第18話 山の神、煙狼フェンリル
翌日、神さまに会うため険しい山道を登りはじめたヨハネス一行。
少年の額からは、玉のような汗が光っていた。
「山登りというものがこんなにも大変だとは知らなかったです」
「天使さま、おんぶする?」
「何を言ってるですか! 女の子におぶさるなんて、そんなかっこ悪い真似しませんよ。僕はこう見えても皇子なんですから」
「天使さま、意地っ張り。でもかわいい」
昔から山菜などを採取するため山に入っていたロザミアとは違い、はじめての山登りにヨハネスは苦戦していた。
そんな彼が空を見上げてハッと閃く。
矢継ぎ早に腰に提げた剣――魔石をトントンと指先でノックする。
「精霊さん、エンジェルモードを発動してほしいです」
どうやら神の住まう山頂までひとっ飛びで行ってしまおうという魂胆らしい。
しかし、その考えは『この軟弱ものがァッ!』というフラムによってあっさり一掃されてしまう。
『そのようなことだから貴様は強くなれんのだッ! 貴様も甘やかすでないぞッ、いいなァッ!!』
『ま、それに関しては同感ね。天使ちゃんには悪いけど、これも天使ちゃんの為なのよ』
魔石を覗くと、ユイシスがごめんねとウインクをしていた。
「そんなぁ……」
項垂れるヨハネスを生暖かい目で見守る二人は、意外にも厳しかった。
落ち込むヨハネスの前方で、ロザミアが背に乗ってと身を屈める。それを無言で躱す少年。
「あ……」
しかめっ面とも泣きっ面ともつかない顔で遠ざかる背中を見つめる少女がなんともシュール。
『にしても、なぜこの俺さままでもが行かねばならんのだァッ』
「なにを言ってるです。歩いているのは僕なんですよ? 精霊さんは何もしていないじゃないですか。それなのにエンジェルモードで手伝ってもくれないなんて、ひどいです」
飛べなかったことが相当不満だったのだろう、膨れっ面のヨハネスが抗議の声をあげる。
「それに放っておいたら神さまは村人全員を殺すと言っているんですよ? 事態は一刻を争うんです」
『それがなんだと言うのだッ! 下等な
『あんたって本当にバカね。その中にはマルコスも含まれてるのよ。それでもまだ笑える?』
『うっ……』
ユイシスの的確な指摘にばつが悪くなったのか、フラムは石のような固い表情でだんまりを決め込む。
「まあ神さまにごめんなさいすれば済む話です。さあ、先を急ぐとしましょう」
そういった数分後には、
「とっても美味しいです!」
ヨハネスは眺めのいい滝の前で腰を下ろし、ロザミア特製サンドイッチを笑顔で頬張っていた。少し遅い昼食である。
『貴様ッ、言ってることとやってることが全然違うではないかァッ!』
『あら、天使ちゃんはまだ12歳なのよ? 少しくらい良いじゃない。それより見なさいよ。サンドイッチを頬張る姿がとってもキュート! できればあ~んしてほしいわっ!!』
『なにッ、まさかのされる方だとッ!? 勝手に予想の斜め上をいくでないわァッ!!』
『もちろんあ~んする方も捨てがたいし素敵なんだけど、幼さ残る少女にされるがままにされるところを想像してみなさいよ。ああんっ、考えただけでハートビート、胸が高鳴るわっ!』
『言っていることの意味はさっぱり分からんがッ、此奴の満たされた目は一体なんなのだァッ! って……そんなバカなッ!? 不覚にも謎の凄みによってこの俺に鳥肌を立てさせただとォッ!? 変態も極めれば覇道へと通ずるとでもいうのかァッ!』
地面に置かれた一振りを一瞥したロザミアが、「悪魔たち、賑やか」形容のできない妙な表情でぽつり感想をもらした。
それから崇拝する天使にアールグレイを差しだす。
「ありがとうです」
「天使さま、いい子。なでなで」
マイナスイオン溢れる穏やかな昼下がり、木漏れ日に照らされたロザミアがヨハネスの金髪を幸せそうになでつける。
そんな二人の頭上を、突如巨大な影が覆っていく。
「ん……?」
何事かと上を見上げる滝の頂上には、幌馬車よりも二回りも三回りも巨体な獣が、今にも襲ってきそうなほど攻撃的な眼つきで二人を見下ろしていた。
「おっ、狼ですっ!?」
慌てて立ち上がったヨハネスに、黒煙のような毛並みを逆立てた煙狼が荒々しい咆哮を放つ。
鼓膜が破裂してしまいそうなほどの凄まじい雄叫びに、二人は堪らず耳を塞いだ。
「なっ、なんですかこの狼っ!?」
「まるで、黒煙」
頂上にいたはずの煙狼は文字通り煙となり、あっという間に数十メクト下、二人の前方に移動していたのだ。
「天使さま、危ないッ!」
噛みつくような勢いで吠えたかと思うと、煙狼は鋭い牙を見せつけヨハネスに突っ込んでくる。
ロザミアは崇拝する天使を守ろうと、体を当ててヨハネスを弾き飛ばした。
「痛っ……ロザミア!?」
