5(3)


 病院までの道のりが、やけに遠く感じてしまう。

 休日の道路は混んでおり、まだ朝の十時とは思えないような渋滞っぷりだ。

 急いでいる時に限って渋滞にハマるのは、車あるあるなのだろうか。

 運転中にスマホを触ることは出来ないのでメッセージ等は確認していないが、着信を告げる音は聞こえていないので無意味だろう。

――もしかして、私がお邪魔なんじゃ……?

 勢いに任せて出てきたは良いものの、病院が徐々に近づくにつれて、碧の心は昔から巣食う『弱虫』に蝕まれつつあった。

 自分じゃなくて、彼に連絡をしたのは、それはつまり……関係が切れていないということじゃ? むしろ碧とは遊びで、彼の方が本命なんじゃ? だってだって、彼は『男』だから。

――違う! 違うし! 智夏はそんな人じゃないっ!!

 頭を振って弱虫を振り払い、碧は漸く見えた病院の看板を睨み付ける。そして、どうやらこの渋滞がただの休日ムードのせいだけではないことを悟った。

「あー、事故やったんか」

 大通り沿いにあるこの病院は、西口が正面玄関に当たる。大通りに面した西口の手前で、どうやら事故があったようだ。大型トラックが横転しており、警官が交通整理をしている。なんとか直進はさせているが、病院への道は閉鎖されていた。ついさっき起こったような事故ではなさそうに見える。

 碧は仕方なく右折して、脇道に逸れる。この病院には駐車場への出入り口が二つあり、東口ならこの道からでも行ける。同じ考えの病院利用者の車数台と共に、碧が駐車場に入ると、すぐに見慣れた赤色が端の方に停められていることを発見する。

 少し躊躇してからその車に近寄っていく。躊躇した原因の青色の改造車が、まるで碧を威嚇するかのように赤色の隣に停められていたからだ。

 ゴクリと唾を飲む。車体の影から男の姿が見えた。昌也の兄だ。男らしい大きな手が、彼女の――車の前に板のようなものと何かの部品を置いていく。

 見慣れない物体に意識をもっていかれてしまい、気が付いた時には彼女達の正面まで車を動かしてしまっていた。

 こちらの接近に気付いた二人が視線を向けて、智夏が驚いたように「碧!」と声を上げた。その声に隣の男も「あ、噂の彼女? マジ?」と言っている。窓開けてないのに、二人共声が大きいんやから。

 とにかく、智夏が元気そうで安心した碧は、車を駐車することにした。年上二人に見守られながら、駐車する。男が後ろに素早くまわって誘導までしてくれた。やっぱり、兄弟揃って悪い人ではない、かも?

「智夏!」

 シートベルトを外して荷物なんてそのままに飛び出してきた碧のことを、智夏は人目も気にせず抱き締めてくれた。周りからしたら仲の良い女同士のハグにしか見えなくても、恋人同士の二人の抱擁だということを、隣の男は知っているというのに。

「智夏?」

 抱き締めて、わかった。

 彼女はまた、痩せている。明るい太陽の下だというのに、碧を見上げる顔色もあまり良くない。

「碧には、こんな姿見せたくなかったんやけどな……」

「……智夏……連絡なかった間、病院いたん?」

 ざわりと足元を駆け抜けた風が、駐車場を囲むようにして植えられた桜の枝を揺らした。

 舞い散る桜の花びらを見上げて、彼女はふっと零すように言った。

 その声はまるで微かに響く鈴の音のようだ。静かに心に寄り添うように、それでいてどこにいても聞こえてくるような凛とした声だ。

 彼女はとても、綺麗な声で――己の病気について答えた。

「うん……入院、してた」

 彼女の声は鈴の音のように――震えていた。それでいて、どこか落ち着いた気配も漂わせていた。諦めや自棄からくるものではない。

 そこには普段の彼女からいつも感じていた『力強さ』のようなものを感じた。

「……入院しても、治らないん……やんな?」

 自身の声が、弱々しい。病に侵されているはずの彼女よりも、その声はやけにか細く響く。

「うん……でも、エエねん。そのおかげで……自分の気持ちに正直になれたし。この病気になったこと、私は後悔してない」

「……うん」

 彼女の声が、震えた。熱を帯びて、震えた。

「でも……碧にはほんま、こんな姿見せたくなかった……」

 震えた声にはっとした時には、彼女の強い瞳から一粒の涙が零れていた。けっして泣きわめくことをしないのは、彼女のプライドのように感じる。一筋流れたその涙すら、真っ直ぐな彼女を表しているかのようだ。

