者は、ジュダを除き全員がひざまずいていた。
汚れた粗末な麻の衣のすそから、はだしの足指がのぞいていた。伸びた髪と髭の奥の、きらきらと輝く目が、はかりしれぬ深淵をたたえてジュダを見た。
魔王は両腕を広げた。
そのとたん、ジュダは、常人と変わらぬ魔王の姿が急に大きくなったような錯覚に襲われた。
あまりの威圧感に圧倒されそうになり、指が無意識に腰のあたりを探る。そこに剣がないことに気付き、同時に、そのしぐさで相手に明確な敵意を示してしまったことに気付き、恐れおののいた。
殺されると思った。
緊張と恐怖とで立木のように青ざめ動けないジュダを、魔王は、腕をまわして抱擁した。
「ようこそ。われらは君を愛し、歓迎しよう──われらの神のもとに」
その声は力強くおだやかで、やはり何らかの魔性を感じさせた。
魔王はまるで無防備に見えた。
どんな自信のあらわれか、一人の兵も、従者さえ従えず、武器防具も一切身につけず、文字通り身一つで出歩く。その足取りは実に自然で、緊張も警戒も感じられない。
「この町で、君にできることを」
前歴はとうに聞き及んでいたのだろう。いきなり鍛冶屋を呼び、ジュダに引き合わせた。
「剣でも槍でも、必要なものをそろえなさい」
ジュダはさすがに面食らった。
「私に、武器を持てと?」
試されているのだろうか。思いがけぬ提案をして、ジュダの反応をうかがおうとしているのだろうか。
魔王の表情は読めない。その目は変わらぬ柔和な微笑みをうかべ、おだやかに沈黙する。なにも考えていないのか、完璧な冷静を装っているのか、そこから探り出せるものはない。まるで心を開いているかのように、恐ろしいほど透明きわまりないまなざしだ。
「耕せるものは耕し、戦えるものは戦うのだよ。鍬を振るうことも、剣を振るうことも、おなじ祈りの心から始まる。われらの神のもとに」
諭すでもなく、威圧するでもなく、それでいて肚の底に響くような、力強い声で魔王は語る。
「……なにもお聞きにならないのですか」
昨日まで王の紋章を身につけていた自分を全く取り調べず、疑うそぶりすら見せないことが、ジュダには恐ろしくてならなかった。なんとか真意を推し量りたくて、我知らず口をついた問いかけに、魔王は手を掲げて天を示した。
「神がすべてご存知であられる」
その指先に輝きがともるように見えたのは、ジュダの気の迷いであったろうか。
一瞬、目の前の存在を神そのものではないかと、疑いさえした。
いや、そう感じさせることこそが、魔王の魔王たるゆえんに違いないのだ。こうやって民衆を魅了し、操っているのだ。国を揺るがし王をおびやかす魔王が、神であるはずがない。そんなことはあってはならない。
ジュダは自らを奮い起すように、王の言葉を思い返した。
(彼奴の元に潜り込み、信頼を得るのだ)
できる限り、魔王に近づく必要があった。
「導師様、私は神のことを何ひとつ存じません。剣を振るうより、あなたのそばで学ばせていただくわけにはまいりませんか」
魔王は、見る者を引き込み捕らえるような深みをたたえたまなざしを、じっとジュダの顔にあてた。
ジュダは手のひらにじんわりと汗を握り、魔王の答えを待つ。
「では」
数秒がこらえがたいほど長く感じられたのち、魔王はあのおだやかな声をいささかも変えず答えた。
「君の望むままに」
ジュダの目の中から何を読み取ったのか。
魔王ははっきりと頬を緩め、微笑んでいた。
町はひと夜ごとにふくらんでゆく。
いまその勢いは誰の目にも明らかだった。毎日、毎晩、国のいたるところから民衆が逃亡してくる。都から、田畑から、国境を守る砦からも、家と務めを捨てて家族ぐるみ逃げてくる。魔王は毎日、広場や酒場を回り、その一人ひとりを出迎える。
「王様に税を取られて、もう馬の飼い葉しかねえのに、そのうえ国教の司祭様にも納めなきゃならねえなんて。俺たちに死ねというようなもんだ。そんな神ならお断りだよ、取られるだけの麦なんか作っても仕方ねえよ」
魔王の前に進み出て農夫たちが訴える。
「ここに来れば、導師様は税を取らねえと聞いたんだ」
魔王はするすると農夫に近づき、抱擁し、その額に口づける。
