魔王

「随分ご機嫌ではありませんか、陛下?」


勇者の部屋を後にした私を皮肉るかのように冷ややかな声が回廊に響いた。


「…ペトラ」


声の主は灰色のローブを頭からかぶり、目元以外はベールで覆っている。


僅かに覗く褐色の肌と若葉色の瞳。


若くハリのある声は棘を含んでいた。


「ずっとそこで待って居たのか?」


彼女の視線は不機嫌な時のそれだ。


彼女の緑色の瞳が怒りの感情を含んでいることは見ただけで分かる。


長い付き合いだ。彼女の心は理解しているつもりだ。


彼女は長い杖を手に、つかつかと私に歩み寄った。


「当たり前です!相手は野蛮な人間ですよ!もし勇者が何かしら危害を加えてきたら…陛下は不用心が過ぎます!」


彼女は、行き先を言わずに遊びに行った子供のように私を叱った。いや、痴呆の徘徊老人の方が正しいかもしれない。どちらにせよ過保護だ。


魔王の補佐役を任されている彼女は、勝手に出歩く私を捕まえては執務室に戻している。


私はそこまで耄碌してないのだが…


「ペトラが人間が嫌いなことは知っている。だから同行させなかった。


彼はまだこちらの世界に来たばかりなんだ。


もう少し暖かい目で見守ってはくれないか?」


「無理です!


災厄をもたらす勇者なんて地下牢で残飯でも食べさせれば十分ではありませんか?!


わざわざ部屋を与えて、世話係にベティまで…」


「呼んだのは私だ。呼び寄せた客人にそれは無礼だろう?」


「それでも人間なんか…」


「ペトラ・アイビス」なお食さがる彼女の言葉を不快に感じ、彼女の言葉を遮った。


はっと息を飲んでペトラも押し黙った。


静かにだが、確実に、私の声は怒気を孕んでいた。彼女の提案は私を不快にさせるに十分なものだ。


「私に礼を欠く者になれと言うのかね?


魔王に…父親に向かってその口の利き方は如何なものか…私の不愉快は賢いお前になら分かるだろう?」


「も、申し訳ございません、陛下!」ペトラの僅かに覗いた顔から血の気が引いた。彼女は慌ててその場に平伏して詫びた。


魔王の怒気。


不死者から放たれた怒りのオーラは、並のものであればそれだけで心臓を掴まれたような感覚を覚え、最悪それだけで死に至る。


私は普段からできる限り、不死者としての凶暴性を抑えているが、ふつふつと湧く怒りの感情は私が凶悪な存在であることを思い出させる。


ペトラに恐怖を与えるには十分だったろう。


悪い事をした、と少しだけ彼女に罪悪感を抱いた。


「ペトラ」と娘の名前を呼んだ。


「は、はい!」


私なりに優しく呼びかけたつもりだが、彼女は平伏したまま引き攣った声で返事をするので精一杯だった。


この負の感情は、彼女に向けるべきものでは無い。心を穏やかにして、彼女に語りかけた。


「ペトラ、顔を上げなさい。


私がお前に不安を与えた事は詫びる。


それにお前たちの過去を知る者として、お前と弟の心の傷を抉るようなことをして申し訳なく思っている」


「…陛下」ペトラが言われるがまま顔を上げた。


彼女の動きに合わせて、深く被っていたローブのフードがはらりと落ちた。


フードの下から褐色の肌の、美しいエルフが現れた。


しかし、その容姿はエルフと呼ぶには些か歪なものとなっていた。


彼女のエルフを連想させる特徴的な耳が、半分を残し両方とも切り落とされていたからだ。


人間が彼女を奴隷にする目的で切り落としたのだ。


人間と違って、見た目が劣化しないエルフは娼館に高値で売れる。長く使える良い商品として、彼女らには価値があった。


人間の代わりにして弄ぶために、彼らは彼女の大事な耳を切り落としたのだ。


彼女はずっとそれを恥じている。ずっと苦しんでいる。


人間の欲が、彼女の姿も心も歪めてしまった。


「可哀想に…


お前の怒りや憎悪はもっともな事だ。


こんなに美しいのに…怒りに囚われて哀れな子だ」


嘆く言葉は彼女への慰めだけでなく、無力な自分を責める言葉だ。


魔王と呼ばれる存在でも、万能ではない。私に彼女は救えないのだ…


骨だけの腕を伸ばして、彼女の震える肩を抱き寄せた。


血の通わない体でも、養女むすめを抱き締めることくらいは出来る。


彼女たちのような存在が無くなれば…


そんな動機で引き継いだ玉座だ。


エゴだけでここまで来た。


人間という種だけが愚かにもこの世界を支配しようとしている。


元人間として、それを阻止し、1つでも多くの種を存続させるのが人以外を統べる魔王の使命だ。


そして、魔王を屠った勇者を召喚した罪滅ぼしだ…


「大丈夫だ、ペトラ。私がお前たちを護る。決して、同じ過ちは起こさせない」


「…本当に…できるのでしょうか?」


「出来るかどうかは分からないが、するしかない。そのために私を支えてくれるお前たちのような存在が必要なのだ。


勇者の存在には、今しばらく目を瞑ってくれ」


「あの勇者が、私たちとの共存を許すでしょうか?」


「彼は対話ができる人だ。いきなり殴りかかってくる人ではないよ」と言って、あの惚けた勇者を思い出した。


争いごととは無縁そうな青年が、私にとって都合の良いものに見えたのは言うまでもない。


彼は私の話を聞いてくれた。


会話が成立するのなら、我々の立場を理解してくれる事だろう。


現に、彼は私を受け入れて、握手まで交わしたのだ。希望はある。


元のように落ち着きを取り戻したペトラは、フードを手繰り寄せて、耳を隠すと、佇まいを直した。


彼女はもう大丈夫そうだ。


そう思って立ち上がると、彼女は私の傍らに並んで私を見上げた。


「陛下、一つだけお約束頂きたいのです」


「何かな?私にできることだと良いが…」


「外出する時と勇者に会いに行く時は、必ず私に教えてくださいませ。心配でたまりません」


「む、何だか子供のようだな…」


「お約束下さい」と彼女は私が頷くのを待っていた。


美女の願いを続けざまに断るのは悪い。しかも相手は可愛い娘だ…


「分かった分かった。


愛娘との約束だ、レクス・アルケミストの名にかけて守るとしよう」


やれやれと肩を竦めて約束した。


娘相手では幾つになってもわがままを聞いてしまうな…


「私の子供たちが、安心して千年暮らせる国を作るとするか」


今の勇者が没して、150年程の平和では安寧と呼ぶには短すぎる。


「まだ暫くはこき使われそうだ」そんな独り言を言いながら私は存外楽しんでいた。


枯れ果てたジジイの私がまたこのような大役を担うことになるとは…


元人間、アンバー・ワイズマン。


よわい457歳の大賢者はまだまだ眠れないようだ…

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