「くわぁぁあああ……!?」
ヨハネスの代わりに煙狼の体当たりをもろにくらったロザミアは、苦悶の表情を浮かべながら地面を転がった。
「ロザミア!」
勢いが止まり体勢を立て直そうと四つん這いになった瞬間、
「うっ……!?」
まるで鼠を捕まえる猫のように、煙狼が前足でロザミアの背中を踏みつけた。
ロザミアは煙狼によって動きを封じられてしまう。
「僕のせいです。すぐに助けないとっ」
焦りの色を隠せずにいたヨハネスが腰の剣に手を伸ばせば、
「あっ!?」
普段はそこにあるはずの聖魔剣が、今はないことに気がついてしまう。
腰を落ち着けるために剣帯から外していた聖魔剣は、先ほどまで座っていた場所にぽつねんと置かれていた。
(あんなところに……)
数メクト先にある聖魔剣がやけに遠くに感じられた。たまらず唇を噛むヨハネス。
(こうなったら一か八か精霊さんたちの元まで走り込むしかないですね)
ヨハネスが走ろうと思った矢先、
「動くなッ――!!」
なぞるようなヨハネスの視線に気がついた煙狼が先手を打つ。
「動けばこの人族の頭を噛み砕くでござるよッ!」
人の言葉を話す煙狼にヨハネスの体がビクッと強張り、無意識のうちに喉を鳴らしてしまう。
「天使さま、ローザに構わな――」
「黙れ小娘ッ!」
「うぅっ……!?」
「やめるです!」
足下のロザミアに力を込めた煙狼に、ヨハネスは降参だと両手を上げた。
「動かないから、彼女に乱暴しないでください!」
声を大にして懇願するヨハネスに、煙狼は犬歯を光らせ唸り声を上げる。
煙狼が威嚇を止めることはなかった。
(大丈夫です。言葉が通じるなら何とかなるはずです)
ヨハネスは意思疎通が可能であるならば、この状況を打破することは可能だと考えていた。
「僕たちは狼さんと争いにきたわけじゃありません。いにしえからからこの地に住まうという神さまに会いにきただけなんですよ」
「やはり貴様でござったかッ……。拙者の、この山を分断した命知らずはァッ―――!!」
「え……ええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」
憎悪に目を光らせてわなわなと声を震わせた煙狼のまさかの発言に、ヨハネスは雷に打たれたように大きく目を見開いた。
「狼さんが神さまだったですかっ!?」
まさかの神との対面にあたふたするヨハネスが居住まいを正せば、憤怒に震える煙狼がジュポッ! 宙に漂う黒煙と化した。
「へ…!?」
一瞬でヨハネスの眼前に移動した煙狼は、少年を目下に睨みつけては明確な殺意を放っている。
「噛み殺してくれるでごさるわァッ!!」
ヨハネスの眼前で嵐のような突風が吹き荒れた。
「逃げて、天使さまッ―――!?」
巨大な口が、剣の切っ先のような鋭い牙がヨハネスに襲いくる。
(あれ、ごめんなさいすれば神さまは許してくれるんじゃないんですか? ……あっ! そういえば僕、まだごめんなさいしてなかったです)
1秒後には噛み殺されてしまうという絶体絶命のピンチのなか、少年は非現実的な
神はすべてに平等で慈悲深い存在なのだと教えられてきた少年にとって、それは今一つ実感が持てない瞬間だった。
「嫌ッ、ダメ……」
少女は尊崇する少年の噛み殺される場面など見たくないと目を背ける。
『渇ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!』
刹那、それは大砲のように放たれる。
震える大気。
地響きを伴い大地が激しく揺れる時、世界があの男に畏怖の念を抱く瞬間でもある。
担い手がいなければただ叫ぶしかできない囚われの元魔王は、時に気合いだけで
フラム・ジェノバにとって神の所業を止めることなど、朝飯前である。
「――――!?」
声だけで生きとし生けるものの鼓動を止めてしまいそうな波動に触れた煙狼は、一弾指の間に少年の前から姿を消した。
煙狼はとっさに遥か後方に退避していたのだ。
「ロザミア、大丈夫ですか!」
「なに……今の」
呆然とするロザミアを気遣いながらも、ヨハネスはすぐに煙狼の姿を目で追った。
「え……」
ヨハネスは戸惑っていた。
あれほど巨大だった煙狼が仔犬ほどの大きさに萎んでいたのだから無理もない。
しかもおとなしく伏せの状態で
さらに嬉々とした様子で尻尾も振っていた。
「魔王さま!」
ドスの効いた声から一転、煙狼はしゃいだ少女のような口調で弾けるように叫んだ。
「んっ……ひょっとして精霊さんは神さまとお知り合いなんですか?」
『うーん』
聖魔剣を拾いあげたヨハネスが魔石を覗き込むと、フラムは口を真一文字にして考え込んでいた。
『しらんッ』
「そ、そんなッ!?」