「わたしは王ではない。われらの神のもとに、わたしと君とは平等なのだ。君たちが望むなら、耕せる土地がある。町の人たちがわたしのために開墾してくれたものだ。そこで鍬を振るい、われらの神に祈りを捧げなさい」
だれが来ても、魔王のすることは同じだった。受け入れ、抱擁し、与える。与えられた民衆は魔王のためによろこんで働く。すこしでも余剰が出れば、皆が魔王に捧げる。魔王はそれを新しく来た者に与える。そうやって魔王は人々の感謝と尊敬を一身に集めていく。
また、悲しみや悩みを抱えた者は、魔王を訪れる。
魔王はひとつ残らずすべての相談に耳を傾けた。
「ほんのもう少し、一年早く、ここへ来ていたら。そうしたらあの子は死なずに済んだのに」
飢えで赤子を亡くした女が、魔王の衣にすがりついて泣き崩れる。
そうすると魔王は、ひとしきり女に胸を貸して泣かせてから、うながして天を示す。
「顔をあげなさい。肉体は魂の入れ物にすぎない。衣をまとっているようなものだ。それが滅んだからと言って魂が滅ぶわけではない。君のいとしい子は天にある。いま、神のひざでわらっている。子どもは、天から母親を見て、不思議がって神に問うのだ。かあさまはどうして下を向いているの、と。そして駄々をこね始める。かあさまのお顔を見せて、と。……さあ、涙を拭いて、顔をあげなさい。神が待っておいでだ。ひざの上で君の子をあやしながら、君が笑うのを待ってくださっている。子どもの魂はいま神のそばにあって、幸せなのだ。母が笑ってみせてやれば、安心して次の生へ向かうだろう」
低く、力強く、それでいて優しい魔王の声は、どんな悲しみも溶かす魔力を備えているようだった。それともこれは聖なる神の力だろうか。
ジュダは魔王の行うすべてを見守った。
魔王に抱かれ、その声を聞き、諭されたものは、見違えるように快活になっていった。皆が皆、魔王に心酔し、魔王の教える神に心酔した。幼い者も老いた者も、悩みを持つものも病を抱える者も、魔王のもとでなぜか幸せそうに見えた。
魔王自身が何を思い感じているのかは相変わらず謎のままだ。
ジュダが見る限り、魔王の生活に変わったところはない。貧しい民衆の暮らしよりさらに質素でつつましい暮らしぶりである、というほかには。
食事は一日一度、少ししかとらなかった。眠りは浅く、声をかけられればいつでも目覚めた。夜明け前には起き、夜半を過ぎても床に入ろうとしない。それなのに魔王は弱りもせず老いもせず、おなじ力強い存在感で民衆の前に立った。
ただ、魔王とジュダが言葉を交わすことはなかった。日常必要なことのほかに話をする暇はなかったから、当たり前だったかもしれない。その特別なまなざしもジュダに注がれることはなかった。いつも民衆のほうを向いていたから、当たり前だったかもしれない。魔王は常に多忙で、必要とされていた。
ときおり、王の雇った小者が町に紛れ込み、ジュダのもとに書簡と鳩とをもたらした。
書簡には、なんとかして魔王をおびき出せ、とある。毎度同じ内容だ。夜の町へ攻め入るだけの勇猛さと兵力を、すでに王は持たない。騎士団はジュダがいたころよりずっと小さくなった……ジュダの解雇をきっかけに、騎士たちも職と名誉を捨て、夜の町へ流れ始めているのだ。
ジュダは書簡を火にくべ、返書を書いて鳩に託す。
──まだ魔王の信頼を得るに至らぬゆえ、お待ちください。
毎度同じ内容だ。
ジュダには、魔王のすべてが謎だった。
やがてジュダは魔王の弟子として町の民に慕われるようになっていった。
民衆は彼を教使様と呼んだ。
ジュダは、そう呼ばれるたびに、ちりちりと胸が痛むのを感じた。
罪悪感だった。
王への忠誠を貫くより、夜の町に恩を返せばどんなに楽かと考える。
疑いを知らぬ夜の町と、何も聞かずただ受け入れた魔王。
最初から二心を持って彼らに取り入ったジュダは、神をも恐れぬ悪党になり下がったのではあるまいか。
なにより、ジュダを悩ませるのは、魔王の教えの公明さだ。
質素な生活をし、取らずして与え続ける、魔王の姿勢だ。
文字通りの搾取の上に成り立つ王国や国教と、見返りを求めず救いをもたらす魔王。はたしてどちらが真に悪であり、魔であるものか?
