鍵かおる

藤堂 有

鍵かおる

 明日の化学の小テストに向けて復習をしていると、机に置いていたスマホが鳴った。音に驚いて体がびくりと跳ね、椅子がガタンと大きく音を立てた。部屋には自分しかいないのに、恥ずかしい気持ちになりながら僕は元凶を手に取る。スマホのディスプレイに表示された送り主は、親友の香焼こうたきかおるからだった。


『誕生日おめでとう。明日お楽しみに』


 時計を見ると、23時55分。確かに、明日は僕──潮目しおめと言います──の誕生日だ。お楽しみに、とは何かプレゼントを貰えるのだろうか。返信しようと思ったが、僕はメールアプリを終了した。薫に気を遣う必要は全くないのだが、夜中に返信しては迷惑だろうと自分の中の良心が止めた。朝教室でお礼を言えばいいのだから。

 もう日を跨いでしまう。僕は化学の教科書を閉じベッドに潜った。考えることといえば明日の小テストだった。毎回真面目に復習をして臨んでいるのでそこそこ良い成績をキープしているが、救済問題として出題される、先生の好物であるコーヒーに関するおまけ問題については、未だ正解したことがなかった。二択なのに。

 やれやれと目を閉じると、一気に睡魔が襲ってきた。僕はすぐに意識を手放して夢の世界へと旅立っていた。


 翌朝早く目覚めた僕は、特に用事も無いのに7時30分には高校に着いてしまっていた。朝会まで、まだ1時間もある。

 スニーカーを脱ぎ上履きに履き替えようと、自分の下駄箱を開けようとしたところで異変に気付いた。普段鍵なんて掛かっていないはずの下駄箱の鍵が掛かっていて、扉が開かないのだ。扉を開けようとした拍子に、隙間に挟まっていたと思われるカラフルな色使いの小さなバースデーカードが足下に落ちた。

 カードには、こう書かれていた。


『誕生日おめでとう。フラン-2-イルメタンチオールを探せ』


 読める人間が限られそうな、ミミズがのたうったような筆跡には、見覚えがあった。ある人物が脳裏に浮かび上がる。──薫、お前の仕業だな。



 それから僕は下駄箱の前でしばらく棒立ちになっていた。

 フラン-2-イルメタンチオールとはなんだ。この名前に対し、自分の知識とつながるものが無かった。授業で聞いた記憶も無い。詳しくはないが、パソコン用語でも音楽用語でもなさそうだ。

 考えているうちに文字がゲシュタルト崩壊する。すると、崩壊した文字列の中からメタンという単語がふと浮かび上がった。これは化学で聞いたことがある。きっとフラン何とやらも化学物質だろう。理科室にヒントがあるかもしれない、と思ったので早速向かった。来客用玄関に置かれているスリッパを一足借りて。

 向かった理科室は別棟の2階で、本棟の昇降口からは少し距離がある。吹奏楽部の各パートがそれぞれ音出し練習をして不協和音になっているのを聴きながら、別棟への渡り廊下を歩く。各学年の教室や職員室が並ぶ人賑やかな本棟とは違い、別棟はあまり手入れされてこなかったのか、古く湿っぽくて、授業がある時以外は静かだった。ペタペタとスリッパが廊下を叩く音だけが鳴り響いていた。

 誰もいないだろうなと思いながら歩いていたが、案の定理科室は施錠されていて入れなかった。

 

 僕は困った末、昇降口まで戻ろうと本棟と別棟を繋ぐ渡り廊下まで引き返すと、長身の生徒が階段から上がってきた。スリッパの音に反応したのか、生徒は顔を上げる。

「あれ、潮目君だ。早いね」パンを口にくわえながら文庫本を右手に読む久遠先輩だった。

 久遠くおんしん。一つ上の高校3年生。先輩とは、些細ささいなきっかけから知り合った先輩なのだが、それは省略させてもらう。少し長めのボサボサ…無造作ヘアと、日本人には珍しい明るい琥珀色の瞳が特徴的な、気さくで頭の良い人だ。僕は密かに先輩の目を気に入っていた。

 何故か先生たちは了承しているようなのだが、先輩は自分の部屋と化している空き教室でいつも読書をしていた。帰宅部のはずだが、朝早く登校し1時間目の開始ギリギリまで過ごした後、放課後もやはり下校時間ギリギリまで過ごしていた。絶対他に何かしているはずなのだが、読書の一点張りなのである。他に仲の良い先輩がいないので、先輩とはこういうものなのだろう、と処理している。

