彼女と私は時給1万円の関係です

第1章

Prologue

 ――もう、いい加減泣き止んでよ。


 吐息混じりの苦しげな声が、目の前で蹲る黒髪の少女に向けて切実な願いを告げる。


 弱々しくも呆れたように小さく苦笑した声の主は、体の支えを一気に失ったように、フェンスにもたれながら地面に座り込んだ。


 口から吐き出される息は荒く、呼吸するたびに大きく肩が揺れる。

 今にも倒れてしまいそうな不安定さで、必死に意識を繋ぎ止めていた。

 頭から伝う血が目に入っても、それを拭い取る体力すら残されていない。


 そんな姿を見て、子どものように泣きじゃくっていた黒髪の少女はさらに涙を流した。


 ――大丈夫だから。あんた、どんだけ泣き虫なの……?


 あまりに長く泣き続けるものだから、呆れも笑いも通り越してもはやどうすればいいのかわからない。


 切られた頭や殴られた腹部の痛みも忘れて、涙で目を腫らす少女をなんとか落ち着かせる方法はないか、朦朧とする意識で考え始める。


 ――ごめんなさい……ごめんなさいっ……!


 冷静になる胸中とは裏腹に、黒髪の少女は懇願するように謝罪を繰り返していた。泣かせるようなことをした覚えはなかった。

 ここまで錯乱したように謝られては、どちらが危険な状態かわかったものではない。


 ――何で謝んのよ……。

 ――……あなたが死にそうだから。私のせいで……。


 出会ってからまだ日が浅い他人同然の相手に、これほど感情が揺さぶられるものだろうか。

 ただの顔見知りに対して、そこまで自責の念に駆られる必要はないのに。


 他人事のようにそう思いつつも、友達でもない少女を救うために体を張った自分も大概おかしな人だった。


 喧嘩には自信があった。

 昔からなにかと輩に絡まれることが多く、一回りも二回りも図体の大きい男が相手でも果敢に挑んでは逆に相手を泣かせていたほどで、これまで敗北を喫したことはなかった。


 だから今回もいけるだろうと高を括っていたが、さすがに複数人で得物も使われては、一筋縄ではいかなかった。


 それでも、彼女と共に命からがら逃げ出すことには成功したのだから、充分なお手柄だろう。


 ――……だから、大丈夫だってば。……もう行って。


 いつまでもこんな所で泣いていたら、追手に見つかってしまう。


 一刻も早く、この少女だけでも安全な場所へ避難させたかった。それなのに彼女は、一向に側を離れようとしない。


 どうにか説得しようにも、徐々に声を出すことも苦しくなってきた。


 意識が薄れていく。眠気とはまた違った感覚が、重く目蓋にのし掛かる。

 このまま眠ってしまえば、少しは楽になるだろうか。





 ――……ッ!!


 黒髪の少女は、絶望に目を見開く。

 彼女の呼吸がだんだん小さくなっていた。

 激しく上下していた肩も動きが弱くなっていく。かろうじて開いていた目も焦点が合っていない。


 危機的状況の中、最悪の結末が頭を過る。


 己の身を挺して助けてくれた彼女には、感謝してもしきれない。

 そんな命の恩人を目の前で失いたくはないのに、呼び掛けるための名前すら知らない。


 声の出し方を忘れたように言葉が喉につかえて、空気だけが口から抜けていく。

 死なないでと、ただ一言伝えることもままならない。


 手足が震える。無頼漢に襲われた時以上の恐怖に支配される。気が狂いそうだった。


 ――お嬢様!


 何もできない状況に打ち拉がれていると、悲鳴混じりの聞き慣れた声がした。


 おもむろに振り返ると、相手の顔も確認できないまま勢いよく抱擁された。

 無事で良かったと安堵する心中を表すように。少女が間違いなくここに存在していることを強く確かめるように。


 少女を抱き締める女性は、不安から解き放たれたようにそっと涙を浮かべた。


 顔を見ずとも、声や匂いでわかる。

 この人の隣が一番安心できるのだと本能が認識している。少女は女性の背中に腕を回し泣き付いた。お互いかける言葉もなく、ただ抱き締め合う。


 ひとしきり泣いた後、少女は弾かれたように顔を上げた。


 ――助けて! あの子が……。


 息の根が止まりそうなほど弱り果てた彼女をなんとかして助けなければ。視線を移した少女は、一瞬思考が停止した。


 いない。フェンスにもたれていた彼女の姿がなくなっていた。彼女がいた場所の地面に血痕だけを残して。


 少女は慌てて立ち上がり、周辺を見回す。

 しかし、人影らしきものは何一つ見当たらなかった。

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