それとも魔王には、国を滅ぼす狙いがあるのか。聖人の振る舞いの陰に、陰謀を隠し持っているのだろうか。
ジュダは魔王を見つめた。ほころびを探すように、魔王の姿にその思惑を推し量る糸口を探し求めた。民衆と語らい教え諭すとき、食事をするとき、眠るとき、すこしでも手掛かりを見つけようと、食い入るように魔王の姿を見つめた。
そんな日が続き、重い悩みにむしばまれ、ジュダは騎士だった頃を思い出すのも難しいほど、別人のようにやつれきった。目にした人々が、教使ジュダ様はきっとわれわれの届かぬ信仰の高みにあって神の苦行に耐えていらっしゃるのだ、などと噂するほどだった。
ある夜、眠りの床に就く前に、魔王はあの日以来初めて、ジュダに語りかけた。
「お前は苦しんでいるのだね、ジュダ」
気づけばあの目がひたとジュダをとらえている。
ジュダはひざまづいた。
「あなたは、私のすべてをわかっておられます。しかし私にはあなたがわかりません」
深い深いまなざし。ジュダは魔王の目を見上げた。
呑み込まれそうな淵がそこにあった。探し求めた、魔王の思惟の入り口が、ジュダを招き入れている。
ジュダは心の底からうれしかった。どこまでも透明な目の奥に、疑いもさげすみもみつからないことが。どんなに見つめ通しても、魔王の中にあるものは揺らがなかった。
「ジュダよ。お前が何を望み、何を夢見ているとしても、わたしはお前の力になろう。それを忘れないでおくれ」
それはやはり、魔力を秘めた言葉だったのかもしれない。あるいは、神の奇跡だったのか。
ジュダはすべてがあらかじめ許されていることを知った。
これからどんな過ちを犯そうと、たとえ悪魔に身を売ろうとも、魔王はジュダを許し、あまつさえ救いの手を差し伸べるだろう。
水が土にしみわたるように、魔王の真意がジュダの心身隅々まで沁み込んだ。
「わがあるじよ」
ジュダはひざまずき、ひれ伏した。
「おゆるしください、わがあるじよ」
国がどうなろうと王がどうなろうと、もはやどうでもよい。大切なのはそんなことではない。
目の前の存在は奇跡そのものだった。
次の日ジュダは、すがすがしい思いで目覚めた。朝の光、粗末な衣類、手を清め喉を潤す手桶の水。そのすべてが美しく愛しく、すべてに神の愛が満ちていることがわかった。ジュダは光に祈り、空に祈った。愛に満ちた世界は彼の目覚めを祝福しているかに見えた。
それは完璧な朝だった。
永遠が約束された、特別な朝だった。
ジュダはこの世のすべてに感謝し、祈りをささげた。
気持のよい光が降り注ぐ中、背を丸めびっこをひいた老人がジュダを探してやってきて、麻袋を置いて行った。
ジュダは老人を抱擁し、ともに祈りをささげた。
袋には一羽の鳩と、王からの書簡が入っていた。
いつもと同じではない長い手紙は、すみやかな行動を強く求めていた。
──いまでなければならぬ。いま応じなくば、動くつもりがないものとみなし、犠牲を顧みぬ手段をとる。すなわち、町に火をかけ、一人残らず焼き殺すべし。
ジュダは愕然と立ち尽くした。
完璧な朝は、崩壊を待っていたのだ。
ジュダは丸一日、悩みとおした。
時間はない。今日のうちに鳩を飛ばさなければ、王は自ら民を殺す暴挙に出るだろう。
魔王が魔にあらず、王こそ悪であることは、いまや明白だ。
あの澄んだ目の偉大な人がこのことを知れば、自らすすんで命を差し出すのだろう。魔王の心をわかってしまった以上、あの人を殺すのはこの上もなく簡単で、だからこそ決してしてはならないことだった。