「智夏はさ、どんな姿でもかっこいいよ。今だって、凄いかっこいい。私の自慢の恋人やで」

 ぎゅっと抱き締めてそう告げる。腕も、肩も、骨に当たる。心も瞳もこんなに強いのに、病魔に侵された彼女がこんなにも愛おしい。

「私……今絶対かっこ悪いけど、ほんまにかっこええって思ってる?」

「思ってるし! そうじゃなかったらこんな姿の智夏、好きやって思えへんし! 大切に守りたいって思ってるんは、智夏だけじゃないんやで!」

 そう笑って言ったら、とうとう智夏の顔にも笑みが差した。いつもの顔に近づいてくるだけで、碧の心臓は早鐘を打つのだから、自分も案外単純だと思う。

「そっか。なら次からは板とジャッキ、碧に頼もかな」

「え?」

「へ?」

 にかっと笑った彼女の言葉の意味がわからなくて、思わず間抜けな声を上げた碧。そしてその碧の反応に更に間抜けな声を上げる智夏。

 暫く無言の時が過ぎ、とうとう耐えきれないと言わんばかりに、昌也の兄が大笑いして言った。

「おい智夏、お前彼女に誤解されとるって気付け。彼女が言ってるんはお前の身体のことで、お前が言ってるんは車のことや」

「え? 車!?」

「へ? 碧、何がかっこいいって言ってたん? 亀さんなりかけた私の車のこと、慰めてくれたんちゃうん?」

――てか、亀って何!?

「今朝から正面で事故っとるやろ? こいつの車、車高低いから正面からやないと出れんのやけど、早く彼女に会いたいからって、俺にジャッキと板持って来させて東口から強引に出ようとしとったんや。マジで頭悪いやろ? こんな女でほんまにエエんか?」

 まだ笑いが治まらないという表情で、昌也の兄が説明してくれた。名乗りもしていないというのに、ズケズケと人の恋人のことをボロカスに言ってくれる。

「勢いよく出ろ、腹くくれとかこいつ言いおるんやけど、さすがに恋人に会いに行くのにそれはないなと思ってな。時間かかるからちゃんと出てから連絡しようと思ってん。心配かけて悪かった」

 しかしその口の悪さもお互い様なのだろう。二人の間に流れる空気は、悪友のソレだ。

「ううん、ええよ。智夏が無事なら、それで良いし……って、入院してたんやろ!? 体調はどうなん?」

「あー、それな。ちょっと薬が合わんくて血ぃ止まらんかったんやけど、念の為病院に一泊して薬替えたらバッチリ止まったわ」

「そっか。ほんまに良かったー。あ、えっと……」

「あ、俺? 優利(ユウリ)やけど、碧ちゃん、で合ってる?」

「はい。優利さんも、ありがとうございました。えーっと、私の恋人がご迷惑をお掛けして――」

「――おーおー、話聞いてたんと違うぐらいかましてくる奴っちゃなー。どうせクソガキ(昌也)から俺のことも聞いとるんやろー? 腹立つわー」

 言葉とは裏腹にその口元には悪い笑みが浮かんでいる。さすが愛しい人の悪友だ。こんな悪ふざけにもびくともしない。

「お幸せに」

 ふっと笑った顔は、気遣いの出来る弟に似ていた。

「当たり前やろ。こいつを幸せにするんは私の仕事やし」

 病的なまでの細腕に、強引に抱き寄せられる。そのままの勢いでキスを交わした二人の横で、優利はひゅうっと口笛を吹いた。

――やっぱり智夏はかっこいいで。

「大好き」

 周りの目なんて気にせずじゃれつく二人を祝うように、花びらがまるでシャワーのように舞い落ちていた。

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