豊臣さいごの姫 🎠
上月くるを
前編🟢天秀尼の述懐
くにまつ。
この四文字がいつまでもどうしても忘れられない。
晩夏の
あにうえ。
そう呼び慣れないうちに、現世から消えてしまった。
それも京中引きまわしのうえ六条河原で斬られ……。
⚔️
兄・国松が生まれたのは慶長十三年(一六〇八)。
異母妹のわたくしは、その翌年に産ぶ声をあげた。
兄妹の父親はいまをときめく大坂城主・豊臣秀頼。
十六歳の城主には四つ下の正室・千姫さまがいた。
人形を抱いて江戸から嫁いで来た千姫さまからすれば、兄妹は許しがたい側室腹。
でも、あまりに幼い千姫さまは、そんな気持ちすら抱かれない純真さでいらして。
ちなみに、千姫さまのお父上・徳川秀忠さまは二代将軍の座に就かれたばかりで。
その将軍の御台所・お江の方さまは、わが祖母・淀殿の実妹という複雑な因縁で。
🐣
その千姫さまのお目に触れないよう、ひそかに町家で生まれた兄・国松は、祖母・淀殿のもうひとりの実妹・お初さま(若狭小浜城主・京極高次夫人)に預けられた。
因縁の子はすぐに養子に出され、小浜城下の
一方、その翌年、別の町家で生まれたわたくしは泉州岸和田城主・小出大和守吉政(父・秀政は秀吉の叔父)に預けられたのちに、重臣・三宅善兵衛夫妻に託された。
中継ぎとなった京極・小出両家には豊臣家から潤沢な養育資金が仕送りされ、両家からは豊臣家に子女の成長の報告がなされ、ふたつの物語が粛々と育まれていった。
🏯
かくて別々の場所で育てられた兄妹が大坂城で初めて対面するのは、家康と秀頼の緊張関係が崩れ、大坂冬の陣が始まった慶長十九年(一六一四)暮れのことだった。
*
じつはそれより少し以前、保身を図る京極家により卑劣な計画が実行されていた。
家康の嫌疑を恐れ、八歳の国松と乳母を小舟に乗せ遠くへ流し去ろうとしたのだ。
その計画を秘密裏に実行したのち、実妹のお初を徳川との和睦の使者に立てた淀殿から国松の成長を見たいと申し越しがあり、慌てて捜索して放浪の小舟を発見した。
だが、あくまで災いを避けたい京極家では、なかに国松を隠した長持ちに「京極殿御道具」と墨書し、傳役・田中六左衛門と乳母に付き添わせて大坂城に運び入れた。
*
一方、七歳のわたくし月姫は、女子であることから警戒がゆるかったものと見え、養い親の三宅善兵衛夫妻に付き添われ、大した咎めもなく表門から入城している。
境遇の激変に恐れ慄いていた兄妹は、父・秀頼と祖母・淀殿、それに、ことここに及んではと引き合わされた義母・千姫に温かく迎えてもらい、幼い胸を安堵させた。
🎭
だが、兄妹の生家であるはずの大坂城の生活は、呆気なく幕を閉じることになる。
元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣に敗れて、父・秀頼と祖母・淀殿が自刃。
兄妹は落城の直前に脱出したが、兄の国松はすぐに捕えられ、無惨にも京中を車に乗せて引きまわされ、罪人のように見世物にされたあげく、六条河原で斬首された。
わずか八歳の少年ながら武将顔負けの立派な最期で、家康の非を激しく責め立て、ふところの数珠をまさぐりつつ西方に向けて合掌し、静かに自らの首を差し伸べた。
このとき「お待ちください、若さまおひとりでは行かせませぬ!」絶叫して転がり出た傳役・田中六左衛門も斬首され、ふたりのために泣かない見物人はいなかった。
なお、罪人として処刑された国松と六左衛門主従の遺骸は、亡き秀吉の愛妾・松の丸殿(京極龍子)に引き取られ、京都誓願寺の自らの生前墓の横に懇ろに弔られた。
🩴
一方、乳母に付き添われたわたくしは、京都洛外に潜伏中を京極忠高に捕えられたが、千姫さまの懸命なご嘆願で延命し、出家を条件として養女にお迎えいただいた。
千姫さまと一緒に江戸へ行ったわたくしは将軍の御台所さまのお世話になったが、やがて、従前の約束どおり鎌倉東慶寺(円覚寺を本山とする臨済宗)に入山した。
前右大臣豊臣秀頼息女、ならびに将軍御息女千姫さまご養女という恵まれた立場で修行に励んだ末、寛永二年(一六二五)、十七歳のとき落飾して天秀尼を名乗った。
そんなわたくしに影のように寄り添ってくれた侍女が、じつは乳母の三宅善兵衛の妻女だったこともまた、桑名の本多忠刻さまに再嫁された千姫さまのご采配だった。
話が前後するが、三十三歳で没した主に遅れること半年で他界した侍女の宝篋印塔は天秀尼に寄り添って「臺月院殿明玉宗鑑大姉 当山天秀和尚御局」と刻印がある。
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わたくしが達筆……とな?
父上の血を引いていると。
――咲時は それともみえず 山桜 ふもとにしるき 風の色哉
柴の戸も 春はにしきぞ しきにける 花ふきおろす 峯のあらしを
(東慶寺蔵の短冊)
たしかに父・秀頼の書は豪胆にして流麗、また帝王学の習得、唐の『帝鑑図説』の復刻、和歌・連歌、馬術、槍術、弓術……まさに文武両道の
🍀
ちなみに、養母の千姫さまは本多家に再嫁したのちも有為転変に翻弄され、徳川家歴代の帰依篤い
宿縁の絆に結ばれた養母・天樹院さまとわたくし天秀尼、さらに妹とも思うご長女の勝姫さま(父上は本多忠刻さま)との交流は、それからも絶えることはなかった。
その象徴として、天樹院さまは東慶寺に故駿河大納言忠長さま(家光将軍の弟)の邸宅を移築して仏殿をご建立くださり、棟札に「天秀尼寄進」と記してくださった。
それはありがたかったが、家臣や乳母の思惑がらみで幼いころより不仲でいらしたふたりの弟君にお心を傷めていらっしゃった天樹院さまのお気持ちが切なくて……。
わたくし天秀尼が第二十世東慶寺住持に就任したのは、ちょうど三十歳のころで、駆け込み寺として知られていた同寺の新住持として、まる三年間、身命を賭した。
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