遥か彼方にいる君は尊し

美心徳(MIKOTO)

第1話 過去より前を向く

「結婚して欲しい」

 自宅で食事を取りながら吉岡は唐突に彼女に求婚した。吉岡の彼女は竹原綾子と言い、大学時代の同窓生で同じ登山サークルの仲間で、付き合い始めたのは、互いに社会に出てからだった。吉岡の大学在学中に起業した会社が軌道に乗り、自信を付けて再度告白し、付き合う事になった。再度と言うのも、吉岡は大学時代から綾子を想い続けており、大学時代に告白をしたが、振られていた。

 付き合って10年、頃合いだと思った吉岡は事前に綾子が寝ている隙をついて婚約指輪を買う為に、紐を使って起きないように右手薬指を採寸して指輪を購入していた。10年も付き合っていれば、面と向かってサイズを聞き出せばいいのだろうが、断られるのが目に見えていた。理由は彼女の左手薬指と小指は欠損しており、現在は義指を付けている。

 大学時代二人は登山サークルで訪れた神住山で遭難しており、綾子の左手指欠損は、その時の凍傷による物だった。彼女が指輪を付けたがらない理由は、指に人の視線が行くのを防ぐ為で、ネイルもしなければ、人前で口を覆う事もしない。咳をする時は席を立ち上がって見えないようにするか、後ろに人がいないのを確認して後ろを向いた後に手で覆う。そのぐらい欠損した指に対してコンプレックスを持っていた。

 綾子の目の前にリングケースを差し出すと綾子は困惑した。

「結婚してくれるのは嬉しい。でも、私は指輪を付けられないのに買ってくれたの?」

「目を瞑って立ち上がって」

 吉岡はその事を失念していた訳では無い。綾子に問われると笑顔で綾子に立ち上がるようお願いした。立ち上がった綾子の手を握り、二人で歩き始めた。立ち止まると吉岡はそっと右手薬指に指輪を通した。

「目を開けて」

 指輪を付けてくれたのは感覚で分かった綾子だったが、目を瞑った理由が分からず、首を傾げながら目を開けた。目を開けるとそこは鏡の前だった。確かに指輪は右手指に付いている。しかし、鏡にはまるで左手指に付いている様に見える。そっと吉岡が綾子を後ろから首に腕を回して耳元で喋りかけた。

「二人で前を向いて歩いて行こう」

「でら、嬉しいがぁ。こんな指だもんで、結婚なんて出来んと思っとった」

 振り向いた綾子は顔を皺くちゃにして、口に手を当てて泣きながら郷里の言葉が咄嗟に出てしまった。綾子は幸せを噛み締めたが、あくる日の電話で一気に幸せな気持ちを壊されてしまった。


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