偽りの返書を書くことはできる。魔王をおびき出したと偽って、ジュダが魔王になり替わり、処刑の場へ出向く。しかし、しばらくは騙しおおせても、夜の町が栄え続けたならば結果は同じ。王の怒りはかえってひどく燃え上がる。
悩んでも答は得られず、夜は無慈悲にもすぐに訪れた。
人々のためにあるじを殺すか、あるじを生きながらえさせるために人々を殺すか。
打ち明ける決意もできず、妙案も浮かばず、せめてひとすじの明かりを求めて、ジュダは師の言葉を求めた。胸にあるのは単純で純粋な一つの問いだった。
「導師様……お聞きしたいことが」
あるじはジュダを見、微笑んだ。初めて会った日のように。
「お前が呼んでくれるのを待っていた」
葛藤に狂わんばかりのジュダを、魔王は一日ずっと見守っていたのだ。やっとそれに気づいたジュダは、自分の小ささに恥じいった。
「わたしはいま、お前のために耳を澄まし心を開こう」
許しを得て、ジュダはあの問いを口にする。秘密を語るように、そっと大切に言葉を選ぶ。
「私は、あなたの真の望みを知りたいのです……あなたの夢を」
魔王は深くうなずき、目を閉じた。大きすぎる物語のなかから一つの言葉を探すような、神秘の表情を見せた。そして目を開いて、ジュダには見えないはるか遠くを眺めやる。
「わたしの望みは、地上に王道楽土をもたらすことだ。だれもが神のもとに平等で幸福なあたらしい国をつくることだ。それがわれらの神の、はるか創世以前からのせつない願いであり、わたしが世に生まれた意味でもある」
せつない。
神に、せつなさがあることを、ジュダはこの時初めて知った。
「わたしの血肉はそのために、神より与えられたものだ。その夢の成就のためならば、よろこんでこの身を天にお返ししようと思う」
ジュダは、目の前の偉大な人が、間違いなく自分とおなじ人間であることを知った。
血肉があり、生死があり、望みがあり、喜びがある人間が、これほど神に近づけるのだと知った。
「わがあるじよ」
かすれる声で、ジュダは呼びかける。
「私の血肉を、おなじ夢にささげさせてください」
ジュダの尊いあるじは微笑んでいた。
その微笑みの中に、いま聞いたばかりの「神のせつなさ」を見たような気がした。
「お前の望むままに」
そしてジュダは、魔王と呼ばれた男を引き渡した。
「でかした、でかしたぞ」
以前よりさらに肥え太った醜い王は、高い椅子の上からジュダをほめちぎった。
「救国の英雄じゃ。誉れ高き勇者の誕生じゃ。このときをどれほど待ちあぐねたか。そなたに領地をやろう。金でも銀でも好きなだけやろう。男爵にしよう、いや、伯爵がよかろうな。ついに、にっくき魔王をわが手で討ち果たす時が来たぞ」
「ありがたき、しあわせでございます──」
ジュダの大切なあるじは丸太にうちつけられ、城壁の上にさらされた。がっくりと頭を垂れたその姿を、国王は手を叩いて嘲笑い、ぽたぽた垂れる血を眺められる場所での酒宴を望んだ。
そのままそこで魔王倒滅を祝うおおがかりな宴が開かれ、都じゅうの人に酒がふるまわれた。もちろん、魔王の哀れな死にざまを見せつけるための催しである。ジュダは宴の主役としてずっと王のそばで笑っていなければならなかった。
宴が済むとジュダのあるじはぼろぎれのように穴だらけにされ、火にかけられた。
煙は天へ立ち昇り、ジュダを地上へ置き去りにして消えていった。
夜の町は悲嘆に暮れた。
裏切り者の名は瞬く間に町じゅうに知れ渡り、嘆きとともに、怒りと憎しみを燃え上がらせた。
「仇を討て」
男たちは口々に叫ぶ。