 そんな先輩に助けを求めようか言いかねていると、「スリッパなんか履いてどうしたの」訊ねてくれた。僕は困ったふうに──いや、実際とても困っているのだが──経緯も含めて事情を説明した。琥珀色の目がすっと細まる。

「ふうん。職員室に行けば下駄箱の合鍵はあると思うけど、フラン-2-イルメタンチオールがあるところに行かないとないものがありそうだね。まさか誕生日プレゼントが下駄箱の鍵なんて訳ないし」

 先輩は続ける。「ところで潮目君。文明の利器持ってるんだから使いなよ」

「え?」何のことだと尋ねると、先輩は僕のブレザーの胸ポケットを指差した。「スマートフォン」

 すっかり頭から抜け落ちていた。

「たまに抜けてるよね。真面目な君のことだから『校内での使用禁止』を忠実に守ってる故のことかもしれないけど」

 僕は顔が赤くなるのを必死に抑えながら、スマートフォンの画面を開いて一生覚えられそうにない長い名前の化学物質を入力する。

「えっと。『フラン-2-イルメタンチオール。コーヒーやチョコレートの匂い成分の一つ』だそうです」

「うん、そうだね。早速行こうか。早くしないと朝会始まっちゃうし」

 久遠先輩はすたすたと歩き始めた。慌てて僕はその後ろについていく。まるで知っていたかのような口ぶりではないか。調べ損ではないかと少しむくれていると、前を歩く久遠先輩が思い出したかのように声を上げた。驚いて慌てて姿勢を正すと、振り向いた先輩は穏やかに笑っていた。

「誕生日おめでとう」


 再び理科室のある別棟へ行くと、先ほど来た時にはなかった香ばしい匂いが廊下に漂っていた。

「コーヒーの香りがしますね。やっぱり、場所は理科室で合っていたんですか」

「いや。理科室じゃなくて、こっち」

 先輩は理解室を颯爽と通り過ぎて更に奥の部屋──理科準備室の扉をノックした。すぐに理科教師である流川るかわ先生が出てきた。部屋からコーヒーの香りが一気に外へと流れ、僕の鼻腔を駆け抜ける。

 先生の専門は化学。僕も先輩も彼に教わっている。大学生の頃から使っているらしい白衣は、薬品によってできた染みと穴だらけでかなりくたびれていた。買い替えればいいのに。

 先輩の肩越しに部屋を覗く。そう広くない細長い部屋には、引き出し付きの事務机が窓に向かうように置かれ、両側の壁にずらりと並べられた古い戸棚が狭い部屋をより狭くしていた。戸棚はガラス戸になっていて、びっしりと詰め込まれた書籍や複数の化学物質の名前が書かれたボトルが見える。部屋の中央には、辛うじて数人が座れるよう配置されたテーブルと丸椅子があり、テーブルにはいくつかの実験器具と、ビーカーに入った湯気が立ち上がる黒い液体──コーヒーがあった。

「入れよ。朝会まであまり時間ないが」と先生は僕たちを招き入れると、コーヒーを出してくれた。

「ビーカーでコーヒー淹れてる人、初めて見ました」僕がビーカーを見つめていると、先生は笑った。

「最初は悪ふざけだったんだが、ウケが良くて毎日やってたら習慣になってな。でも、これで化学に興味を持っていただければ化学の教師としては嬉しいんだけどな。で、どうしてここへ?」

 僕が先生に朝のできごとを話す前に、先輩が部屋の一角にある戸棚にサッと近づき一本のボトルを取り出すと、テーブルに置いた。

「先生。これ、中身違いますよね?」置かれた薄黄色のプラスチックボトルには、『フラン-2-イルメタンチオール』と書かれたラベルが貼られていた。

 先生は勝手に戸棚の物を取り出すことを怒るどころか笑った。

「よく分かったな。そうだよ、中身はインスタントコーヒー。高校じゃまず使わない物質だから、分からないと思ったんだが」

 曰く、先生が顧問をしている科学同好会の生徒が入り浸って飲み食いしたりするので、勝手に飲まれないようにカモフラージュしているそうだ。

 プラスチックボトルは、太陽光に当てると色の濃いインスタントコーヒーがシルエットとなって見え、ぎっちり詰まっているのが分かった。蓋を開けるが、やはりインスタントコーヒーしか見えない。

 先輩は適当な容器──やはりビーカーだった──を借りて、ボトルの中身をザラザラと出すと、すぐに透明な袋が落ちてきた。袋には銀色の鍵と小さく折り畳まれた紙が入っていた。