突き離すようなフラムのひとことに、心が掻きむしられるように焦った煙狼は、この世の終わりでも見たかのように叫んでいた。
「魔王さま拙者でござる! 煙狼フェンリルでござるよ。1000年前にこの領地を魔王さまから――」
『しらんッ! 俺は獣臭いのは好かんのだッ』
「そ、そんな……拙者、獣臭くなどござらぬッ!」
『それはちょっと無理があるだろ、この愚か者めッ。貴様はどこからどう見ても獣臭さ全開ではないか』
「くそうござらぬッ! 拙者はお日様の匂いしかせぬでござるッ! そこのお主、拙者は臭くないでござろう? ほら、ちゃんとよく嗅いでほしいでごさるよッ!」
「ちょっ、ちょっと!?」
涙ながらに訴えてくるフェンリルに、ヨハネスは若干引いていた。
「なっ、臭わぬでござろう? 三日に一度はしっかり秘湯に浸かっておるゆえ、拙者はこの山で一番清潔でござる。ほら、さっさと魔王さまに拙者が臭くないと進言するでござるよ!」
「神さま、ちょっとくすぐったいですよ」
仔犬と化したフェンリルがこっちを見ろと舐めるたび、ヨハネスはくすぐったくて笑ってしまった。
その姿は飼い主にじゃれる仔犬そのものであった。
『あんた、いくらなんでもちょっと薄情なんじゃない? こいつは1000年もの間あんたの命令を守ってこの山に居続けたんでしょ? これじゃ報われないわよ』
毛先にいくにつれて色素が濃くなった髪を手で払いのけたユイシスが、呆れ口調でいう。
『仕方あるまい。こんな弱っちそうなペットを飼った記憶が俺さまにはないのだッ』
『弱っちそうって、あんたはペットに何を求めてるのよ。……まぁいいわ、なら聞くけど、過去にはどんなペットを飼ってたのよ?』
『カブトムシだァッ!』
『えっ、虫っ!? ……つーかこいつカブトムシに負けたわけ? いやいやいやカブトムシよりかはインパクトあるし強いでしょ! さすがに飼ってたカブトムシは忘れてもこれは忘れないと思うけど! てかカブトムシって、村人Aの子供じゃないんだからっ!!』
フラムのペットについてユイシスが全力でツッコミを入れている最中も、煙狼フェンリルは必死に臭くないとアピールを続けていた。
「ズルい、引っ付きすぎ」
「あ、こら、やめるでござるよ! これは大事なことにござる!」
ヨハネスから引き剥がしたロザミアは、フェンリルを胸に抱きかかえた。
「もふもふ」
呟いた彼女の口元がわずかに綻んだ。
「それにしても、なぜ魔王さまはその様な所におられるのでござる?」
ロザミアに抱きかかえられたフェンリルが、ヨハネスの手にする聖魔剣――魔石を不思議そうに覗き込んでいた。
『すべては浅はかなこのボンクラのせいだァッ!』
フラムが傲然といい放てば、『は?』むっと眉間にしわを寄せたユイシスが勢いよく足を振り抜き、立ち上がった。
『人のせいにすんじゃないわよ! このトンチキ魔族!』
『なッ!?
『元はといえばあんたが魔族を率いてマーディアル大陸を攻めたのが悪いんでしょ』
『バカを言うなッ! それを言うなら貴様も魔大陸に攻めいったではないかッ!』
『あたしは勇者だったからいいのよ! それが勇者たるあたしの使命なんだから』
『大義名分を掲げればなにをしても許されるわけではあるまいッ! それにそれを言うなら俺さまだって、魔王だったのだから支配領域を広げるのは当然ではないかッ!』
1000年分かり合うことのなかった二人が、今さらこうなった原因を追求したところで答えはでない。そもそも種族間戦争に理由などはないのだ。
どちらか一方が恐れた時点で、戦争の火種は出来てしまう。
恐怖こそが、生きとし生けるものを狂気へと誘う原因であり、狂気こそが人を魔族を殺戮者へと変えてしまう。
それでもそうなった原因のひとつあげるとするならば、互いに認め、分かり合おうとしなかった両種の傲慢さこそが原因ではないだろうか。
「あっ、そうです!」
ロザミアの胸に抱えられたフェンリルをなでていたヨハネスは、思い出したように声を発した。そして恭しく頭を下げる。
「神さまの山を斬っちゃってごめんなさいです。でも、実のところ斬っちゃったのは僕じゃなくて精霊さんなんですけどね」
「そうなのでござろうな。お主のような人族の子供にこのような所業が成せるとは拙者も思わぬ。我が主がなされた偉業であるならば、責めるのは筋違いでござろう。むしろ一つを二つに増やした偉業を讃える必要がござろう! 今宵は宴と参るでござるよ、小娘どもッ!」
「フェンちゃんの手料理、楽しみ」
「小娘? 僕は男の子ですよ」
不満そうなヨハネスを連れ、一行はフェンリルの住処へと向かうのだった。
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