「裏切り者には死こそふさわしい。天にましますわれらの神に、あの恥知らずを裁いていただこうじゃないか」
「そうとも、教主様へのはなむけに、裏切り者の血を捧げよう」
やがて男が一人、民衆の先頭に立ち、熱弁をふるいはじめる。
「われらの導き手の言葉をいまこそ思い出そう。できることを、望むことをせよと、あの方は仰ったはずだ。戦えるものはみな戦おう。おなじ祈りの心を胸に、剣を持つものは剣を振るい、鍬をもつものは鍬を振るい、われらの神の国を打ち立てよう。非道な偽王は倒れ、神の遣わした心正しき王が新しい国を立てるべきだ。そのとき、われらの教主様の理想はよみがえる。教主様の愛した教え子たる、他ならぬわれわれの手によって」
熱は高められ、ひとつの方向へまとめられ、激情の奔流となって町からあふれ出てゆく。
都を、ジュダを目指し、ひとつの国をうち滅ぼすほどの怒りの力が走り出す。
夜闇にまぎれ、ジュダは一本の縄を手に王城を出た。
都へ迫る鬨の声を背中に感じながら、反対の方向へ、影のごとく静かに滑り出ていく。
王は慌てふためいているだろう。祝いの酒に酔った衛兵が役に立つはずもなく、頼りの英雄の姿はすでにない。その救国の英雄が内心でどんな望みを抱いていたか知れば、卒倒するほど驚くに違いない。
ジュダの心は澄み渡っていた。
為すべきことを為し、あとは仕上げを残すのみ。
あるじの魂は、いま、神とともに天にある。焼きつくされたその血肉は、あの方の望みどおり、王道楽土の礎となるだろう。今夜、国は滅ぶ。夜の町を迸り出た人々は都の城壁を越え、王城も国教会ももろともに、呑みこみ、平らげてしまうだろう。あたらしい理想のもとに、この国は生まれ変わろうとしている。
ジュダは人々にみつからず逃げ出さねばならない。どうしてもそうしなければならない。それがジュダにできる最後の仕事だ。
万が一、王を飲み込む前に、怒りの奔流が裏切り者を手に入れ、仇討ちの目的を遂げてしまったら。そうしたら、人々の激情は頂点を越えて冷え始め、勢いを失ってしまうかもしれない。できる限り犠牲を少なく、一瞬で国を転覆させるためには、どうしても、ジュダは身を隠さねばならなかった。
そう、これは仕上げだ。ジュダ自身を、片付けてしまうことだ。
都を背に小一時間ほど歩き続け、ジュダは涼しげな木立を見出した。
黒々と適度に枝の生い茂る木立は、まさにジュダの探していた条件を備えていた。これならば、よほど真下に来て目をこらさない限り、容易には発見されないに違いなかった。
携えてきた縄を肩にかけ、ジュダは枝の上に登る。
背丈よりいくらか高い所にある太い枝に縄をかけ終わると、そのまま枝の間に腰掛けた。
ほんの少し、天が近い。
揺れる木の葉の隙間から、星の瞬きが見て取れた。
ジュダは神のもとに召されることを疑ってはいなかった。あのときのあるじの言葉と微笑みを信じていたのだ。ジュダはすでに許されている。偉大な聖人の心を通し、神の意志と通じ合ったいま、ジュダに恐ろしいものはない。肉の衣を脱ぎ捨てて天に帰る、そのときがやってきただけだ。
さいごに、ジュダは祈りをささげた。
──残される地上の人たちが、救われますように。地上が神の愛で満たされ続けますように。
神をも恐れぬ悪、裏切り者ジュダの名は歴史に深く刻まれた。
彼の真の望みを知る者は地上にはいない。
裏切り勇者の誠実 冗 @hara-joe
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