「薫、よくこんな場所に隠したなあ」思わず溜息を漏らすと、先生が驚いた声を上げた。

「それ、薫がやったのか?」

「え?」先生が薫を名前で呼ぶのを不自然に思い顔を上げると、先生は頭を掻きながら苦笑した。

「従弟なんだ。教師と特定の生徒が仲良くしていると思われるのも嫌で、普段は関わらないようにしているんだよ。隠れてよくここへ来るんだけどな。もしかして、理科準備室に来た理由ってその鍵を探しに来たからなのか?」

 僕はようやく先生に事情を説明した。

「理科準備室の鍵は俺が持っているが、薫に貸すこともあったから、入るのは簡単だったかも。それにしても下駄箱に鍵かけるのはまずいな」先生は申し訳なさそうな顔をして「後で叱っておく」と付け加えた。


「部屋へ入るのが簡単だったなら、彼が先生の知らないうちにこれらを仕込むことも、そう難しくなかったかもしれませんね」

 先輩は僕や先生には視線を向けず、袋から出した鍵とメモ用紙を掌に出して全体を眺めながら呟いた。ブラインドの間から差し込む太陽光が鍵を輝かせていた。「それが下駄箱の鍵なんですね」と僕が訊ねると、先輩は鍵に注いでいた視線をこちらに向けた。

「いや、これは下駄箱の鍵じゃない。メモ用紙に『プレゼントは、ここに』とある。この鍵は理科準備室の中のものだよ」

メモ用紙に書かれた文言は、下駄箱にあったバースデーカードに書かれたものと同じ筆跡だった。先生もメモ用紙を覗く。「薫の筆跡だな。このミミズがのたうったみたいな文字は間違いない。でもこの部屋に関してはドアの鍵以外は鍵なんて掛けた記憶もないし、そもそもあったかすら怪しいぞ」

「たまたま鍵を見つけたか、そうでなければ複製したのでしょう。このような鍵は各メーカーが商品ごとに鍵番号を付番して管理しています」先輩は鍵の持ち手部分を指差した。メーカー名と小さく数字が刻まれている。先輩は続けた。

「鍵番号は対応する鍵穴にも刻印されています。鍵を紛失しても番号をメーカーに問い合わせれば、余程昔の家具でもない限りは鍵を入手できます。そして、この部屋でそのような鍵が付けられているのは──あそこ」

 先輩の長い指が差す先は、先生の事務机の引き出しだった。3段に分かれた引き出し真ん中の段には、確かに鍵穴があった。こんな雑然とした部屋をざっと見渡しただけだろうに、どこに鍵穴があるのかよく気づくものだと感心する。事務机に近づき引き出しの鍵穴を見ると、確かに鍵と同じ番号が刻まれていた。

「潮目君への誕生日プレゼントなんだから、君が開けなよ」先輩は鍵を僕の掌に載せる。少し照れ臭くなった。

 僕はすぐ鍵穴に挿して解錠した。何を引き出しに入れたのだろう。ドキドキしながら引き出しを開ける。先輩と先生も、その様子を見守っていた。

「あ」僕が声を上げる。屈んでいる僕の頭上から覗き込んでいた先輩は、珍しく驚いた声をあげた。

「誕生日プレゼント、まさか本当に下駄箱の鍵とはね」



 そろそろ下駄箱の鍵を開けて上履きを回収しないと、早く登校したのに遅刻になってしまう。先輩に続いて部屋を出ていこうとした僕に、先生はコーヒーを片手に声をかけた。

「今日の小テストだが、潮目だけ外し続けてるおまけ問題、やっと正解できると思うぞ」

 小テストのおまけ問題は毎回二択問題なのに、僕は一度も正解したことない。ん?ちょっと待った。先生の言いっぷりだと、みんな一度は正解しているのか?高校の教科書の知識ではどうにもならない、あの意味不明な問題を。そうだとすれば、二択を外し続けている僕は相当運が無い。

「薫がそこまで考えていたか分からないが、もしかしたらこれが本当の誕生日プレゼントだったのかもな、しょぼいけど。おまけ問題を外しても、潮目は満点取れるのにな。ま、頑張ってくれ」

 

 小テストは、復習のおかげか全問正解だった。その上、先生の言う通り僕は初めておまけ問題を当てて2点加算されたので、102点満点になった。

 その問題文とは、言わずもがな。

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鍵かおる 藤堂 有 @youtodo

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